【第6回】はじめての通訳~通訳と訓練方法に対する誤解「記憶力がよくないと通訳になれませんか?」

答え

そんなことはないと思います。通訳者同士で記憶力の良し悪しの話をしたことはないですし、私自身も記憶力がいいとは思いません。私事ですが、私の弟は記憶力がよく、1年前、5年前といった昔の出来事を鮮明に覚えていて「備忘録」のように家族から重宝されております。片や私は日常生活の細々したことはしょっちゅう忘れ、家族のイベントがあったことすら忘れていることもあります。

なぜこのような質問が?

まず、40代以上と思われる方からこのような質問を受けることが多いように思います。年齢とともに記憶力が落ちてきて、そもそも単語が覚えられないし、通訳なんて到底自分には無理なのではないか、と相談を受けることもあります。

また、社内通訳をしていると議事録サポート業務として作成後に議事録の過不足を確認または書記のフォローをしますが、そのときも同じことを言われます。会議議事録を作成する方はある程度英語ができる方が多く、中には通訳を目指している方もいて、その方に記憶力がない⇒通訳に向いていない、という発想をされることがあります。

ではどうすればいいのか?

(1)年齢と記憶について

「最近物忘れがひどくて」と年齢が上がるにつれて記憶力が落ちていく、とおっしゃる方がいますがそれは間違っています。

東京大学の池谷裕二先生によると総合的な記憶力というのは、実は30代、40代を超えて初めて伸びるといっても過言ではないです。人間の脳の奥深くに『海馬』と呼ばれる部位があります。最近の脳科学の研究によって、実は海馬の神経細胞というのは、脳を鍛えれば鍛えるほど増殖することがわかってきました。

では、記憶力が落ちているように感じられるのはなぜでしょうか。

脳の『ワーキングメモリー(短期的な記憶をするメモリー)』を使って一度に覚えられることは、せいぜい7つか8つしかありません。中間管理職の方の場合、会社の将来、部下のこと、家族のことなどでワーキングメモリーが常時満杯状態です。ワーキングメモリーを自分専用に使えないために脳が消化不良を起こしているだけで、メモリーの性能自体が落ちたわけではないのです。

つまり、学生のときは恋愛や友人関係の悩みはあるものの大人と比較すると勉強に集中できる環境にあったから記憶もできたわけであり、今は日常様々なことを日々気にしているためその分記憶するエネルギーにあてられないということがいえます。

また、重要なのは、年を取ると記憶力が低下するのではなく、若いときとは得意とする“記憶の種類が変わる”という点です。物事を関連づけて記憶する理論的な記憶が得意になってきます。理論を覚えると、その理論をさまざまな分野で応用することが出来ます。(PRESIDENT 2005.7.18号)

つまり、若いときは知識がないために丸暗記をするしかなかったわけですが、大人になると頭の中でストーリーが描けるようになってくる。また、例えば「ポケモン」という言葉も子供だったら言葉を丸暗記するしか覚える方法はないのですが、「ポケットモンスター」の略称だとわかれば言葉を丸暗記する必要はないですよね。

ですので、年齢を重ねるごとに記憶力が衰える、という考えをまず捨ててください。次に、勉強のときには日々気になることが記憶の妨げにならないようやるべきこと、感情をきちんと整理しておくこと。そして、丸暗記ではなく理論や話の流れを理解しようと努めることです。

(2)通訳者の記憶力について

通訳者は記憶力、正確には記憶保持力(リテンション)を高める訓練のひとつとしてリプロダクションを行います。リプロダクションとはある程度の長さの英文を最後まで聴き、一時的に記憶に留め、原文をそのまま口頭で再現する手法です(「英語通訳への道一通訳教本」日本通訳協会)。

「一時的に記憶に留め」とあるように短期記憶を高める訓練です。また、「原文をそのまま口頭で再現する」と書いていますが、丸暗記するのではなく、文章の構造を把握し、それらを映像化しながら行います。また、リプロダクションができるレベルに達しているということは、それまでの英文のストックが相当数あるわけですから、それに「付け足す」感覚です。「付け足す」ものは、その文章に固有の表現や初めて聞く表現などで、頭の中のホワイトボードに表現を「念写」していきます。

つまり、この訓練は通訳に必要な短期記憶力を伸ばすものであり、長期記憶を伸ばすことを目的としたものではありません。したがって、あなたが議事録作成者として議事録の確認の際に「この通訳者、よく覚えているなあ」と思ったとします。それは会議に関連することなので、エピソードと共に記憶に留まっている揚合が考えられます。もしくは、通訳者は脳をよく使うので結果として覚えていただけであり、記憶力が極めてすぐれでいるわけではないのです。

また、通訳訓練法として主に海外の大学院で行っているアクティブ・リスニング法(傾聴)があります。これはメモを取らずに3分以上音源を流して通訳する訓練ですが、話者の話を先読みしつつ分析し、論理的に捉えていくことで長い発話でも記憶にとどめて訳出できるようにする手法です。先ほどの「丸暗記ではなく理論や話の流れを理解しよう」を通訳訓練法に展開させた手法といえるでしょう。

終わりに

経験上、このような質問をされる方は最初から通訳を目指しているというよりは、通訳または通訳訓練に興味を持たれた方が多いように思います。そして記憶力がない⇒通訳なんて無理、とあたかも風呂敷を広げるかのごとくたった一つの理由から自分の可能性を打ち消してしまいがちです。

その前に、広げてしまった風呂敷をたたみなおしてください。年齢上≠記憶力が衰えるではありません。通訳の記憶力は訓練の賜物で、誰でもできることであり芸術家やスポーツ選手のような「記憶力に秀でている人」といった才能は必要ありません。

このことを踏まえて、「記憶力が弱いこと」で気後れすることなくしっかりと通訳訓練に取り組んでいただけると幸いです。

次回も、脳や記憶力に関連した話を取り上げます。


菊池葉子(きくち ようこ)

英語通訳者、英語講師、京都女子大学非常勤講師。2008年通訳デビュー。主な通訳分野は技術、IT, 建築、IR。2011年に通訳学校卒業後、同年通訳学校の講師として稼働開始。主に通訳初心者向けの授業を担当。また、2015年より大学講師として会議通訳演習を担当。受講生からは、最初から順を追って丁寧に指導してもらえる、飽きさせない授業をしてくれる、との評価を受けている。