【第19回】チャーリーの金融英語『戦争に代わるもの――平和の中で勇気と規律を育てる』(1/2)

今回は特別編として、ウィリアム・ジェームズによる論文『The Moral Equivalent of War』(戦争の道徳的等価物)の日本語訳をお届けします(全2回)。

本エッセイは、1906年にスタンフォード大学で行われた講演をもとに執筆され、1910年に雑誌McClure’s Magazine に発表されました。

なお、このウェブ版(翻訳版)とは別に、以下の日本語訳の他に英語原文と対訳もつけた「英和対訳版」(英語原文、英和対訳、日本語訳を一括掲載)を作成しましたので、お読みになりたい方は以下のPDF版をご利用ください。

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【著者について】

ウィリアム・ジェームズ(William James)は「近代心理学の父」と呼ばれ、アメリカ思想史にきわめて重要な位置を占める。特にプラグマティズム(実用主義哲学:思想や理論の意味や真理は、それが経験や実践の中でどのように働くかによって決まるとする哲学)の中心人物として知られる。
・生没年月日:1842年1月11日—1910年8月26日
・経歴・学説:ハーバード大学で心理学・哲学を講じ、「プラグマティズム」「徹底経験論」を提唱。宗教・社会・戦争と平和をめぐる論考も多い。

・主要著作:『心理学原理』(1890)、『宗教的経験の諸相』(1902)、『プラグマティズム』(1907)ほか。
・本稿対象:『戦争の道徳的等価物』(1910)—1906年のスタンフォード講演に基づき、1910年に国際調停協会(Association for International Conciliation)小冊子として初出。その後 McClure’s MagazineThe Popular Science Monthly にも掲載。

【目次】

— 著者について
— 本文

(1)軍事感情と理想の逆説――平和主義が成り立つ条件

(2)略奪と栄誉の起源――闘争心が美徳化するまで

(3)戦争の誘惑と現代人の本能――恐怖が生む魅力と栄光への執着

(4)最高の文明、最悪の暴力――ギリシア史の不条理

(5)暴力の合理化――メロス対話に見るアテナイの冷徹な理路

(6)永続する戦争――平和という名の競争と武装

(7)戦争の遺伝子――結束と英雄性を生んだ「血に染まった乳母」

(8)偽りの「平和」――準備こそが戦争である

(9)理念の衝突――平和主義と軍国主義、同床異夢の理想論

(10)「羊の楽園」への拒絶――軍国主義者が語る〈高次の価値〉

(11)戦争を選ばせる想像力――骨抜きの文明社会への嫌悪

(12)こうして彼らは言う――軍人的理想を絶やせば世界は平らになる

(13)「覚醒なき国は滅ぶ」――ホーマー・リーが描くアメリカの終焉

(14)太平洋の覇権と国家の崩壊――ホーマー・リーによるアメリカ敗北の予言

(15)伏兵のごとき脅威――われわれの無知が招きかねない敗北

(16)神が定めた試練としての戦争――すべての美徳が勝敗を決する

(17)国家を鍛える「恐るべき鉄槌」――戦争がもたらす選別と退化の分岐

(18)恐怖の時代から安寧の時代へ――退化を招く「解放」の逆説

(19)戦争の否定が抱える想像力の困難――「失われる舞台」への美的・倫理的抵抗

(20)平和主義の空洞――「道徳的等価物」なき理想は軍事派に届かない

(21)誇りを生む軍隊、羞恥しか生まぬ理想――「劣等」の美徳化と失われた峻烈

(22)戦争の終焉と国際秩序――怪物性の自壊と平和の展望

(23)武徳なき国家の危うさ――侮蔑と攻撃を招かぬための礎

(24)軍事から市民へ――美徳の転換と新たな拘束力の可能性

(25)自然に対する軍務――全階級徴用による平等の実現

(26)戦争の道徳的等価物――徴用による美徳の保持と新たな規律の展望

(27)市民的気質の昂揚――ウェルズが見抜いた組織と進歩の逆説

(28)ウェルズの未来予見――恐怖を超えたジェームズの到達点

(原注は第28段落の最後につけています)
(各段落のタイトルは鈴木がつけたもので、原文にはない)

