【第5回】通訳翻訳研究の世界~通訳研究編~「努力モデル」と「綱渡り仮説」

皆さん、お待たせしました。半年ぶりの「通訳研究編」です。前回は主に通訳者養成のために生まれた「意味の理論」を取り上げました。今回は、同じく通訳訓練と深いかかわりのある、ダニエル・ジル(Daniel Gile)の「努力モデル(Effort Models)」と「綱渡り仮説(Tightrope Hypothesis)」を紹介します。

生みの親は仏英通訳者 日本語研究で博士号も

通訳研究を少しでもかじったことのある人であれば、必ずと言っていいほど知っている「努力モデル」と「綱渡り仮説」について詳述する前に、まずはその生みの親であるダニエル・ジルについて少しご説明しましょう。フランス出身のジルはもともと数学者で、その後、パリ第三大学通訳翻訳高等学院(ESIT)で会議通訳を学んだ変り種です。公開されている略歴によれば、言語学だけでなく日本語研究の博士号も持ち、若い頃は日本語からフランス語への翻訳についても研究していたようです。その後、通訳研究、なかでも通訳の認知的側面により強い興味を持つようになり、フランス国内の複数の高等教育機関で研究をしながら、通訳者の養成に深く携わるようになりました。「努力モデル」と「綱渡り仮説」が生み出されたのは、研究者として脂が乗ってきた1980年代のことです。

少し余談になりますが、伝統的な学問領域と比べて歴史が浅い通訳研究においては、著名な研究者や教育者がまだ現役で教えたり、時には通訳をしたりしていることが少なくありません。ジルもESITの名誉教授となり、今は教職から離れていますが、いまだに通訳者としては現役で、国際会議通訳者協会(AIIC)の名簿で検索すれば、名前と連絡先が出てきます。講演会などで日本にも頻繁に足を伸ばしているので、もし彼の研究に興味を持った方がいらっしゃれば、直接質問することも可能です。私も二人でご飯を食べに行ったことがありますが、独特のブラック・ジョークを受け流すことができれば、付き合いやすい人です。

通訳に必要なエフォートは? 等式を用いてモデル化

脱線はそのくらいにして、話を「努力モデル」に戻しましょう。努力モデルが考案された背景には、通訳において、誤訳や訳漏れなどの「エラー」がなぜ起きるのかという素朴な疑問がありました。通訳者は必要な訓練を受けた上で、十分に準備をして現場に臨む。にもかかわらず、通訳において「ノーミスの完璧なパフォーマンス」がほとんど見られないのはなぜなのか―。この疑問に答えるため、ジルは、通訳を行う上で必要なエフォート(effort)を特定し、それらをモデル化することを思いつきました。

ちなみに「努力モデル」という呼称は日本の通訳研究における定訳ですが、エフォートは、一般的な意味での「努力」というよりは、「通訳を行う上で必要となる各作業」といった意味あいで使われています。混同を避けるために、ここからはモデル名のみ「努力モデル」のままとし、具体的な説明の際には、カタカナの「エフォート」を用います。

それでは、最も典型的な同時通訳を例に努力モデルを見ていきましょう。実務者であり、教育者でもあったジルが、自らの経験と直感に基づき導き出した、努力モデルの核となる考え方は以下の通りです。

――通訳はある種の「心的エネルギー」を要求し、そのエネルギーは有限なものである。

――通訳はこの心的エネルギーのほとんど全てを動員し、ときに、利用可能な以上のエネルギーを要求する。このような場合、パフォーマンスは低下する。(ジル2012, p.199)

 

いかがでしょうか。表現が硬くて少し理解しづらいかもしれませんが、ジルが伝えたかったであろうことを私なりに理解すると、「通訳には認知的な処理が必要であり、そのためのリソースは有限である。ゆえに、認知的負荷が重くなりすぎると、エラーが起きる」ということかと思います。数学者でもあったジルは、この考えを等式にして分かりやすく示すことを思いつき、通訳の際に必要な努力を以下の4つに分けました。

