【第1回】手話通訳士への道「先ずは私のこととこれから」

●はじめに

 今日から連載のスタートです。

 私は52年前(1970年度)、千葉県で開催された全20時間の第1回手話奉仕員養成講座を卒業し、手話言語通訳の道を歩み始めました。

私の両親はろう者(大雑把な整理ですがろう者集団に所属し、手話言語の話者とします。)だったので、手話言語が飛び交う環境で育ちましたが、差別意識満載の私は、手話言語を否定し、「ろう」を受け入れられず、避けて育ちました。

私の育ちと手話言語は切っても切れない関係なのですが「ろう」、「ろう者」、「手話言語」を避けて育ってきたので、手話言語を身につけ、いつ手話通訳士への道を歩み始めたのか、はっきりしません。

いつを起点にするのか悩んだ結果、自ら手話言語を学ぼうとした積極的な姿勢の始まりを手話通訳士への道を歩みはじめた時にしました。

私の差別意識については、追って紹介しますが、日本会議通訳者協会(JACI)特別功労賞受賞者コメントで簡単に紹介しているのでお読みいただければ幸いです。 

さて、この連載では、私の歩みを振り返り、今日までの歩みを紹介することで「ろう者の置かれている状況」、「手話言語通訳」、「手話通訳士」をはじめとする手話言語通訳の「担い手」について読み取ってもらう事に軸足を置くことにしました。

 そして、この連載によって外国語通訳の担い手と手話言語通訳の担い手の交流がさらに進み、「自ら望む言語」で暮らすことができる国づくりの一歩につながればこの上ない喜びです。

●連載にあたって

 私の通訳人としての学びは、「ろう者」や手話言語学習者等多くの関係者や運動があってのものです。

したがって、これから始まる連載の内容の多くは私に大きな影響を与えた次の団体に依拠しています。機会がありましたらそれぞれのホームページを見ていただけると私の拙い文章を理解する助けになること請け合いです。

①一般財団法人全日本ろうあ連盟(1947 (昭和22) 年5月22日創立)

 手話言語の法的認知と聞こえる者との平等を願い、「聴覚障害者の人権を尊重し文化水準の向上を図り、その福祉の増進に寄与すること」を目的とする障害当事者団体

②一般社団法人全国手話通訳問題研究会(1974(昭和49)年6月2日設立)

  「手話及び手話通訳、ならびに聴覚障害者問題についての学習・研究活動を行い、手話にかかわる人々の組織化を図るとともに、財団法人全日本ろうあ連盟の運動をはじめとする 聴覚障害者運動と連帯し、もって聴覚障害者福祉と手話通訳者の社会的地位の向上をめざすこと」を目的とする研究・運動団体

③一般社団法人日本手話通訳士協会(1991年(平成3年)5月4日設立)

 「手話通訳士の資質及び専門的技術の向上を図るとともに、手話通訳士に関する普及啓発等の事業を行い、手話通訳の普及・発展を通じて、国民の福祉の増進に寄与すること」を目的とし、手話通訳学会を併設する職能団体

④社会福祉法人全国手話研修センター(2002(平成14)年1 月31 日認可)

 「多様な福祉サービスが、その聴覚障害者をはじめとするすべての障害者及び利用者(以下「利用者等」という。)の意向を尊重して総合的に提供されるよう創意工夫することにより、利用者等が、個人の尊厳を保持しつつ、自立した生活を地域社会において営むことができるよう支援すること」を目的とする社会福祉事業団体

 また、私は、手話言語の研究者でも、手話言語通訳の研究者でもありません。したがって、私の経験してきたことを紹介する程度のものなのとなっていることをあらかじめご了解ください。

●用語の使い方

そして、あらかじめ社会的に(?!)注目されている次の2点について、ご理解ください。

一つ目は、「日本手話」と「日本語対応手話」です。

二つ目は、「手話」と「手話言語」についてです。

様々な意見がありますが、この連載での私の立場は、一般社団法人全日本ろうあ連盟(以下「全日ろう連」という。)の2018年6月19日の手話言語に関する見解に則っています。制度上使われている「手話」「手話通訳」などはそのまま使用しています。

音声による日本語は「音声日本語」、手話による日本語は「手話日本語」としているところもあります。さらに、時々ごちゃごちゃになることもあります。この点もご理解ください。

なお、この全日ろう連の「日本手話」と「日本語対応手話」見解の要旨は次の通りです。

「手話」が私たちろう者が自らの道を切り拓いてきた「生きる力」そのものであり、「命」であることです。その手話を「日本手話」、「日本語対応手話」と分け、そのことにより聞こえない人や聞こえにくい人、手話通訳者を含めた聞こえる人を分け隔てることがあってはなりません。手話を第一言語として生活しているろう者、手話を獲得・習得しようとしている聞こえない人や聞こえにくい人、手話を使う聞こえる人など、それぞれが使う手話は様々ですが、まず、それら全てが手話であり、音声言語である日本語と同じように一つの言語であることを共通理解としていきましょう。」

次に手話と手話言語についてです。

私たちはコミュニケーション手段としての「手話」があり、そして聞こえる人が言語として日本語を獲得するように、聞こえない人が獲得・習得する言語は「手話言語」であると考えました。

●私の育った環境

前置きが長くなりましたが、第1回目なので少し私のことに触れてみます。

私は、1953年生まれで、今年古希です。

私の母は、ろう者2人、聞こえる者2人の4人きょうだいで、末っ子でした。

父は、3歳のころ失聴し、家族の中で唯一のろう者でした。

 私は、3人兄弟で、姉、兄がいましたが、姉は、母の聞こえる姉のところに養女に、兄は、生後間もなく亡くなりました。

 私が生まれ、祖母、叔父叔母、両親が他界するまでは、100坪ほどの借地に2件の家があり、私と「ろう」の両親、隣に住む「ろう」の叔父叔母と祖母が住んでいました。ろう者が4人、聞こえる者が2人と多数派が逆転していた100坪の環境で育ちました。

 父は、長く聞こえる者との平等を求める「ろう運動」に関わっていました。

父のろう運動にかける熱意のおかげで、6畳、4畳半の2間しかない我が家は、千葉県・千葉市のろうあ協会(当事者団体)の事務所と化し、毎晩ろう者が集まっていました。おかげで私の居場所はなく、寝場所は押し入れでした。そんな環境で子どもの時期を過ごしました。

終わり方が中途半端な1回目になってしまいました。次回は、子どもの頃の私と差別意識満載の「私」を紹介します。終了までお付き合いいただければ幸いです。


川根紀夫(かわね のりお)

手話通訳士。1974年、聴覚障害者福祉と手話言語通訳者の社会的地位の向上のため、手話言語、手話言語通訳や聴覚障害者問題の研究・運動を行う全国組織である「全国手話通訳問題研究会」の誕生に伴い、会員に。1976年、手話言語通訳の出来るケースワーカーとして千葉県佐倉市役所に入職。1989年、第1回手話通訳技能認定(手話通訳士)試験(厚生労働大臣認定)が始まり、1991年には、手話通訳士の資質および専門的技術の向上と、手話通訳制度の発展に寄与することを目的に「一般社団法人(現)日本手話通訳士協会」が設立され、1993年、理事に就任。日本手話通訳学会、日本早期認知症学会、自治体学会に所属。第4回JACI特別功労賞受賞者。