— 解説
『The Moral Equivalent of War』(戦争の道徳的等価物)について
— 訳者後記
訳者後記:翻訳を終えて

ウィリアム・ジェームズ著『戦争に代わるもの――平和の中で勇気と規律を育てる』

(翻訳:鈴木立哉)原注1

原文はこちら(Brock University: The Mead Project)
👉 https://brocku.ca/MeadProject/James/James_1911_11.html

(1)軍事感情と理想の逆説――平和主義が成り立つ条件

戦争に対する戦い、――すなわち反戦運動――は、休暇の遠足やキャンプのような生易しいものではない。軍事的感情は、われわれの理想の中にあまりにも深く根ざしているため、政治の盛衰や通商の変転から国家や個人にもたらされる栄光や恥辱――これらに代わる、より優れたものが提示されない限り、その地位を譲ることはないであろう。現代人の戦争に対する態度には、非常に逆説的なものがある。北部であれ南部であれ、わが国数百万の国民に問うてみるがよい。もし今それが可能だとして、南北戦争を歴史から抹消し、その激しい戦いや行軍の記録を、血を流すことなく現在の形に至ったという平穏な記録に差し替えることに賛成票を投じるか、と。おそらく賛成するのはごく少数の奇特な者だけだろう。これらの祖先、努力、記憶、伝説は、今われわれが共有するものの中で最も理想的なものであり、流されたすべての血をもってしても代えがたい、神聖な精神的財産である。しかし、同じ人々に、似たような財産を得るために今、冷徹な判断で新たな内戦を始めることに賛成するかと尋ねてみよ。男女を問わず、一人として賛成する者はいないだろう。現代の眼から見れば、戦争がどれほど貴重なものであろうとも、理想的な成果のためだけに戦われてはならない。今では、戦争は、敵の不正によって他に選択肢がなくなったときに限ってのみ、やむを得ないものと見なされている。

(2)略奪と栄誉の起源――闘争心が美徳化するまで

古代においては、事情はまったく異なっていた。太古の人類は狩猟民であり、隣接する部族を襲撃し、男たちを殺し、村を略奪し、女たちを手に入れることが、最も利益があり、かつ最も刺激的な生き方であった。こうして、より好戦的な部族が生き残り、首長や部族民のあいだには、純粋な闘争心と栄誉への渇望が、より根源的な略奪欲と入り交じるようになったのである。

(3)戦争の誘惑と現代人の本能――恐怖が生む魅力と栄光への執着

現代の戦争はあまりにも犠牲が大きいため、われわれは、略奪の手段として貿易の方が現実的だと感じている。しかし、現代人もまた、祖先たちの生来の好戦性と栄光への愛をすべて受け継いでいる。戦争の不合理さや恐怖を示しても、それが彼に響くことはない。むしろ、恐怖こそが戦争の魅力を生む。戦争とは、力強い生の表れであり、極限状態における生そのものである。そして、戦争のための税金だけは、人々がためらわずに支払ってきたことを、すべての国家の予算が物語っている。

(4)最高の文明、最悪の暴力――ギリシア史の不条理

歴史とは、血の風呂である。『イーリアス』は、ディオメデスやアイアス、サルペドンやヘクトルがいかにして人を殺したかを延々と語る一大叙事詩にほかならない。彼らがどんな傷を負わせたか、その細部に至るまで余すところなく語られ、ギリシア人の精神は、そうした血なまぐさい物語をむさぼるように糧としていた。ギリシアの歴史とは、狂信的な愛国主義と帝国主義に貫かれた壮大な全景であり――戦争がただ戦争のため繰り返され、市民のすべてが戦士であった時代の全貌を、静かに映し出している。その記述は、読むに堪えない。それが、ただ「歴史」を作るためという目的を除けば、まったくの不条理にしか見えないからである。そして、その「歴史」が語るのは、知的な意味においておそらく地上で最も高みに達した文明の、徹底的な崩壊の記録にほかならない。  
【訳注】『イーリアス』は、ディオメデスやアイアス、サルペドンやヘクトルはいずれもその戦場で名を馳せた戦士たち。

