【第20回】チャーリーの金融英語「The Moral Equivalent of War (戦争の道徳的等価物)」(2/2)
今回は特別編として、ウィリアム・ジェームズによる論文『The Moral Equivalent of War』(戦争の道徳的等価物)の日本語訳をお届けします(全2回)。
本エッセイは、1906年にスタンフォード大学で行われた講演をもとに執筆され、1910年に雑誌McClure’s Magazine に発表されました。
なお、このウェブ版(翻訳版)とは別に、以下の日本語訳の他に英語原文と対訳もつけた「英和対訳版」(英語原文、英和対訳、日本語訳を一括掲載)を作成しましたので、お読みになりたい方は以下のPDF版をご利用ください。
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(20) 平和主義の空洞――「道徳的等価物」なき理想は軍事派に届かない
| 平和主義者は、対立者である軍事派の美的・倫理的観点を、より深く理解する必要がある。あらゆる論争では、まず相手の立場に入り込むこと――そうすれば、論点を移したときに、相手もそれについてくる――とJ・J・チャップマン*は言っている。軍事的規律の機能に代わるもの――たとえば「熱の機械的等価物である運動エネルギー」のような、「戦争に代わり得る道徳的等価物(moral equivalent of war)」――を平和主義者たちが提示できないかぎり、彼らはこの問題の本質を理解することはできない。そして実際のところ、彼らはたいていの場合それが提示できていないのである。平和主義者が描くユートピアにおいて規定された義務、罰、制裁はいずれも、あまりに穏当で迫力を欠き、軍事的気質の人々には訴えかける力を持たない。唯一の例外はトルストイの平和主義である。というのも、この立場は、この世のあらゆる価値に対して深く悲観的であり、本来なら「敵への恐れ」が動機付けとなるところを、「神への畏れ」がその役割を担うことで道徳的な緊張感を保とうとしているからである。しかしながら、われわれの社会主義的平和論者たちは、この世の価値を絶対的に信奉しており、「神への畏れ」や「敵への恐怖」に代えて、唯一、拠り所としているのは「怠ければ貧困に陥るかもしれない」という恐れだけなのである。こうした弱さは、私の知るかぎり、すべての社会主義的文献に広く見られる。ロウズ・ディキンソン**の見事な対話篇においてすら[原注2]、忌避されるような労働への嫌悪感を克服する手段として提示されているのは、「高い賃金」と「短い労働時間」だけである。一方で、人々は今も昔も変わらず、「苦痛と恐怖の経済」のもとに生きている――そして、われわれのうち「快適さと安心」のなかで暮らす者など、荒れた海に浮かぶ一つの小島のような存在にすぎないのだ。現代のユートピア文学全体に漂う雰囲気は、人生の「より苦い味わい」に敏感な読者にとっては、どこか甘ったるく水っぽく、締まりのないものに映る。実際、それはあらゆるところに行き渡る「劣等さ」の気配を帯びているように思われる。 *【訳注】J・J・チャップマン(John Jay Chapman, 1862–1933):アメリカの評論家。道徳と市民的責任の重要性を説き、社会的・倫理的課題に鋭い洞察を示した。対話の意義を重んじる姿勢において、ウィリアム・ジェームズとも思想的に通じるものがある。 **【訳注】ロウズ・ディキンソン(Lowes Dickinson, 1862–1932):イギリスの政治思想家・歴史家。対話形式の著作で理想社会や国際平和を論じ、国際連盟構想にも影響を与えた。 |
(21)誇りを生む軍隊、羞恥しか生まぬ理想――「劣等」の美徳化と失われた峻烈
