【第3回】インドネシア語通訳の世界へようこそ「市場性を見極める」

今回のテーマは「市場性を見極める」です。予告で触れた料金設定や採算性の部分にリクエストが集中したので、多めの字数を割きました。結果としてタイトルと中身が多少ずれた感もありますが、ご容赦を。

■三つの固定観念

インドネシア語通訳の料金設定や採算性について考える際、主に次の三つの固定観念が邪魔をしているように思います。

(1) 「相場は意識すべきだ」
インドネシア語通訳の場合、市場自体がまだ十分に確立されていません。そのため、市場原理(価格メカニズム)の下で定まるべくして定まった相場も存在しないのが実情です。
相場とされているのは、価格形成の主導権を握る一部の通訳会社が恣意(しい)的に決め、周りも追随した結果広まったお仕着せのもの。
経済的な合理性に欠け、それに引きずられているかぎり採算割れは必至です。

(2) 「通訳報酬は、本番当日の役務に対するもの」
本番当日だけでなく、事前準備なども含めた全体に対するものと捉え、トータルで収支を見る必要があります。

(3) 「通訳会社を介する場合、料金レートは通訳者ごとに一律固定」
料金は、通訳者ごとでなく案件ごとに決まるのが自然で合理的です。
案件ごとの採算ラインは、難易度その他もろもろの要素いかんで(時に大きく)異なって当然。
それに対し柔軟に合わせられないことのデメリットは、一律固定レートによる業務の簡素化・迅速化などのメリットより大きいと思います。
「料金は案件ごとに相談の上で決定」という形を希望すれば、たいがい認めてくれますので、そうしたほうが賢明でしょう(通訳会社から「面倒な形を勧めてくれるな」と叱られそうですが、料金設定の柔軟さやこまやかさは通訳会社側にも他との競争上メリットをもたらすはずです。得てして面倒になるのは、腹の探り合いで既知の情報をわざと小出しにしたり、余計な駆け引きを試みたりするから。最初から双方とも同じ情報を基にぎりぎりの線を誠実にはじき出し、一発勝負の覚悟で提示し合えば、折り合うか否かは即座に決まる話です)。

さて、足かせとなる三つの固定観念を取り払ったところで、本題に入ります。

■採算ラインと適正料金

料金設定には、さまざまなアプローチがあります。
一つの例として、ここでは個々の通訳者が必要とする月収から考える方法を見ていきましょう。
インドネシア語通訳が生業として成り立つというのは、それで食べていける、人並みの暮らしができるということ。その実現には最低どれだけの収入が要るかを起点にして考えると、何が見えてくるでしょうか。

フリーランスと会社員とでは、税金や社会保険(健康保険、将来の年金受給額)、ボーナス、有給休暇、退職金、もろもろの手当、福利厚生といった面で経済的な差があります。さらに、フリーランスは事務所機能の確保から業務上必要な資料類の調達に至るまで、ほぼ全ての経費が自己負担です。
そうした差が生涯でどれほどになるか、全て積み上げて月当たりにならすと、フリーランスは会社員より2倍から3倍ほど稼いでやっと対等な暮らしができるといわれます。以下では、間を取って2.5倍としておきましょう(これは私の試算や実感とも一致します。1.5倍とする説などもありますが、その計算は生じる差のうち一部しか考慮していないようです)。

例えば、月給25万円のサラリーマンと実質的に同等の生活をするには、掛ける2.5で月に62万5千円、稼働日数を25日とすると1日当たり2万5千円ほど稼ぐ必要があることになります。

※月給25万円というのは、あくまで一例です。ご自身の年齢、家族構成その他の事情によって、相応だと思う数字に置き換えてみてください(他に収入や財産があったり家族に扶養されていたりする方も、もし将来この仕事だけで食べていくことになったらという前提で)。また稼働日数についても、ばらばらの案件をジグソーパズルのように当てはめて25日ぴったり埋めるのは、結構難しいものです。翻訳業務を組み入れるなど各自工夫しながら極力埋めていくわけですが、それでも20日や15日にしか達しなければ、その分1日当たりの必要額は膨らむ計算になります。

ここで1日当たりに稼ぐべき額(以下、「1日当たりの最低収入」)というのは、本番当日だけでなく、事前準備や事務作業などに当てる日(以下、「付随する業務日」)も含め、一律にならしたものです(案件トータルでの収支を計算する上で、日によって重み付けを変える意味はないため)。