(5)暴力の合理化――メロス対話に見るアテナイの冷徹な理路

これらの戦争は、純然たる略奪行為であった。誇り、金、女、奴隷、興奮――それが唯一の動機であった。たとえばペロポネソス戦争では、アテナイ人は、それまで中立だったメロス(「ミロのヴィーナス」が発見された島)の住民に対し、アテナイの支配権を認めるよう要求した。両者は使節を送り、会談を開いた。そのやり取りは歴史家トゥキュディデスによって逐一記録されており、あまりに整然として理にかなっていたため、理性と形式の美を重んじた19世紀の批評家マシュー・アーノルドですら感嘆したに違いない――たとえその議論の中身が、強者の論理による冷酷な支配の正当化であったとしても。「強者は力の及ぶ限りを行使し、弱虫はやむなくそれを受け入れる」とアテナイ人は言った。メロス人が「奴隷になるくらいなら神々に訴える」と言うと、アテナイ人はこう返した――「われわれは神々については信じているが、人間については知っている――人は本性として、支配できるところでは必ず支配するのだ。この法則を作ったのはわれわれではなく、最初に実行したのもわれわれではない。われわれはただそれを受け継いだだけだ。そして、もし君たちや人類すべてがわれわれと同じ力を持っていれば、同じことをしただろう。――神々のことはこのくらいにしておこう。われわれが神々から君たちと同じくらい評価されていると思う理由は、もう説明した通りだ。」だがメロス人はなおも拒否し、町は陥落した。トゥキュディデスは淡々とこう記している。「アテナイ人は、兵役年齢の男子をすべて処刑し、女と子どもを奴隷とした。その後、島を植民地化し、自国から500人の入植者を送り込んだ。」  
【訳注】ペロポネソス戦争(前431〜404年)は、アテナイとスパルタを中心とするギリシア諸都市の覇権争いである。このメロス島での事件は、トゥキュディデス『ペロポネソス戦争史』第5巻に記され、古代における「強者の論理」の象徴とされる。

(6)永続する戦争――平和という名の競争と武装

アレクサンドロス大王(前356〜323年)の生涯は、純然たる略奪であり、権力と略奪の狂宴にすぎなかった。ただそれが、英雄としての彼の人物像によって浪漫的に彩られていた。そこには理性の原理など微塵もなかった。彼の死とともに、将軍や総督たちはたちまち互いに刃を交えたのである。当時の残虐さは、まさに信じがたいものだった。ローマがついにギリシアを征服したとき、パウルス・アエミリウスは、兵士たちの労苦に報いるため、旧エペイロス王国を「与えよ」と元老院から命じられた。彼らは七十の都市を襲い、十五万人の住民を奴隷として連れ去った。幾人を殺したかは私には分からないが、アイトリアでは元老院議員550人が全員殺された。「ローマ人の中で最も高潔」と讃えられたブルータスでさえ、フィリッピの戦いの前夜、兵士たちを奮い立たせるため、もし勝てばスパルタとテッサロニカの都市を好きなように略奪させると約束したのである。
【訳注】アレクサンドロス大王はマケドニア王(前336〜323年在位)で、ペルシア帝国を征服した。エペイロスはギリシア北西部の古代王国で、前167年、ローマ軍による組織的略奪で70都市が破壊され、15万人が奴隷とされた。ブルータスはユリウス・カエサルを暗殺した共和派指導者で、前42年のフィリッピの戦いで敗れ自殺した。

