ライラックの花香るころ

保護中: 【第6回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

国共内戦勃発―「八(パー)路(ルー)」に会ったよ! 愛犬クラがまだ「健在」だった敗戦後一年足らずの1946年春。 父のメモには「1946年4月~5月 国民党軍と八路軍(解放軍)市街戦、約一か月で八路軍が長春占拠。その後再び国民党軍奪回」とある。 すでに長春周辺では国共内戦が始まり、大人たちの会話によく登場するパールーといえば、まるで悪の代名詞のように怖い噂さが巷にあふれていた。...

保護中: 【第5回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

父の研究-ウラン鉱探し  戦争に負け、長春郊外の疎開先から再び自宅に戻ってきて間もなく、わたしが庭で遊んでいた時だった。「お父さんのこれまでの研究はもう終りだ、研究はやめた」、父がまるで大人に向かって語るように真剣な面持ちでわたしに言った。その後、父の助手をしていたおじさんが、「お父さんの研究が成功していたら、日本は勝ったかもしれないのだけどね」とひと言漏らしたことが記憶にある。その意味は...

保護中: 【第4回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

第二章 敗戦、国共内戦の時代 「満州」崩壊の日々 1945年の夏が近づくと、「新京」も内地と同様、灯りが外に漏れないように電灯を黒い布で覆うなど灯火管制が敷かれ、空襲に備えて家々の庭には防空壕が掘られた。わが家でも、一家が入れるだけの小さな防空壕が庭先に造られた。 わたしは庭の小さな砂場にレンガで囲った防空壕を作った。遊びの中にも戦争が反映され、戦時色が濃くなってきたのである。...

【第3回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

国民学校の頃 ほどなくわが家は新京の南湖に近い盛京大路の官舎に移り、1941年4月わたしは春光国民学校に入学する。明治以来慣れ親しんだ「小学校」という名称が戦時体制に対応して「国民学校」と呼ばれるようになった年である。 それでも入学式の日、わたしは新京のデパート三(み)中井(なかい)か宝山(ほうざん)で買い求めたピンク地に黒い格子模様のワンピース、靴は皮靴といったヨーロッパ風のハイカ...

【第2回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

第一章 「五族協和」の日々  わたしは東京市豊島区雑司ヶ谷で生まれた。  多分父の勤め先、当時の本郷区駒込にあった理化学研究所に近いので雑司ヶ谷に居をかまえたのだろう。   1937年4月、中国東北部の長春、当時の満州新京駅に降り立った時わたしは二歳足らずだった。盧溝橋事変が起きる三か月前のことである。 家族を連れて汽船で大連に向かい、大連から特急あじあ号に乗って新京に向...

【第1回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

まえがき  ライラックは、中国語では“丁(ディン)香(シャン)花(ホア)”、あるいは“紫丁(ズーディン)香(シャン)”という。  わたしが中国語に初めて本格的に触れたのは、七十年ほど前のことだった。 それは1950年に創立された長春(中国吉林省)の東北師範大学付属中学の誕生とほぼ重なる。わたしがその三年八組に編入学したのが1951年。  母校は、いわばわたしが中国語を身に...