後は、打診された案件に本番当日と付随する業務日と合わせて正味で何日間費やすことになるかを見積もり、1日当たりの最低収入(上の例なら2万5千円)を掛けた結果が、その仕事から得るべき最低限の金額になります。

〔例1〕新規の案件で、読み原稿を訳しておくなどの準備も必要だとの想定
本番は1日のみ、付随する業務日が5日で、計6日必要
1日当たりの最低収入2万5千円×6日分で15万円

〔例2〕リピート案件で、以前にやった内容の繰り返しが多いとの想定
本番は同じく1日のみ、付随する業務日も1日あれば足り、計2日必要
1日当たりの最低収入2万5千円×2日分で5万円

ここで鍵となるのは、案件の打診を受けたときに「準備等も含めて最低限必要な正味日数」をどれだけ精度よく見積もれるかです。
慣れないうちは難しいと思いますが、毎回やっていると徐々に感覚がつかめてきます。
大事なスキルですので、通訳者としてやっていくなら――そして願わくは通訳会社の方々にも――ぜひ意識して磨いてほしいところです。

ちなみにインドネシア語の場合、英語と比べて調べ物の環境が圧倒的に不利な分、事前準備の作業効率も悪くなります。同じ準備をするのに、どう頑張ってもより多くの時間がかかってしまうわけです。
電子版の専門用語辞典でもあれば3秒で調べがつく訳語も、紙の資料やらウェブ検索やらを総動員して一から探し当てるほかなく、その揚げ句まだ定訳はないと分かり自分で新しく考えるはめになることもしばしば。この過程には運が良くて3分(3秒と比べ、その差60倍)、大抵は10分(200倍)やそれ以上の時間が、いちいちかかってきます。
もちろん英語でも同様の苦労はあるでしょうが、この「いちいち数十倍、数百倍」が積もり積もったトータルでの違いは、やはり大きいと言わざるを得ません。

時間の違いは、すなわちコストの違い。料金設定を考える上では、大事な要素です。
その点、インドネシア語はまだかなりの「高コスト体質」だといえるでしょう。

高コスト体質の原因は、他にもあります。
まず、インドネシア語のフリーランス通訳者は専門とするジャンルや分野を絞りにくいため、未経験の分野で一からの準備を強いられる頻度が高いこと。これには当然時間も書籍代などのお金もかかります。
また、インドネシア語は単複や時制を語形変化で判別できず、文脈や背景知識などから総合的に判断するしかないことが珍しくありません。学習者は面倒な活用を覚えずに済んで楽でしょうが、通訳者にとっては逆にその曖昧性や文脈依存性が難しさとなります。現在・過去・未来どれで訳すべきかといった基本的な判断が、背景知識の有無にかかってくるとなると、いやでも広めに網を張って備えないといけません。ただでさえ効率が劣る上に、準備すべき範囲自体もいささか広くなるのです。

ところが、現行の「相場」とされるものには、そうした事情が何ら反映されていません。
英語のレートにいくぶんか上乗せしている通訳会社が多いとはいえ、その理由はおおかた「希少価値を考慮して」などというあやふやなもの。数字的な根拠もない申し訳程度の上乗せ率で、採算割れという致命的問題の解決にはまるでなりません。

さて、何かと不利な高コスト体質だからこそ、インドネシア語の通訳者はそれをよく自覚して、とにかく徹底した効率化と基礎力の強化に励む必要があります。

あらゆる無駄をそぎ落とし、作業効率を極限まで高め、さらには前回書いた「需要を見越した備え」のような日頃からの努力も尽くした上、それでもこの案件には最低何日必要だというぎりぎりの線を見極める。その日数に自分の「1日当たりの最低収入」を掛けることで、「これ以下の報酬では採算割れになるので、引き受けられない」というはっきりした基準(採算ライン)ができます。

ただ、これはあくまで最低基準にすぎません。
「適正料金」を考えるのであれば、それぞれの通訳者が持つ実力その他の付加価値に見合った対価などが加味されるべきでしょう。
そうしないと、有能な人ほど短時間で効率よく準備が済む分、かえって料金が低くなるという逆転現象が起きてしまいます。
何をどれだけ、どうやって加味するかについては、これまた多様な考え方ができますが、そこは自由競争の下、自らの選んだ価格戦略などに基づいてめいめい決めればよい話。
効率よく準備が済む人は、採算ラインを低く抑えられるため、この部分で裁量の余地が大きくなる(どんな価格戦略を取るか、選択の幅が広がる)わけです。