(7)戦争の遺伝子――結束と英雄性を生んだ「血に染まった乳母」

かくのごとき血に染まった乳母たちが、社会に結束をもたらしたのであった。われわれは、好戦的な人間の型を受け継いでいる。そして、人類に備わるあらゆる英雄的資質の大半は、この苛烈な歴史の賜物である。死者は何も語らない。かつて、これとは異なる性質を持った部族が存在していたとしても、生き残った者はいない。われわれの祖先は、好戦的な気質を骨の髄にまで染み込ませてきた。そして、たとえ何千年もの平和が続こうとも、この気質がわれわれから消え去ることはない。大衆の想像力は、戦争という観念を糧にして、たっぷりと膨れ上がる。ひとたび世論が一定の戦意高揚に達すれば、いかなる為政者もそれに抗うことはできない。ボーア戦争では、両政府とも当初は戦うつもりはなく虚勢を張っていたが、軍事的緊張の高まりの中でその姿勢を維持できなかった。1898年、わがアメリカ国民は三か月間、新聞の紙面で見出しに踊る三インチもの大文字で「戦争」という見出しを目にし続けた。その結果、迎合的な政治家マッキンリーは国民の熱狂に押し流され、スペインとの惨めな戦争が必然となったのである。  
*【訳注】ボーア戦争(1899〜1902年)は、南アフリカでイギリスがボーア人(オランダ系入植者)の共和国と戦った植民地戦争。ジェームズは、ボーア戦争や米西戦争(1898)を例に、近代国家が新聞による戦争宣伝と世論の熱狂によって戦争へ駆り立てられる過程を論じた。

(8)偽りの「平和」――準備こそが戦争である

現代の文明的世論は、軍事的本能とその批判が混在する、奇妙な精神的混合物である。軍事的本能と理想はいまなお強固であるが、今や熟慮された理性的な批判にさらされ、かつて享受していた自由は著しく抑え込まれている。無数の論者たちが、軍務の野蛮な側面を暴いている。純粋な略奪欲や支配欲は、もはや道徳的に公然と肯定される動機とは見なされず、それらを敵側にのみ帰するための口実が必要となっている。イギリスとわれわれは「平和」のためだけに武装している――略奪と栄誉に執着しているのはドイツと日本だと、軍と海軍の当局者たちは繰り返し主張してやまない。今日、軍人の口にする「平和」とは、「間近に迫る戦争」の同義語にほかならない。この言葉は純然たる挑発語となっており、もし本心から平和を願う政府があるならば、新聞にこの語が載ることさえ、断じて許されてはならない。現代のすべての辞書には、こう記されねばならない――「平和」と「戦争」とは同じ意味であり、ただそれが潜在しているのか、現実に顕れているのかの違いがあるだけである。むしろ各国の熾烈な戦争準備競争こそが、終わることのない真の戦争であり、戦闘とは、その「平和」と称される期間に築き上げられた優位性を公に証明する場にすぎない――そう言っても過言ではあるまい。  
【訳注】この文章が書かれた1910年前後、アメリカとイギリスは、軍備拡張を進めるドイツと日本を「新興帝国」として警戒する一方、自国の軍拡は「平和のため」と正当化していた。ジェームズは、こうした各国の自己欺瞞を批判し、「平和のための武装」という言説が軍備拡張競争を正当化する口実になっていると論じた。