| 劣等という観念はつねにわれわれと共にあり、それに対する容赦なき侮蔑こそが、軍人的気質の基調音である。「犬どもよ、貴様らは永遠に生きたいのか!」とフリードリヒ大王は叫んだ*。死を恐れるな、名誉のために命を捧げよという、軍人的精神の峻厳さを象徴している。これに対して、ユートピア主義者ならこう応じるだろう。「その通り。永遠に生きながら、社会の水準を少しずつ高めていこうではないか」――命を重んじ、漸進的な進歩に価値を見いだす、平和主義的な気質を映し出す応答である。今日において、われわれの「劣等者」に関して最も注目すべきは、彼らがまるで釘のように硬く、肉体的にも道徳的にもほとんど鈍感である、という点である。ユートピア主義**は、そうした者たちが柔弱で神経過敏になると見込むのに対し、軍国主義は、彼らが本来持つ鈍感さを保ち続け、それを「軍務」に必要な美徳へと変容させることで、劣等という汚名から彼らを救い出すのである。人間の資質はおしなべて、それを必要とする共同体の軍務に役立っていると自らが知ったとき、尊い意味を帯びる。その共同体を誇りに思えば思うほど、彼自身の誇りもそれに比例して高まる。こうした誇りを育む点において、軍隊に比肩しうる共同体は存在しない。しかし率直に認めざるを得ないのは、平和主義的・世界市民的な産業主義のイメージが、無数の良識ある人々の胸中に呼び起こしうる唯一の感情とは、かかる共同体に属すると思うだけで込み上げる羞恥にほかならない、ということである。リー将軍のような人物の目には、現代のアメリカ合衆国が、ただの膨れ上がった人間的脂肪の塊と映るのは、もはや明らかである。どこに行ってしまったのか――あの鋭さと峻烈さは? 自分の命であれ他人の命であれ、命を軽蔑しうる気概は?あの野性的な「然り」と「否」、無条件の義務はどこに? 徴兵はどこに? 血税はどこに? 人がそこに属することで誇りを覚えうる何ものかは、いったいどこに見いだせるのか? *【訳注】フリードリヒ2世(Frederick the Great, 1712–1786):プロイセン王。これは戦場で兵士を鼓舞するために発したとされる言葉であり、死を恐れず名誉のために命を捧げよという、軍人的精神の峻烈さを象徴する。 **【訳注】ジェームズがここで言うユートピア主義(utopianism)は、平和主義(pacifism)一般ではなく、直前の第20段落で批判した平和主義者たちの描く“ユートピア的理想像”を指している。 |
〈22〉戦争の終焉と国際秩序――平時の誇りと規律による秩序の制度化
| ここまでを準備として述べてきたうえで、私はいま、自らのユートピアを告白しよう。私は、平和の支配と、ある種の社会主義的均衡がしだいに到来することを、心から信じている。戦争の機能についての宿命論的見方は私にはナンセンスだ。なぜなら、戦争は特定の動機に基づく営みであり、他の事業と同様に慎重な抑制や合理的な批判の対象となるからである。そして、国家全体が軍隊と化し、破壊の科学が生産の科学と知的精緻さを競い合うとき、私は、戦争がその怪物的な性質ゆえに、不条理で不可能なものとなるのを目の当たりにする。行き過ぎた野望は、合理的な要求に置き換えられねばならず、諸国はその野望を封じるために一致して行動せねばならない。こうしたことが、白人国家に限らず、黄色人種の国々*にも同様に適用されるべきであることに、私は何一つ疑う理由を見いだせない。そして、文明諸国のあいだで戦争行為が正式に違法とされる未来を、私は待望している。 *【訳注】原文の”yellow”は20世紀初頭の人種区分用語。現代の基準では不適切だが、史実保存のため原文表現を保持した。 |
(23) 武徳なき国家の危うさ――侮蔑と攻撃を招かぬための礎
| これらの私の信念のすべては、私を明確に反軍国主義の陣営に位置づける。しかし、平和的に組織された国家が軍隊の規律の古い要素のいくばくかを保持しないかぎり、この地球上で平和が恒久的であるべきだとも、恒久的になるだろうとも、私は信じない。恒久的に成功しうる平和経済は、単なる享楽経済ではありえない。人類が多かれ少なかれ社会主義的な未来へと流れつつあるとしても、われわれは、この地球の環境が人間にとって部分的にしか安らかでないという現実の条件に即して、なおも集団として諸々の厳しさに身を服さねばならない。われわれは、新たな活力と剛毅さによって、軍人的精神がかくも忠実に固執してきた気概を持続させねばならない。武徳(勇気・規律・自己犠牲・命令への服従などの軍事的美徳)は持続する結合材でなければならない。大胆不敵、柔弱への軽蔑、私益の放棄、命令への服従は、今なお国家がその上に築かれる岩盤として残らねばならない。もっとも、もしわれわれが本当に、軽蔑にしか値しない国家に向けられる危険な攻撃的反応を望み、しかも周囲のどこかに軍事的な志向を持つ勢力の拠点が生まれるたびに攻撃を招き寄せるような事態に甘んじたいというのでなければ、である。 |
(24)軍事から市民へ――美徳の転換と新たな拘束力の可能性
