【第7回】通訳翻訳研究の世界~通訳研究編~「通訳におけるリスク管理」

皆さん、ごぶさたしております。半年ぶりの「通訳研究編」です。久しぶりの登場にもかかわらず、突然のお知らせで恐縮ですが、このたび、仕事の都合で執筆者を交代することになりました。私が担当するのは今回が最後となります。そこで、最終回は、これまでのような「王道」の理論ではなく、私の専門である「通訳におけるリスク管理」について紹介させていただこうと思います。私が体験した具体例も盛り込んでありますので、ぜひ想像しながら読み進めてみてください。

ビジネスでは一般的
通訳翻訳研究者も注目

ビジネスの現場ではおなじみの「リスク管理」ですが、通訳翻訳研究の世界で、この概念を用いた分析を行っている研究者は多くありません。代表格と言えるのが、欧州翻訳通訳学会(European Society for Translation Studies)の前会長で、現在はオーストラリアのメルボルン大学で教えているアンソニー・ピムです。理論から実践まで、幅広い分野に精通している研究者ですが、今世紀初頭から、定期的に「通訳翻訳とリスク管理」をテーマにした論文を書いています。最初の十年ほどは、あまり大きな注目を集めませんでしたが、徐々に着目されるようになり、最近では複数の通訳翻訳研究者がこのテーマで論文を発表するようになりました(私もその一人です)。

そもそも、通訳翻訳におけるリスクとは、どのようなものなのでしょうか。ピムの論文では、通訳、翻訳ともにさまざまな実例を挙げていますが、今回は通訳の事例を見てみることにしましょう(翻訳については、参考文献に挙げた2005 年発表の論文 “Text and Risk in Translation” などを参照してください)。

通訳とリスクにまつわる事例として、ピムが挙げているのが、アフガニスタンに展開中の米軍に雇われていた現地通訳者の例です(Pym, 2016)。実際に英紙ガーディアンの従軍記者が撮影した動画(下図参照)をご覧になると、状況が把握しやすいと思いますが、話を進めるために、かいつまんで概要を説明します。

取材対象となったこの米軍部隊は当時、タリバンから頻繁に砲撃を受けていました。そこで、敵の所在をつかもうと、米兵たちは通訳者を連れて近隣の村に聞き込みに出かけます。ところが、村には人があまりおらず、ようやく見つけた老人は、「タリバンはどこだ」という米兵の質問には直接答えず、長く、わかりにくいたとえ話をはじめました。イライラした様子で、老人の長話が終わるのを待つ米兵たち。困った通訳者は、このたとえ話は割愛し、「奴らは山の向こうにいる」と断言します。さらには、歩きながら「あいつらは嫌いだ。何を聞いても間違った答えしか言わない」と村人の悪口を言い出す始末。米兵も、村人に対する不満を露わにし、最後には「この村を消してしまいたい」と吐き捨てるという、ある種恐ろしい内容です。

*https://www.youtube.com/watch?v=4yzxkE72vkAより。

会長の名前は「ハイリスク」
現場を降ろされる危険性も

戦場のように命に関わる状況でなくても、リスクは存在します。私が体験した例を紹介しましょう。現場は、とある外資系製薬会社の幹部を対象としたワークショップ。参加者は日本人が大半でしたが、外国人も数名おり、日本語から英語は簡易機材を使った同時通訳(いわゆるウィスパリング)、外国人の社長や役員の話は英日逐次で行うという案件でした。

通訳者は3人で、私がチーフを務めました。過去にこの会社の案件を担当した回数が最も多かったからです。会場はホテルで、今後のビジネス戦略について、グループワークなども交えながら議論していくような内容だったと記憶しています。概ねスムーズに進行していたのですが、社長の締めのあいさつで、ハプニングが起きました。