いずれにしても、一人一人が自分の採算ラインぐらいは把握しておき、「相場」に振り回されたり周囲に流されたりせず、その一線をしっかり守っていくこと。それが、インドネシア語通訳の世界を今のすさんだ無法地帯からまともな市場へと変えていく第一歩だと思います。

※災害時をはじめ、緊急性や人道的見地に照らして行うボランティアなどは別としてです。他に、「損して得取れ」的な中長期のもくろみに基づいて、短期では採算割れとなるような料金設定をあえてすることも考えられますが、これはただ都合よく利用されて終わる恐れが少なくありません。皆がそちらへ走ると、結局いいようにつまみ食いされた揚げ句、自分にも周りにも損だけが残る展開になりがちですので、慎重に考える必要があります。

料金設定はフリーランスの人間にとって肝となる部分です。
マーケティングの概説書には「価格戦略」、「プライシング」などとしてほぼ必ず取り上げられていますし、それ自体をテーマとした本なども多数出ていますので、フリーランス通訳者を目指す方はぜひ一度目を通してみてください。

また、先ほど例示した数字を見て「そんな金額、通るわけないじゃないか。ただの理想論で、非現実的だ」と思った現役通訳者や通訳会社の方にも、同じことをお勧めします。

そうすれば、このまま採算割れ必至の「相場」にとらわれて共倒れの道を転げ落ちるより、明確な方針と基準を持って現状打破に向けた一歩を踏み出すほうが、たとえ道のりは厳しくてもよほど現実的な選択だと感じてもらえるはずです。

■市場性はある?

さて最後に、これまでの話を踏まえてインドネシア語通訳サービスの市場性について考えてみましょう。

「それって市場性あるの?」は、単に「需要あるの?」という意味ではありません。
いくら需要ばかりあってもだめで、対する供給もしっかりと用意され、両者のマッチングがその時々の市価(経済的に意味のある「相場」)で成り立って初めて市場性があることになります。
そう考えると、今の日本におけるインドネシア語通訳サービスに市場性があるとは、とても言い難いでしょう。
この連載でも繰り返し述べてきたとおり、せっかく需要が勢いよく伸びているのに、供給側である職業通訳者のほうは、この調子だと遠からず絶滅しかねないありさまです。
市場――と呼べるかどうかはともかく――全体がうまく回っておらず、膨大なチャンスがみすみす失われています。

冒頭近くで、「インドネシア語通訳は、市場自体がまだ十分に確立されていない」という言い方をしました。
これは、見方によっては経済学でいう「市場の失敗」が起きている状態だとも言えそうです。
市場の失敗が起きる原因の一つは情報の非対称性で、インドネシア語の通訳サービスについても、何よりそれが大きいと思います。
買い手側にサービスの質を判断するための情報が乏しいせいで、いわゆるレモンの原理で逆選択が起きている(安いばかりで粗悪なサービスが「悪貨は良貨を駆逐する」的に市場を席巻してしまっている)状態です。
そのあおりで、せっかく志も能力もある人たちが「これでは食べていけない」と去っていきます。

この一見救いがなく思える状況を変え、インドネシア語通訳をちゃんと市場性のある、生業として成り立つ仕事とするには、どうしたらよいのでしょうか。
それについては、第10回の「今後に向けた課題」で詳しく取り上げます。
考えるヒントだけ挙げておくと、私はやはり大きな原因となっている「情報の非対称性」をどう解消するかに鍵があると思います。皆さんはどう考えるでしょうか。

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次回のテーマは、「目指す方向と立ち位置を定める」。
専業か兼業か、フリーランスか社内通訳者か、はたまた法人化か。ジェネラリストか、スペシャリストか。何を強みにして、市場のどの層のニーズに応えていくのかといった話をしていきます。どうぞお楽しみに。


土部 隆行(どべ たかゆき)

インドネシア語通訳者・翻訳者。1970年、東京都小金井市生まれ。大学時代に縁あってインドネシア語と出会う。現地への語学留学を経て、団体職員として駐在勤務も経験。その後日本に戻り、1999年には専業フリーランスの通訳者・翻訳者として独立開業。インドネシア語一筋で多岐多様な案件に携わり、現在に至る。

インドネシア語通訳翻訳業 土部隆行事務所