(9)理念の衝突――平和主義と軍国主義、同床異夢の理想論

この問題に関して、文明人が一種の二重人格を発達させたことは明白である。ヨーロッパ諸国を例にとれば、いかなる国の正当な利益も、それを達成するために必然的に伴う甚大な破壊を正当化できるものは何一つないように思われる。対立は、それがそもそも正当な利害をめぐるものであれば、健全な常識と理性で合意に至る道は常に見出せるはずだ。私自身、そのような国際的理性の可能性を信じることはわれわれの義務であると考えている。しかし現実には、平和主義者と軍国主義者とを歩み寄らせることがいかに困難であるかを、私は痛感している。その困難は、平和主義という理念に内在するある種の欠陥に起因しており、まさにそのために、軍国主義者の想像力は平和主義に対して強く――それもある程度は無理からぬところではあるが――反発するように向けられてしまうのだと私は考えている。この議論では、両陣営とも徹頭徹尾、想像力と感情の領域で論じ合っている。それは、一方のユートピアと他方のユートピアとの対立にすぎず、どちらが何を語ろうとも、相手から見ればそれは必然的に、説得力も実効性もない、抽象的で仮説的な空論にならざるをえないのである。こうした批判と留意点を踏まえたうえで、私はこれから、対立する両陣営がそれぞれに掲げる理想――それを駆動する想像力の力――を、抽象的な輪郭で特徴づけ、私自身の誤りやすい判断ではあるが、最も有望と思われるユートピア的仮説、和解への最良の道筋を提示してみたい。

(10)「羊の楽園」への拒絶――軍国主義者が語る〈高次の価値〉

私は平和主義者であるとはいえ、ここで戦争体制の野蛮な側面について語ることは差し控えたい――それについては、すでに多くの論者が十分に論じてきたからである。私が注目したいのは、軍国主義的情熱の「高次の側面」のみである。愛国心を不名誉と考える者はなく、戦争が歴史のロマンスであることを否定する者もいない。しかし、いかなる愛国心にも、過度の野心が本質的に組み込まれており、あらゆる壮大な物語の根底には、暴力的な死の可能性が据えられている。軍事的な愛国主義者や、戦争を劇的・英雄的・美しいものとして理想化する者たち、とりわけ職業軍人階級は、戦争が社会進化における一時的な現象であるかもしれないことを、片時も認めようとしない。彼らの言い分によれば、「羊の楽園」のような世界の観念は、われわれの高次の想像力を逆撫でするものだ。もしそうした世界が実現したならば、人生における峻厳――すなわち試練――はどこに残されるのか?戦争がもしこれまでに終わっていたとしても、平板で退廃的な人生を救うために、人類は再びそれを発明していたことだろう、というのである。

(11)戦争を選ばせる想像力――骨抜きの文明社会への嫌悪

現代の戦争擁護論者のうち、自らを知的だと信じている者たちは皆、戦争をまるで宗教のごとく崇めている。それは、一種の聖餐なのである。戦争の利益は、勝者ばかりか敗者にも及ぶとされ、さらには利益の有無を超えて、それ自体が絶対的な善なのだ――なぜなら、戦争こそが、人間本性の最も熾烈で動的な発現にほかならない、と彼らは言うのである。その「恐怖」は確かに代償ではあるが、戦争によって救われるとされる唯一の代替――すなわち、事務員や教師の世界、共学と動物愛護、「消費者同盟」と「慈善団体」が幅を利かせる世界、果てしない産業主義と恥じらいなきフェミニズムによる、骨抜きの文明社会――に比べれば、はるかに安上がりだとされるのである。もはや嘲りもなければ、苛烈さもなく、勇気すらない!こんな家畜の囲い場じみた惑星など、まっぴらだ――と、彼らは吐き捨てるのである。   【訳注】ここでの「フェミニズム」は、20世紀初頭のアメリカにおける婦人参政権運動などを含む「社会的軟弱化」の象徴として、軍国主義者たちが批判的に用いた語であり、現代的な男女平等思想を指すものではない。後に登場するホーマー・リー将軍も同様の意味でこの語を用いている。