① 「リスニングと分析(Listening and Analysis=L)
② 「発話産出(Production=P)」
③ 「短期記憶(Memory=M)」
④ 「調整(Coordination=C)」

一つずつ見ていきましょう。Lは耳から入ってくる音声情報を分析・理解するエフォート、Pは理解した内容を目標言語(Target Language = TL)でアウトプットするエフォート(訳出・デリバリー)、MはLからPにいたるまでの間その内容を記憶するエフォートで、この3つが中心的なものとなります。Cはこれらの3つを、文字通りコーディネートするエフォートを表しています。

この4つの要素を用いて、同時通訳(Simultaneous Interpreting = SI)に必要な努力を等式で表すと、

SI = L + P + M + C

となります。プロの通訳者は、限られた処理容量の中で、リソースを各エフォートに効果的に配分しながら、通訳という行為を行っているわけです(ちなみに、努力モデルには、よりエフォート数の多い逐次通訳のバージョンもありますが、紙幅の都合上、今回は同時通訳のみ扱います。基本的な考え方は同じです)。

通訳者は「綱渡り師」 飽和状態ゆえに失敗も

ところが、実際にはこの配分がうまくいかないことがあります。話の内容が難解で複雑だったり、強い訛りがあって聞き取りにくかったりした場合、そうでないときと比べて、Lにかかる負荷が大きくなるのは想像に難くないでしょう。同時通訳のときに、非常に早口なスピーカーにあたると、スピードを合わせるために、LだけでなくPにも大きな負荷がかかります。メモ取りが追い付かないほど大量の数字や固有名詞の羅列は、Mにも影響を及ぼします。結果としてエフォートが処理容量の限界を超え(飽和状態)、リソース配分のバランスが崩れて、誤訳や訳漏れといったエラーが起きてしまいます。

通訳におけるこのようなぎりぎりの状況を、ジルは「綱渡り」になぞらえ、「綱渡り仮説」と命名しました。この説を知って以来、私は同時通訳中に、長い棒を持ってビルとビルの間を綱渡りしているイメージを抱くようになりました。無風状態であれば、何とか渡り切れそうに思うのですが、事前に知らされていなかった専門用語や、機関銃のような言葉の応酬といった「突風」「強風」が吹き荒れ、今にも落下しそうになる(そしてしばしば実際に落下する)―。通訳経験のある方なら、容易に想像できるのではないかと思います。

こうした事態に対処するために、ジルは、訳出を遅らせたり、文脈から内容を復元したりといったテクニックや、パートナーの助力を得るなどの対処法(tactics)を挙げています。実際の状況に即した具体的な事例ばかりで参考になると思いますので、興味のある方はジル(2012)の第8章を参照して、日々の練習や実践に役立ててください。

ともに、「失敗しない綱渡り師」を目指しましょう!

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参考文献

武田珂代子著「努力モデル」『よくわかる通訳翻訳学』ミネルヴァ書房.160-161頁.

ジル,D(. 2012)『通訳翻訳訓練 基本的概念とモデル』(田辺希久子・中村昌弘・松縄順子訳)みすず書房.[原著:Gile, D. (2009). Basic Concepts and Models for Interpreter and Translator Training. Revised Edition. Amsterdam/Philadelphia: John Benjamins.]


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松下佳世(まつした・かよ)

立教大学異文化コミュニケーション学部・研究科准教授(PhD)、会議通訳者

朝日新聞記者、サイマル・インターナショナル専属通訳者を経て、研究の世界へ。2014年9月から国際基督教大学教養学部准教授。2017年9月から現職。著書に『通訳者になりたい!ゼロから目指せる10の道』(岩波書店)など。講師を務めるサイマル・アカデミーのインターネット講座「基礎から始める通訳トレーニング」も好評。