| 軍事派が、勇気・規律・自己犠牲といった軍事的美徳は、たとえそれが戦争を通じて人類が身に着けたものであるとしても、絶対的かつ恒久的な人間的財産であると繰り返し主張することは、確かに正当である。軍事的様式で表れる愛国的誇りや野心とは、根本的には、より一般的な競争心の具体的な表出形態にすぎない。軍事的形態は競争心の最初の表出形態ではあるが、それが最後の形態であると考える理由にはならない。人々はいま、征服を行う国家に属していることを誇りに思い、隷属を免れる可能性があるならば、不平を言うことなく自らの身や財産を差し出す。しかし、自国の軍事以外の側面もまた、時の経過と教育と十分な働きかけによって、同様に強い誇りや羞恥の感情と結びつけて見なされるようにならないと、誰が断言できるだろうか。いつの日か、人々が、何らかの理想的側面において優れた共同体に属するためであれば、血税を払うに値すると感じるようにならないはずがあろうか。また、自分を所有する共同体が、いかなる点においても卑しむべきものであれば、人々が憤りを込めた羞恥に顔を赤らめるようにならないはずがあろうか。今日すでに、こうした市民的情熱を抱く個人は日ごとに増えている。ただ問題は、その火花に息を吹きかけて人口全体が白熱するに至るかどうかであり、そうなれば、軍事的名誉の旧来の道徳の廃墟の上に、市民的名誉の安定した道徳体系が自ずと築き上がるのである。共同体全体が信じるところは、万力〔物を強く挟んで固定する工具〕にかけるように、個人を強く拘束する。これまでわれわれを拘束してきたのは戦争という機能であった。しかし、いつの日か建設的な関心がそれに劣らず不可避なものと見なされ、個人に戦争とほとんど同じ重さの負担を課すことになるかもしれない。 |
(25)自然に対する軍務――全階級徴用による平等の実現
| 私の考えを、もう少し具体的に説明してみよう。人生が困難であり、人間が働き苦しみ痛みに耐えねばならない、というただその事実自体には、憤りを覚える理由は何もない。地球というこの世界の条件は、もとよりそう定まっているものであり、われわれはそれに耐えられるのだ。しかし、多くの人々が、出生や機会の偶然によって、労苦と痛みと困難と劣位だけを課せられ、休息もなく過ごす一方で、彼ら以上に値するわけでもない他の者たちが、この戦役のように過酷な暮らしをまったく経験せずに済む――このことは、自省的な人々の心に憤りを呼び起こしうる。ついには、ある者がただひたすら過酷な暮らしだけを強いられ、他の者がただひたすら軟弱な安逸だけを享受していることを、われわれすべてが恥ずべきことと見なすようになるかもしれない。そこで――これが私の考えなのだが――もし軍事徴兵の代わりに、若い人口全体を一定の年数にわたり「自然との戦い」に従事する軍の一部として徴用する制度があれば、不公平は均され、さらに数多くの公益がもたらされることになろう。剛毅と規律という軍事的理想は、人々の成長する内面に織り込まれるだろう。そして誰も、今の裕福な階級がそうであるように、人間が自らの住む地球との関係や、人間の高次の生活が永続的に厳しく苦い基盤の上に成り立っていることに、盲目であり続けることはなくなるだろう。石炭や鉄鉱の鉱山へ、貨物列車へ、十二月の漁船団へ、皿洗いや洗濯や窓拭きへ、道路建設やトンネル掘削へ、鋳造所やボイラー室へ、そして摩天楼の骨組みへと、われわれの裕福な若者たちは、それぞれの選択に応じて徴用され、子どもじみた未熟さをたたき直され、より健全な共感とより冷静な思考を身につけて社会へ戻ってくることになるだろう。彼らは血税を払い、人類が太古の昔から営み続けてきた自然との戦いにおいて自らの役割を果たしたことになる。彼らはより誇りをもって大地を踏み、女性たちからより高く評価され、次の世代にとってより良き父となり、より良き教師となるだろう。 |
(26)戦争の道徳的等価物――徴用による美徳の保持と新たな規律の展望