社長の話は、「最近米国本社に顔を出した際、本社の幹部と会って、日本法人の業績について高評価を得た」という、当たり障りのない内容でした。ただ、話に登場する本社の会長について、ファーストネームでしか言及しなかったのが災いしました。そのとき担当していた後輩通訳者は、一瞬、誰のことかわからなかったのでしょう。とっさに「本社の幹部」とごまかしました。
ところが、この話はさらに続き、会長の名前は二度、三度と連呼されました。抜け番で後ろの席に座っていた私は、2回目の時に、会長のフルネームと肩書きをメモに書いて担当者に渡しました。しかし、通訳の最中だった彼女に確認する余裕はありませんでした。3回目に会長の名前を訳さなかったところで、日本人の役員がたまりかねたように立ち上がりました。通訳席までやってきた彼女は、私の方を向いて、
「代わって」
と一言。すぐに交代しましたが、あの時の女性役員の冷たい目を、怯えていた後輩の顔を、私は5年以上経ったいまでも忘れることができません。

後輩の名誉のために言いますが、彼女は実力がないわけでも、準備をことさらに怠ったわけでもありません。ただ、米国本社の会長のフルネームを知らなかっただけです。会議自体は日本法人のメンバーだけで行われるものでしたし、資料のどこにも、会長についての記載はありませんでした。私がその名前を知っていたのは、過去に聞いたことがあったからに過ぎません。それでも、この固有名詞は、当日発せられた数多くの固有名詞の中で、最大級にリスクが高かった。ちょうど、通訳翻訳とリスクについて研究していたこともあり、「これはリスク管理の失敗例だ」と実感しました。

準備はリスクの高いものから
研究の学びを実践に活用

この経験を経て、私は以前にも増して、通訳をする上でのリスクを意識するようになりました。その後の案件では、「自分がクライアントだったら、通訳者が何を訳せなかったら最も失望するか」という観点で準備をする習慣が身につきました。例えば、大使館主催の公開セミナーであれば、仮にテーマが文化的なものであったとしても、主要閣僚やその所属政党、議会の構成は押さえておく。直近の首脳会談など、日本との要人の行き来も要注意です。全く出てこない可能性の方が高くても、出てきたときに訳せなかったら致命傷になりかねないものを優先的にケアする。それが、通訳準備におけるリスク管理ではないかと考えるようになりました。

もちろん、リスク管理が必要なのは準備段階だけではありません。訳出の最中にもさまざまなリスク管理が見られます。もし関心があれば、参考文献に挙げた拙稿を読んでみてください(無料の電子版はこちら)。同じサイトには通訳翻訳関連の論文が多数ありますので、ぜひいろいろ読んでみることをお勧めします。

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 最終回はいかがでしたか? 過去4回の「通訳研究編」が、少しでも皆さんの参考になったことを祈ります。次回以降は広島修道大学の石塚浩之先生が通訳研究を担当されます。今後ともご愛読いただければ幸いです。

参考文献
松下佳世「政治上の発言を通訳する際のリスク管理-記者会見の日英逐次通訳の考察を通じて-」『通訳翻訳研究』第15号.1-16頁
Pym, Anthony. 2005. “Text and Risk in Translation.” In New Tendencies in Translation Studies , ed. by Karin Aijmer, and Cecilia Alvstad, 69-82. Gothenburg: Göteborg University.
Pym, Anthony. 2016. “Risk Analysis as a Heuristic Tool in the Historiography of Interpreters: For an Understanding of Worst Practices.” In New Insights in the History of Interpreting, ed. by Kayoko Takeda, and Jesús Baigorri-Jalón, 247-268. Amsterdam: John Benjamins.


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松下佳世(まつした・かよ)

立教大学異文化コミュニケーション学部・研究科准教授(PhD)、会議通訳者

朝日新聞記者、サイマル・インターナショナル専属通訳者を経て、研究の世界へ。2014年9月から国際基督教大学教養学部准教授。2017年9月から現職。著書に『通訳者になりたい!ゼロから目指せる10の道』(岩波書店)など。講師を務めるサイマル・アカデミーのインターネット講座「基礎から始める通訳トレーニング」も好評。