(12)こうして彼らは言う――軍人的理想を絶やせば世界は平らになる

この感情の核心にある本質に関して言えば、健全な精神の持ち主であれば、誰しも多少なりともそこに共感せざるをえない――私にはそう思える。「軍国主義とは、われわれが抱く胆力や忍耐力の理想を、長らく支えてきた中心的な存在である。確かに、そうした精神的強さをまったく必要としない人生など、軽蔑されても致し方ない――そう感じる者も少なくない。勇敢な者への危険も報酬もない歴史など、実に無味乾燥なものとなろう。また、ある種の軍人的性格というものがある。誰もがその優越性を感じ取り、人類はそれを絶やしてはならないと誰もが感じている。そのような軍人的性格を常に保持し続けること――つまり、たとえ実用のためでなくとも、それ自体を目的とし、また純粋な理想像として保持しておくことが、人類に課された義務なのである。さもなくば、ルーズヴェルトの言う「弱虫」や「甘ったれた腑抜けども」が、やがて自然界から他のすべてを消し去ってしまうことになりかねない」と――。  
*【訳注】ここで言及されている「ルーズヴェルト」は第26代米国大統領セオドア・ルーズヴェルト(1858–1919)。彼は「軟弱な文明人(mollycoddles)」を批判し、男子の鍛錬・闘志・勇気を説いたことで知られる。本句はその言説を皮肉的に引用したもの。

(13)「覚醒なき国は滅ぶ」――ホーマー・リーが描くアメリカの終焉

この自然に思われる感情こそが、軍事的著述の最も奥深い魂を成している、と私は考える。私の知る限り例外なく、軍国主義的著述家たちは、自らの題材をきわめて神秘的に捉え、戦争を、通常の心理的抑制や動機に左右されることのない生物学的あるいは社会学的な必然と見なしている。(軍国主義者たちの眼には)発展の時期が熟せば、理由の有無にかかわらず、戦争は必ず起こる――なぜなら、主張される正当化は、決まって虚構にすぎないからだ。要するに、戦争とは人類にとって絶えざる義務なのだ。ホーマー・リー将軍は、近著『無知の勇気』において、まさにこの立場に立っている。彼にとっては、戦争に備えることこそが国家の本質であり、その遂行能力こそが、国の健全さを測る最上の尺度なのだ**
【訳注】ホーマー・リー将軍(General Homer Lea)
アメリカの戦略思想家・軍事評論家(1876–1912)。中国革命への支援活動でも知られる。ジェームズが本講演を執筆した1910年当時の最新著作『無知の勇気(The Valor of Ignorance, 1909年)』では、日本の膨張政策を脅威視し、アメリカに徹底した備戦体制を求めた。
**【訳注】“the essence of nationality” は抽象的かつ中立的に見える語だが、ここではジェームズが批判的に紹介しているホーマー・リー将軍の主張を指す。すなわち、国家とは軍事的備えに支えられるべきだという極端な軍国主義思想を表している。

(14)太平洋の覇権と国家の崩壊――ホーマー・リーによるアメリカ敗北の予言

国家というものは、決して静止しない――必ずや、その活力に応じて拡張するか、衰退に応じて縮小するかのいずれかである――ホーマー・リー将軍はそう述べている。現在の日本は、まさにその絶頂期にある。そして、この「宿命的な法則」に照らすならば、日本の指導者たちが、すでに遥か以前から並々ならぬ先見性をもって、広大な征服政策に着手していたと考えざるを得ない。その第一手は、中国とロシアとの戦争、さらにはイギリスとの条約締結であり、最終目標は――フィリピン、ハワイ諸島、アラスカ、そしてシエラ山脈の峠より西に広がる我が国の太平洋沿岸一帯の占領にほかならない。この征服が達成されれば、日本は、国家として避けがたく課された天命――すなわち、太平洋全域の領有――を手にすることになる。そして、こうした深謀遠慮に満ちた日本の企図に対し、われわれアメリカ人には――ホーマー・リー将軍の言によれば――うぬぼれと無知、商業主義、腐敗、そしてフェミニズムしか備えがないというのだ。リー将軍は、現在のわれわれが日本の軍事力に対抗しうる兵力について、きわめて詳細かつ技術的な比較を行っているが、彼の結論は次のようなものである――すなわち、島嶼部、アラスカ、オレゴン、南カリフォルニアは、ほとんど無抵抗のまま陥落するだろう。サンフランシスコは日本軍の包囲攻撃に二週間で降伏し、戦争は三、四か月で終結するだろう。そして守るべきものを軽んじ、軽率にもその価値を顧みなかった我が国は、もはやそれを取り戻すこともできず、「瓦解」することとなるだろう。最終的には、かつてのローマのカエサルのごとき存在が出現し、われわれをふたたび一つの国家へと統合するのを待つしかない――と。