| そのような徴兵制は――それを要請するほどに高まった世論と、そこから生まれる数々の道徳的成果を伴って――、平和的な文明のただ中にあっても、軍事派が平和のうちに失われることを恐れる男らしい美徳を保持し得るだろう。われわれは、冷酷さを伴わない剛毅さを得、できる限り犯罪的残虐性を伴わない権威を得、そしてつらい労働を快く果たすことができるようになるだろう。なぜなら、その義務は一時的なものであり、現在のように人生の残りすべてを卑しめる脅威とはならないからである。私は「戦争の道徳的等価物」について述べた。これまでのところ、社会全体を規律づけることができる唯一の力は戦争であった。そして、同等の規律が組織されるまでは、戦争がその地位を譲ることはないと私は考える。しかし私は、社会的人間の通常の誇りや恥の感情が、ひとたびある程度の強度にまで発達すれば、私が描いた戦争の道徳的等価物、あるいは気概を保持するうえでそれと同じくらい有効な別の仕組みを組織することは十分可能である、という点について疑念を抱いてはいない。それは、時の問題であり、巧みな宣伝活動の問題であり、そして世論を形成する人々が歴史的な機会をとらえるかどうかの問題にすぎない。 |
(27)市民的気質の昂揚――ウェルズが見抜いた組織と進歩の逆説
| 人の軍事的特質は、戦争がなくても育成できる。不屈の名誉心と無私無欲の精神は、他の領域にも豊富に存在する。聖職者や医師は、それなりにその精神を身につけるよう教育されており、もしわれわれが自らの仕事を国家への義務的奉仕として意識するならば、誰もがそれをある程度必然的なものと感じるはずである。われわれは、兵士が軍隊に所有されるように国家に所有され、それに応じて誇りが高まるだろう。そうなればわれわれは、現在の将校がそうであるように、貧しくても屈辱を感じることなくいられるだろう。今後必要なのは、過去の歴史が軍人的気質を昂揚させてきたように、市民的気質を昂揚させることだけである。H・G・ウェルズは、例によって状況の核心を見抜いてこう述べている。「多くの意味において、軍事組織は最も平和的な活動である。現代人が、騒々しい不誠実な広告、押し売り、粗悪品混入、安売り競争、断続的雇用に満ちた街路から兵営に足を踏み入れるとき、彼はより高次の社会的水準に、奉仕と協力、そして比較にならないほど名誉ある競争の雰囲気へと足を踏み入れるのである。少なくともここでは、人々が当面の仕事がないという理由で雇用から放り出されて堕落することはない。彼らは、より良い奉仕のために養われ、訓練され、教練される。少なくともここでは、人は利己的な打算によるのではなく、自己を忘れて職務に献身することによって昇進するものと期待されている。そして、商業主義による研究への資金提供が実に脆弱で不規則であり、革新や科学的節約による利益獲得も近視眼的な小利のつまみ取りにすぎないのに対し、海軍・軍事分野における方法や器具の発展がいかに着実かつ急速であるかを見よ!ほぼ完全に商人の手に委ねられてきた市民生活の利便性の向上と、過去数十年間の軍事兵器の発達とを比較するほど皮肉なことはない。たとえば今日の家庭用器具は、50年前のものよりもほとんど良くなっていない。今日の住宅も依然として1858年の住宅とほぼ同様に、換気が悪く、浪費的な暖炉で非効率に暖められ、配置も調度も不格好なままである。築200年ほどの古い家々でさえ、今なお満足のいく住居であり続けているのだから、われわれの水準がいかにわずかしか改善していないかがわかる。しかし50年前の小銃や戦艦は、われわれが現在所有するものに比べて、威力においても、速度においても、利便性においても、到底比べられないほど劣っていた。今やそんな時代遅れのものを使用する者はいない。[原注3] |
(28)ウェルズの未来予見――恐怖を超えたジェームズの到達点
| ウェルズはさらに、普遍的軍務が現在ヨーロッパ諸国に教えている秩序と規律の観念、奉仕と献身、体力、惜しみない努力、普遍的責任感の伝統は、最終的な平和を祝う花火に最後の弾薬が使われたあとにも、永続する財産として残るだろう、と述べている[原注4]。私も彼と同じように考える。もしも、名誉の理想*や能率の規範をイギリス人やアメリカ人の気質に刻み込む唯一の力が、ドイツ人や日本人に殺される恐怖であるとすれば、それはまったくばかげた話であろう。恐怖は、まことに偉大である。だがそれは、軍国主義的熱狂者たちが信じ、またわれわれにもそう信じ込ませようとするような、人間の精神的エネルギーの高次の領域を呼び覚ます唯一の刺激ではない。私のユートピアが前提とする――軍事的栄光から市民的栄光への――人々の意識の変化は、コンゴでスタンリーの探検隊**を「肉だ!肉だ!」と叫びながら追った黒人戦士たちの心性と、いかなる文明国の参謀本部の心性との隔たりに比べれば、はるかに小さい。歴史は後者の隔たりが克服されるのを目撃してきた。