ライラックの花香るころ

保護中: 【第12回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

第六章 帰国の途へ “再見(ザイジェン)!長春(チャンチュン)”「逢うは別れの始まり」、とうとう別れの時が来た。1953年8月、わずか二年余りで附中の先生や級友たちと別れることになった。 別れに際し父に連れられて大学の成仿吾校長のところに挨拶に行った。何を書かされたか覚えていないが、先生はわたしの字をじっと見て「なかなかいい字を書くじゃないか、でも日本に帰ったら字の崩し書きに注意しな...

保護中: 【第11回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

第五章 東北師範大学附属中学校 ―師生(シーション)情(チン)、同学(トンシュエ)情(チン) 水を得た魚1951年3月、裕子とわたしは市二中から長春の東北師範大学附属中学校(以下、附中と略称)の三年八組に転入した。二人の父親が師範大学の教員で、家からも近く、通うのに便利だったことなど転校の理由はいろいろあったと思う。附中は、1949年10月1日新中国が成立して一年足らずの1950年9月、戦...

保護中: 【第10回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

講堂に響く歌ごえ  東北大学の主楼の講堂は、おそらく六百人ぐらいは収容できそうだった。週末などにそこで“晩会(ワンホエ)”(文芸の夕べ)があると聞くと、裕子と馳せ参じた。 歌あり、踊りあり、芝居ありの楽しい集いだった。出演者も観客もすべて大学生たちで、部外者の私たちがやや遠慮がちに後ろの「立見席」から舞台を眺めていると、いつも決まって誰かが“来(ライ)!来(ライ)!”と手招きして席を譲って...

保護中: 【第9回】「ライラックの花香るころー中国語を生涯の友として」

第三章 解放区吉林へ  中国の素顔に触れた日々      一部の家族を除き、長春大学の日本人教員とその家族を含む長春脱出組第一陣、総勢およそ50人は、チャーズを出てから最初は徒歩、次に荷馬車、その後トラックと乗り継いで吉林に向かった。 父のメモによると  9月12日  長春を脱出、真空地帯に入る。9月14日  劉家屯―陶家屯―白廟子  17日 中秋満月 9月19日  吉林着 吉林の東...

保護中: 【第8回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

空中投下  兵糧攻めに遭って深刻な食糧不足に陥った長春で行われたのが、国民党軍による空からの食糧の投下。中国語では、“空投(コントウ)”(「空中投下」)という。長春の大房身飛行場が解放軍の手に落ちたのは、1948年5月24日。その日から国民党軍は、正式の航空ルートを利用しての、市内に籠城する兵士に対する食糧の空輸を断念した。そこで始めたのが、およそ3000メートルの上空からおこなう食糧の空...

保護中: 【第7回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

母との別れ  1947年春を迎えた頃から、にわかに周りで「ケンソー、ケンソー」と騒がれるようになった。 中国語では“遣送(チエンソン)”、日本では、もっぱら海外からの「引き揚げ」と言われているが、現地の日本人の間では、むしろ中国語由来の「遣送」をよく耳にした。中国語には「国外退去、送還」のような強い意味合いが込められている。  母は結核を患いよく床に臥していたが、春先には買い物に出か...

保護中: 【第6回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

国共内戦勃発―「八(パー)路(ルー)」に会ったよ! 愛犬クラがまだ「健在」だった敗戦後一年足らずの1946年春。 父のメモには「1946年4月~5月 国民党軍と八路軍(解放軍)市街戦、約一か月で八路軍が長春占拠。その後再び国民党軍奪回」とある。 すでに長春周辺では国共内戦が始まり、大人たちの会話によく登場するパールーといえば、まるで悪の代名詞のように怖い噂さが巷にあふれていた。...

保護中: 【第5回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

父の研究-ウラン鉱探し  戦争に負け、長春郊外の疎開先から再び自宅に戻ってきて間もなく、わたしが庭で遊んでいた時だった。「お父さんのこれまでの研究はもう終りだ、研究はやめた」、父がまるで大人に向かって語るように真剣な面持ちでわたしに言った。その後、父の助手をしていたおじさんが、「お父さんの研究が成功していたら、日本は勝ったかもしれないのだけどね」とひと言漏らしたことが記憶にある。その意味は...

保護中: 【第4回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

第二章 敗戦、国共内戦の時代 「満州」崩壊の日々 1945年の夏が近づくと、「新京」も内地と同様、灯りが外に漏れないように電灯を黒い布で覆うなど灯火管制が敷かれ、空襲に備えて家々の庭には防空壕が掘られた。わが家でも、一家が入れるだけの小さな防空壕が庭先に造られた。 わたしは庭の小さな砂場にレンガで囲った防空壕を作った。遊びの中にも戦争が反映され、戦時色が濃くなってきたのである。...

【第3回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

国民学校の頃 ほどなくわが家は新京の南湖に近い盛京大路の官舎に移り、1941年4月わたしは春光国民学校に入学する。明治以来慣れ親しんだ「小学校」という名称が戦時体制に対応して「国民学校」と呼ばれるようになった年である。 それでも入学式の日、わたしは新京のデパート三(み)中井(なかい)か宝山(ほうざん)で買い求めたピンク地に黒い格子模様のワンピース、靴は皮靴といったヨーロッパ風のハイカ...

【第2回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

第一章 「五族協和」の日々  わたしは東京市豊島区雑司ヶ谷で生まれた。  多分父の勤め先、当時の本郷区駒込にあった理化学研究所に近いので雑司ヶ谷に居をかまえたのだろう。   1937年4月、中国東北部の長春、当時の満州新京駅に降り立った時わたしは二歳足らずだった。盧溝橋事変が起きる三か月前のことである。 家族を連れて汽船で大連に向かい、大連から特急あじあ号に乗って新京に向...

【第1回】「ライラックの花香るころ―中国語を生涯の友として」

まえがき  ライラックは、中国語では“丁(ディン)香(シャン)花(ホア)”、あるいは“紫丁(ズーディン)香(シャン)”という。  わたしが中国語に初めて本格的に触れたのは、七十年ほど前のことだった。 それは1950年に創立された長春(中国吉林省)の東北師範大学付属中学の誕生とほぼ重なる。わたしがその三年八組に編入学したのが1951年。  母校は、いわばわたしが中国語を身に...