(15)伏兵のごとき脅威――われわれの無知が招きかねない敗北

まことに陰鬱な予測である。だが、もっともらしくないとも言い切れない――もし日本の指導者たちの精神が、古代ローマのユリウス・カエサルに代表され、歴史に幾多の例が見られるカエサル的類型――強烈な指導力と軍事的野心を併せ持つ支配者の型――に属し、しかもリー将軍の想像が及ぶのがまさにそうした類型に限られているのであれば。そして、ナポレオンやアレクサンドロスのような人物を生む母親となる女性が、もはや現れないと考える理由はどこにもない。もしそうした人物が日本に現れ、機会を得ることがあれば、まさに『無知の勇気』が描き出したような驚きが、われわれにとって伏兵のごとく潜んでいる可能性もあるのだ。いまだわれわれが日本人の精神の奥底について無知であることを思えば、そうした可能性を軽視するのは、無謀のそしりを免れまい。

(16)神が定めた試練としての戦争――すべての美徳が勝敗を決する

他の軍国主義者たちは、より複雑かつ道徳的な観点から戦争を論じている。その好例が、S・R・シュタインメッツの著した『戦争の哲学(Philosophie des Krieges)』である。彼によれば、戦争とは神が定めた試練であり、神はその天秤に諸国家をかけて量るのだという。戦争こそが国家の本質的な形態であり、国民がそのすべての力を一斉に、かつ集中的に発揮できる唯一の営為である。勝利は、あらゆる美徳が総合された成果としてでなければ決して得られず、敗北とは、常に何らかの悪徳や弱点の帰結である。忠誠、結束力、不屈の精神、英雄性、良心、教育、創意、倹約、富、身体的健康と活力――神がその審判の法廷を開き、諸国民同士をぶつけ(戦わせ)るとき、道徳的・知的なこれらすべての資質が、一つ残らず勝敗を決する要因となる。まったく無関係なものなど、何一つとして存在しないのだ。「世界史とは、世界を裁く神の法廷である」――シュタインメッツ博士は、この神の裁きにおいては、長い目で見れば、偶然や運といったものが結果に影響を及ぼすことは決してなく、国家に備わる道徳的・知的資質の優劣によってすべてが裁定されると信じている。  
【訳注】S. R.(Sebald Rudolf)Steinmetz(1862–1940)。オランダの社会学者・民族学者。著書『戦争の哲学(Philosophie des Krieges)』(1907, Leipzig: J. A. Barth)で、戦争を「神が諸国民を秤にかける試練」として擁護した。

(17) 国家を鍛える「恐るべき鉄槌」――戦争がもたらす選別と退化の分岐

勝利をもたらす美徳とは、そもそも戦時に限らず平時の競争においても通用する、真に優れた資質である――この点は、あらためて明記しておかねばならない。とはいえ、そうした資質にかかる負荷は、戦時においては平時と比べものにならぬほど苛烈であり、それゆえ戦争は、試練としての厳しさにおいて、他のいかなる事態にも勝る。戦争のもたらす選別作用匹敵するような試練は、この世に存在しない。その恐るべき鉄槌こそが、人々を一つに鍛え上げ、結束した国家へと融合させる。そして、そうした国家においてのみ、人間本性はその潜在力を十全に発揮することができる。唯一の代替案は、「退化」でしかない――シュタインメッツの主張を要約すると以上のようになる。