前者の意識変化は、はるかに容易に成し遂げられるはずだ。 *【訳注】「名誉の理想」:当時の軍人や紳士社会において勇敢さ・忠誠・誠実・自己犠牲などを「名誉」とみなし、それを最高の価値とする理想を指す。ジェームズはこれを「能率の規範」と並列して、人間の気質に刻み込まれるべき道徳的要素として論じている。 **【訳注】「スタンリーの探検隊」:19世紀の探検家ヘンリー・モートン・スタンリー(Henry Morton Stanley, 1841–1904、英国ウェールズ生まれ)がアフリカ大陸で行った遠征の一行を指す。 [原注1]国際調停協会のために書かれ、同協会の小冊子第27号として初版が刊行された。また、1910年8月に McClure’s Magazine および同年10月のThe Popular Science Monthly にも掲載された。 [原注2] “Justice and Liberty,” N. Y., 1909. [原注3]” First and Last Things,” 1908, p. 215. [原注4]” First and Last Things,” 1908, p, 226. |
解説
『戦争の道徳的等価物』について
以下は、本論文の後世に与えた影響の評価についてまとめたものである(本解説の作成にあたっては、ChatGPT-5.0 や Claude Sonnet など複数のAIツールで事実関係を検証した)。
概要
『The Moral Equivalent of War(戦争の道徳的等価物)』は、ウィリアム・ジェームズが1906年にスタンフォード大学で行った講演をもとに執筆し、1910年に国際調停協会(Association for International Conciliation:国際紛争の平和的解決を目指す団体)のパンフレットとして刊行された晩年の主要論考である。ジェームズの社会思想・政治哲学を集約する位置を占める。
晩年の著作としての位置づけ
本論は、ジェームズのプラグマティズム(実用主義哲学:思想や理論の意味や真理は、それが経験や実践の中でどのように働くかによって決まるとする哲学)を政治哲学に応用した代表的文献である。軍拡競争が激化する時代背景の中で、戦争が人間社会にもたらす「規律・犠牲・団結」の機能を認めつつ、それを非軍事的・市民的な仕組みに転換すべきだと論じている。
同時代の反響
この構想は、平和主義団体や国際協調主義者に高く評価され、「単なる反戦論」を超えた現実的提案として注目を集めた。他方で「戦争の効用を過大視している」「戦争的美徳を平和に持ち込むのは矛盾である」との批判も当時から存在し、軍事的価値観の温存や西洋中心的文明観への疑念も呈された。
時代的制約への考察
ただし、これらの批判は1910年という執筆時期を踏まえて読む必要があると考える。当時は第一次世界大戦前夜で軍拡競争が激化しており、ジェームズは戦争を美化したというよりも、平和主義が見落としがちな「規律・犠牲・団結」という社会的機能を分析し、それを市民的仕組みに転換しようとしたのではなかったか。また、勇気や規律といった資質を戦争ではなく建設的な方向へ活かそうとする発想も、当時の厳しい国際環境を踏まえれば理解できる。当時は国際連盟も国際連合もまだ存在していなかったのである。
さらに、本論に見られる「男らしさ」や「文明国」といった表現は20世紀初頭の一般的価値観を反映したものであり、現代の基準で即断罪するのは適切でないと思う。奇しくも、このわずか4年後に第一次世界大戦が勃発し、ジェームズが論じた「戦争の恐怖」は現実化した。これは彼の問題提起の緊急性を裏づけたともいえると思う。
20世紀前半への影響
第一次世界大戦後の国際連盟や集団安全保障に直接つながったわけではないものの、「軍事力に依存しない秩序維持」という理念の先駆とみなされる。1930年代のニューディール期アメリカでは、失業青年を自然保護事業に従事させた市民保全部隊(CCC)が創設され、ジェームズの「自然に対する軍務」構想の具現例に近いと評価される。また、ジョン・デューイら同時代のプラグマティスト思想家に共有され、市民教育や公共奉仕の論理形成に一定の連続性を示した点でも重要である。
現代的意義と継続する影響
