【第34回】駆け出しのころ「ブエノスアイレスで通訳に~何事も無駄にはならない~」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

***

私は地球の反対側、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス在住で、スペイン語通訳者として活動開始して今年で27年になります。

初めて正式に仕事として通訳をしたのは、1993年2月。当時JICAの海外開発青年プログラムで日本語教育普及を目的としてアルゼンチンを訪れ、在アルゼンチン日本語教育連合会で働いていた私は、ある日、一本の電話を受け取りました 。聞けば、翌月3月から鉄道会社で日本語とスペイン語の社内通訳を探しているとのこと。ちょうど2月末で任期が終了するのに伴い、3月から言語科学の大学院に通うことが決まっていましたが、今後どうやって生計を立てようか考えていた矢先のことでしたので、二つ返事で承諾しました。

ブエノスアイレスの鉄道駅レティーロには三本の路線があり、私が勤務するサンマルティン線はその一番奥にありました。立派なイギリス調駅舎二つを通り過ぎ、いよいよ駅舎に着くと、「え、これは駅?それとも掘立小屋?」と思いました。私が行くべき事務所はさらにその奥。駅の横道から離れて見ると、まるで体育館のような建物でした。機関車修理工場のすぐ横に、私が目指す事務所がありました。

ここでの任務は日本から派遣されたエンジニアの専属通訳です。それまでは日系2世の方が自分のエンジニアの仕事と並行して通訳をされていました。アルゼンチン人エンジニアの上司は私の到着を喜んでくれましたが、「それではこの人はNさん、彼のアテンドを頼む」と一言。私に日本人エンジニアNさんを紹介すると挨拶も半ば、そそくさとどこかへ行ってしまいました。 するとNさんは「行くぞ!」と言い放ち、私はただ後を着いていくしかありませんでした。隣の建物へ移動すると 、メジャーを渡されました。「その端を持ってこっちへ」Nさんが計測の指示を出しました。私は「あのー、私、通訳に来たんですが」と言うと、「それじゃあんた、あそこで働いている若者を呼んで手を止めさせて、あんたは横で話しているだけか?それじゃ効率悪いだろう、メジャーの端を持つぐらいできるだろう」Nさんは言いました。こうして私の晴れがましい社内通訳デビュー初日は、 メジャーの端をもち歩き回って終わりました。後になってわかりましたが、機関車修理工場の改善レイアウトを作るためには、いろいろ測る必要があったのですね。

日が経つにつれて段々とNさんの作業の意味がわかってきましたが、実際のところ私はあまり通訳しない通訳、むしろ日本語アシスタントでした。通訳といえば、まあ昼食の注文や会社の同僚の軽い挨拶くらいです。

その後Nさんの不慮のケガを機に、私は包帯を片手に看護師さながら看病もしました。こんなはずじゃなかったのにと思ったのも束の間、今度はNさんを心配して皆さんが集まり自然と会話もはずみ、また技術的な質問や相談に来るようになり、私の通訳の機会も増えていきました。なかには修理工場の旋盤などの話も出ましたが、自分でも驚くほど様子を想像しながら訳せたのは、やはり現場に行って機械や器具をいつも見ていたからだと後で気が付きました。通訳をしない日々も通訳の下準備として蓄積されていたのです。

画像1
1994年、アルゼンチン大統領府にて

スペイン語は特にネジや部品の数が重要で、しかもそれが女性名詞か男性名詞かで文法も変わります。暇をもてあまし作業員とよく話していたので、その過程で物の名前を覚えていっていたのも功を奏しました。当時はインターネットもなく、英語とスペイン語の技術用語辞典から調べ、日本語で何というかを人に直接聞き、地道に単語リストを作りました 。

画像2
2012年、ロサリオ市にて。第20回女子ホッケーチャンピオンズトロフィーでの「さくらジャパン」の試合後の記者会見

最初は「君はまるで工員のようだね!」と周りに笑われていたぐらいですが、この経験をもとに私は「修理表現にまつわる言語多様性」について大学院の社会言語学のレポートを書き、まさに一石二鳥でした。この最初の油まみれになりかけながらの社内通訳は、その後の大きな糧となりました。その後の同時通訳デビューは正直、いつからできるようになったか覚えていません。いろいろな 「事件」は今でも時々遭遇しますが、もうほとんど動じなくなりました。私が心がけているのは 話者がどういう風に話すか、その人の心の中に入って通訳することです。二度と同じ機会はないので、一瞬一瞬を大切に、旬な通訳ができるよう意識しています。

画像3
2015年、水村美苗著『母の遺産』のスペイン語訳を担当

相川 知子 (あいかわ ともこ) 1993年デビュー
広島出身ブエノスアイレス在住。スペイン語通訳者。愛知県立外国語学部スペイン学科ラテンアメリカ諸地域専攻後、JICAの海外開発青年プログラムにより永住ビザで1991年アルゼンチンに渡航日本語・日本文化普及に従事。言語科学、異文化コミュニケーション、批判的言説分析を研究。品質システム・食品ロジスティック修士。スペイン語通訳、翻訳、語学教師、旅行コーディネーター、TBS「世界ふしぎ発見!」など日本のテレビ番組の撮影通訳現地コーディネーター、国際会議(WWTC、GXなど)、FGI調査の同時通訳。アルゼンチンについて記者活動、ラジオ出演、特派員などを務める。水村美苗著「母の遺産」(アドリアナ・イダルゴ出版社)スペイン語版翻訳者
主観的アルゼンチン・ブエノスアイレス事情(アルゼンチンのことを20年以上日本語で発信)http://blog.livedoor.jp/tomokoar/