(18)恐怖の時代から安寧の時代へ――退化を招く「解放」の逆説

シュタインメッツ博士は、良心的な思索者であり、彼の著書は短いながらも多様な問題を広く視野に収めている。その結論は、私の見るところ、サイモン・パッテンの言葉に要約されよう――すなわち、「人類は、苦痛と恐怖の中で育まれてきた存在であり、『快楽経済(安楽と快適を追求する平和な社会体制)』への移行は、その分解的な影響に抗する力を持たない存在にとって、破滅的となりかねない」というのだ。この状況をひとことで言い表せば、「恐怖体制からの解放に対する恐怖」――すなわち、かつては「敵」への恐怖であったものが、今や「われわれ自身」への恐怖へと置き換わっている、ということになる。  
【訳注】サイモン・パッテン(Simon N. Patten, 1852–1922):アメリカの経済学者・社会思想家。「苦痛経済(pain economy)」と「快楽経済(pleasure economy)」の区分を提唱し、後者への急激な移行は社会の精神的頽廃を招くと論じた。

(19)戦争の否定が抱える想像力の困難――「失われる舞台」への美的・倫理的抵抗

私がどれだけ心の中でこの恐怖を繰り返し吟味してみても、結局のところ、想像力が抱く二つの抵抗感に行き着くように思われる――ひとつは美的なものであり、もうひとつは道徳的なものである。第一に、数多くの魅力的要素を備えた軍隊生活が永遠に不可能となり、国々の運命がもはや、かつてのように迅速に、胸躍るように、そして悲劇的に――武力によって――決せられることはなく、今後は「進化」と呼ばれる味気ない過程によって、ただ徐々に決められていく――そうした未来像を想像したくないという気持ち。第二に、人間の力と精神の緊張が試される「最高の舞台」が閉ざされ、人間に備わる卓越した軍事的資質が、常に潜在した状態に抑え込まれ、ついに行動として発揮されることなく終わってしまう――そのような事態を認めたくないという気持ちである。このような強い抵抗感は、他の美的・倫理的主張に勝るとも劣らず、私には耳を傾け、尊重されるべきものと思われる。戦争の費用や恐怖を強調するだけの反論では、こうした想像力の強固な抵抗には太刀打ちできない。恐怖こそがスリルを生み出す。ゆえに、人間性の極限や至高のものを引き出す局面においては、費用の議論を持ち出すこと自体が、むしろ恥ずべきものとして響く。単なる否定的批判がいかに力弱いかは明らかであり、平和主義は軍事派から一人の支持者すら獲得していない。軍事派は、戦争の獣性も、恐怖も、費用も否定しない。ただ、それらは物語の半分にすぎないというだけのことなのだ。戦争は、それらの代償を払ってもなお価値があり、人間性を全体として見れば、戦争こそが、その内部に潜むより弱く臆病な自己から人類を守る最良の手段であり、人類には「平和経済」などというものを採る余裕はない――これが、彼らの言わんとするところなのである。

鈴木 立哉

金融翻訳者。一橋大学社会学部卒。米コロンビア大学ビジネススクール修了。野村證券勤務などを経て2002年に独立。現在は主にマクロ経済や金融分野のレポート、契約書などの英日翻訳を手がける。訳書に『フリーダム・インク』(英治出版)、『ベンチャーキャピタル全史』(新潮社)、『「顧客愛」というパーパス<NPS3.0>』(プレジデント社) 、『ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版)など。著書に『金融英語の基礎と応用 すぐに役立つ表現・文例1300』(講談社)。ブログ「金融翻訳者の日記」( https://tbest.hatenablog.com/ )を更新中。