1977年4月18日、カーター大統領はエネルギー政策に関するテレビ演説で「the moral equivalent of war」という表現を用い、エネルギー危機を国民的課題として訴えた。この演説によりジェームズの構想は再び注目を集め、「国民的奉仕活動」や「市民的な共同責任(citizens’ responsibility)」をめぐる議論を刺激することとなった(https://www.presidency.ucsb.edu/documents/address-the-nation-energy)。
実際、アメリカのPeace Corps(平和部隊:1961年設立の海外開発援助ボランティア制度)やAmeriCorps(1993年設立の国内ボランティア奉仕制度)、さらに各国の国民奉仕制度は、ジェームズが提唱した「戦争に代わる市民的な共同努力」の構想を制度的に体現するものと評価されている。今日では「気候変動との闘いは現代における戦争の道徳的等価物(The Moral Equivalent of War)だ」といった表現のほか、パンデミック対応や災害復興といった課題をめぐる言説にも使われる。
他方で、「テロとの戦争」など戦争比喩を多用する政治的レトリックを批判的に分析する際の理論的枠組みとしても参照されており、ジェームズの論文は現代政治における「戦争の語彙」の功罪を考える上でも重要な参照点となっている。
まとめと評価
『The Moral Equivalent of War 』は強い影響力をもち、同時代の平和運動に現実的視点を与え、後世の公共奉仕制度・市民教育・平和学の理論的基盤を提供した。その思想は現代においても社会的結束と市民的責任を論じる際の重要な参照点であると同時に、その限界や矛盾を問う批判的議論の対象となり続けている。
English Summary (Overview of Reception and Impact)
William James’s essay The Moral Equivalent of War (1910), based on his 1906 Stanford lecture, applied pragmatist philosophy to political thought by acknowledging war’s social functions—discipline, sacrifice, solidarity—while proposing civic alternatives. Recognized by peace advocates as a constructive proposal beyond mere anti-war rhetoric, it also drew criticism for seemingly overvaluing war or preserving military virtues.
The essay later influenced initiatives such as the Civilian Conservation Corps during the New Deal, viewed as an embodiment of James’s idea of “an army against nature,” and resonated with contemporaries like John Dewey in shaping civic education and public service.
The phrase reemerged in political rhetoric, notably in President Carter’s 1977 energy speech, framing the energy crisis as a national challenge. Since then, it has been invoked in debates on climate change, pandemics, disaster response, and in critiques of war-related metaphors in politics. Short yet impactful, the essay remains a key reference point in discussions of civic responsibility and social cohesion.
