【第1回】通訳翻訳研究の世界~通訳研究編 「導管モデル」とは何か

はじめに

研究者には実務者も多数
現場で使える理論や概念も

皆さん、はじめまして。通訳翻訳研究者の松下佳世と申します。この連載は、通訳や翻訳に興味がある読者の方に、研究のおもしろさを知っていただきたくてはじめたものです。すでに通訳者、翻訳者として活躍している方にとっても、これからこの業界に足を踏み入れようとしている方にとっても、役に立つ内容を目指しています。

「研究」と聞くと、「所詮、実務とはかけ離れた机上の空論ではないか」と感じる方もいるかもしれません。しかし、通訳翻訳分野においては、理論家だけでなく、多くの実務者が現実の課題を解決するためにさまざまな研究を行ってきました。

この連載では、研究をしながら今も現役で会議通訳を続けている私が、実務者の目線で選んだ通訳研究の理論や概念を紹介していきます。なお、翻訳の分野については、実務翻訳の経験が豊富な関西大学の山田優(やまだ・まさる)教授が担当し、交替で執筆していく予定です。

研究との出会い

通訳の「約束事」がわからない
素朴な疑問から研究に関心

初回ですので、自己紹介を兼ねて少し私自身の話をさせてください。私は現在、立教大学異文化コミュニケーション学部・研究科で、通訳と翻訳を教えています。今でこそすっかり研究者ぶっておりますが、そもそも通訳翻訳研究に興味を持ったのは、自分がまったくの門外漢として、通訳の世界に足を踏み入れたのがきっかけでした。

私はもともとメディアに関心があり、大学を卒業してから14年間は新聞記者をしていました。入社前に学んだ大学でも、在職中に留学した米国の大学院でも、専攻はジャーナリズムでした。その後、思うところがあって新聞社を辞め、通訳学校で学んだのちに会議通訳者となったわけですが、もし、はじめから通訳者という職業しか知らなければ、おそらく研究にはまったく興味を持たなかったのではないかと思っています。

どういうことかと言いますと、いまでは当たり前のように理解している通訳の「約束事」というべきものが、私には最初まったく理解できなかったのです。例えば、新聞記者だった私にとって、英語から日本語への訳出の際、通訳者が金額の「ドル」を「円」に、距離の「マイル」を「メートル」に換算しなくてもいいという事実はとても意外でした。

私が知る限り、会議通訳、中でも同時通訳においては、特別な指示がない限り元の単位のまま訳出するのが一般的です。でも新聞記事の場合は、「1万ドル(約115万円)」のように、元の数字と単位の後に、換算したものをほぼ必ず付け加えます。同様に、誰もが知っているわけではない固有名詞を使うときは、簡単な説明を添えるのが当たり前だと思っていました(「ニューヨークの金融街ウォール・ストリートでは」といった具合です)。通訳訓練をはじめた当初は、私が訳出の際にしょっちゅう情報を付け足すので、講師の先生が不思議そうにしていたのをよく覚えています。

もし、学生にいま「先生、通訳をしているときにドルが出てきたら、円に換算した方がいいですか?」と聞かれたら、換算ミスを防ぐ意味も込めてこのように答えると思います。「通訳者の仕事は、原発者の話した内容を忠実に訳出することです。元の発言がドルならドルで、円なら円でそのまま出しましょう」

いまどきの学生は素直なので、この説明で納得してくれるかもしれませんが、当時の私は割り切れない思いを抱えていました。換算が比較的しやすいドルと円ならともかく、日本人にマイルで距離を伝えたところで、果たして通じるのか。わかってもらえないなら、通訳者として十分に役割を果たしていないことになるのではないか――。今思えば、このような疑問を抱きはじめた時点で、私はすでに通訳翻訳研究の扉を少し開けつつあったのかもしれません。

「導管」モデルを考える

通訳者は透明な存在?黒衣?
「そのまま訳す」ことの難しさ

ここからは私の例を離れて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。通訳者の方はご自身の経験を振り返りながら、まだ勉強中の方は実際の現場を想像しながら読み進めてください。

あなたは通訳者です。今日は、これまでに経験のない、はじめての現場に来ています。クライアントからは事前に資料をもらえたのですが、社内用語や略語が多く、意味がわからないところがたくさんありました。そこで、わからないところに付箋を付けておき、現場で担当者に意味をたずねました。すると先方は、「意味はわからなくていいので、そのまま訳してください」とつれないひとこと。あなたはクライアントを怒らせないように、そっとブースに戻りました――。

どうですか?通訳経験のある方なら、一度はこのようなやりとりをしたことがあるのではないのでしょうか。クライアントの言うとおり、略語を略語のまま出すことは可能です。IT系の仕事などでは、英単語をそのままカタカナにして伝えることもよくあります。でも、社内用語などの場合、その略語が製品なのか、施設なのか、あるいは事業グループなのか、システムの名称なのかわからないままでは、頭の中では全体像を描くことができず、言葉は合っているけど意味がわからないという状況に陥りかねません。

それにも関わらず、通訳者が「そのまま訳す」ことが可能だとする考え方の背景には、「導管(conduit)モデル」と呼ばれるコミュニケーションモデルがあります。言語学者マイケル・レディが1979年にその原型となる考え方を示したもので、図1に示されているように、情報の送り手がAという言語で話した内容が、そのままパイプのような管(=通訳者)を通る過程で元の意味を完全に保持しながら言語変換され、Bという言語で受け手に届く、というイメージです。

導管モデルによれば、通訳者は元の意味に何も足さず、何も引かず、何も変えないで機械のように訳出を行い、かつその存在は他者に意識されないことになります。この考え方に基づき、通訳者は「透明な存在」と形容されたり、見えてはいるけれども見えない約束になっている舞台の「黒衣」になぞらえられたりしてきました。特に、刑事司法の現場で、主に被告人とその他の当事者との間の通訳を行う「法廷通訳」の分野では、このような通訳者像が根強く存在しています。

通訳者の皆さんの中にも、クライアントのこのような期待を感じ、居心地の悪さを覚えたことがある人は少なくないのではないでしょうか。でも安心してください。80年代以降、導管モデルに代表されるような通訳者像は徐々に影を潜め、コミュニケーションの参与者としての主体的な役割に注目が集まるようになりました。このあたりについては、折を見て今後の連載で取り上げていく予定ですが、今日のところは、クライアントの期待の背景にある考え方を論理的に理解していただくことで、現場でのコミュニケーション改善や、イライラ解消につなげていただければうれしいです。

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いかがでしたでしょうか。今回は通訳における「導管モデル」をご紹介させていただきましたが、次回は、関西大学の山田教授が、実務者としての視点を交えつつ、翻訳研究の世界を案内してくださいます。どんな展開になるのか、ぜひ楽しみにしていてください。


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松下佳世(まつした・かよ)
立教大学異文化コミュニケーション学部・研究科准教授(PhD)、会議通訳者

朝日新聞記者、サイマル・インターナショナル専属通訳者を経て、研究の世界へ。2014年9月から国際基督教大学教養学部准教授。2017年9月から現職。著書に『通訳者になりたい!ゼロから目指せる10の道』(岩波書店)など。講師を務めるサイマル・アカデミーのインターネット講座「基礎から始める通訳トレーニング」も好評。

企画協力:日本会議通訳者協会

※『通訳翻訳ジャーナル 2017 AUTUMN』に初掲載。