訳者後記:翻訳を終えて
この論文は、20年ほど前に購入後すぐに諦めて本棚に放置していたJoyce Carol Oates編、Robert Atwan共編『The Best American Essays of the Century』(Houghton Mifflin Company、2000年)中の1本を、ChatGPTを使って読み始めた朝の勉強が出発点となっている。正確に言えば「意味を理解しよう」として始めた取り組みであった。
正直に打ち明けるが、本論文は、私の英語力では生成AIがなければ翻訳不可能だった。仮に可能だったとしても、辞書とインターネット検索だけでは何年を要したかわからず、途中で投げ出していたに違いない。生成AIを使って読み進める中で痛感したのは、一語一句の背後に広がる歴史や社会の背景をAIが即座に補ってくれる点である。以前には、それらをいちいち単語から調べて「調査」する必要があった。たとえば第5段落の「メロス島事件」のような古代史の挿話も、従来の方法では正解にたどりつくまでかなり時間がかかったに違いない。AIがなければ到底できなかった理解であり、その意味は、少なくとも私にとっては作業効率が100倍向上したと言えるほど大きな変化だった。
読み始めの頃は、毎朝15分ぐらいをかけ、メモを残しながら少しずつ進めた。半年ほどで「一通り理解した」ところで、マイク関根さんに「経済金融英語」と何の関係もないが、と話したところ、「面白い。たまには経済金融じゃなくてもいいじゃない」と励まされ、本格的に訳し始めた(訳させ始めた)。それがちょうど前回のTed Changの回が終わった直後の3月頃である。
2年ほど前の私の生成AI活用は単純で、ChatGPTに「訳せ」とプロンプトを書くとたちどころに訳出された文章にただただ感動し、内容をざっと理解していた。そのうち生成AIへの関心が湧いてきて、ChatGPTの翻訳をPerplexityやGeminiにチェックさせて修正すると意外と誤訳が見つかるのが面白く、試行錯誤しつつその過程をメモに残すようになった。
その過程で、生成AIの誤訳は、いわゆるハルシネーション(錯覚)やコンフュージョン(混乱)によるものだけではなく、生成AIが本来持っている性質に起因することにも気づいた。それへの対応策としてプロンプトを工夫し始めた。プロンプトを通じて誤訳を防ぎつつ訳語や訳文の一貫性を維持するというノウハウの蓄積は、関根さんから承認をいただいた今年の春頃から本格化した。「このエッセイを訳せ」という一文で始まったプロンプトが、今やA4で3ページ、56行を超えるようになった。
大きな解釈の間違いも「誤訳」と見なすならば、それでも誤訳は発見されるわけで、本論文の翻訳にあたっても試行錯誤を重ねながら、最終的にはChatGPT-4とClaude Sonnetによるクロスチェックの後、さらに生成AIに詳細な質問を重ねて解釈の間違いを見出したり、訳語や訳文の変更を見直させた箇所も百カ所以上ある。その意味では、本論文の翻訳は機械翻訳後編集(Machine Translation Post-Editing: MTPE)の成果ということになる。
以上のような経緯で読み始め、訳し始めた論文なので、読む前から私の方に「この論文の持つ歴史的意義」といった高尚な考えがあったわけではない。本論文の感想としては、読みながら訳しながら、世界情勢が不安定化し、米国でDepartment of DefenseがDepartment of Warに改称されるような時代において、「戦争」の持つ意味を人々が考えるのに資する論文ではないかとの思いが強くなった、と述べるにとどめておきたい。
翻訳者としての立場から言えば、生成AIの登場によって、英語以外のさまざまな国の言語で各種文献を読めるようになっただけでなく、今後は「古い文献の再発掘(訳し直し)」がどんどん登場しやすい時代になったとの思いを強くしている。
最後に、経済金融とは全く関係ないテーマにもかかわらず、本論文の翻訳の公開をお勧めいただいたマイク関根さんにお礼申し上げます。ありがとうございました。次回は再び経済金融用語に戻る予定です。
鈴木 立哉
金融翻訳者。一橋大学社会学部卒。米コロンビア大学ビジネススクール修了。野村證券勤務などを経て2002年に独立。現在は主にマクロ経済や金融分野のレポート、契約書などの英日翻訳を手がける。訳書に『フリーダム・インク』(英治出版)、『ベンチャーキャピタル全史』(新潮社)、『「顧客愛」というパーパス<NPS3.0>』(プレジデント社) 、『ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版)など。著書に『金融英語の基礎と応用 すぐに役立つ表現・文例1300』(講談社)。ブログ「金融翻訳者の日記」( https://tbest.hatenablog.com/ )を更新中。