【第2回】チャーリーの金融英語「『スラック』から考える失業率 (その1)」

金融翻訳者のチャーリーこと鈴木立哉さんが、様々な金融用語の背景を紹介し、翻訳者としてどのような思考過程で訳語を考えたのかを解説する連載(不定期)の第2回です。プロの思考法をお楽しみください!


労働市場の「スラック(Slack)」は、米連邦準備制度理事会(FRB)のイエレン前議長が2017年3月の講演で詳しく説明し、FRBはその後のFOMC声明や議事録でも何度も取り上げたので、読んだり聞いたりしたことのある人は多いかも

今回は「スラックとは何か」を出発点に、まず、イエレン氏のスピーチでスラックや失業率の概念について“雰囲気”を知っていただき、次回は1本のまとまった記事を見ながら、我々が仕事をする上で知っておいた方が便利だと思われる失業率関連の知識や訳語を整理しておきたい。

1.「スラック」とは何か?

What the Federal Reserve Is Doing to Promote a Stronger Job Market(雇用情勢の改善に向けたFRBの取り組みについて)(2014年3月31日)

イエレン氏は2014年2月3日に就任したばかりで(注1)、記録を見る限り、このスピーチは金融政策に関して彼女が行った最初のスピーチとなる(注2)。以下はその中で「スラック」について述べた部分を紹介しよう。

The Federal Reserve takes its inflation goal very seriously. One reason why I believe it is appropriate for the Federal Reserve to continue to provide substantial help to the labor market, without adding to the risks of inflation, is because of the evidence I see that there remains considerable slack in the economy and the labor market. Let me explain what I mean by that word “slack” and why it is so important.

アメリカ経済の現況を踏まえると、FRBは、「物価上昇のリスクを高めることなく、今後も労働市場に大きな貢献を果たすことができると考えます(注3)。その理由の一つは、(現在の)米国経済と労働市場には『スラック』がかなり存在するという証拠があるからです」。当時のインフレ率は2013年第4四半期が前年比1.2%と、FRBは低インフレを懸念していた状況だった。そして、「なぜ『スラック』がそれほど重要な意義を持つのかについてこれから説明させていただくことにしましょう」と続く。

Slack means that there are significantly more people willing and capable of filling a job than there are jobs for them to fill. During a period of little or no slack, there still may be vacant jobs and people who want to work, but a large share of those willing to work lack the skills or are otherwise not well suited for the jobs that are available. With 6.7 percent unemployment, it might seem that there must be a lot of slack in the U.S. economy, but there are reasons why that may not be true.

「『スラック』とは、働く意欲も能力も備えた求職者の数が求人の数をはるかに上回っている状況を意味します」。その後に、スラックが存在しなくても未充足の欠員が生じる場合があるのは、「求人側の求めるスキルを欠いていたり、求人側が希望する条件を満たしていなかったりする求職者の割合が多いため」だと指摘する。当時の失業率は6.7%。リーマンショック時の10%をピークに低下傾向にあった(注4)がまだまだ不十分であり、労働市場にはかなりの「スラック」が存在しているのだ、と。

To the extent that people who desire to work lack the skills that employers are demanding, there is less slack in the labor market. This is an example of what economists call “structural” unemployment, and it can be difficult to solve.

「求職者が職を得たいと望んではいても求人側が求めるスキルを欠いている場合には、労働市場にはその分だけ『スラック』が少ないことになります」。これが構造的失業(structural unemployment)だ。しかし労働者のスキル不足等が原因なのだから、改善には教育改革等、時間のかかる政策が必要で、金融政策でできることはないと述べる(注5)。

But a lack of jobs is the heart of the problem when unemployment is caused by slack, which we also call “cyclical unemployment.” The government has the tools to address cyclical unemployment. Monetary policy is one such tool, and the Federal Reserve has been actively using it to strengthen the recovery and create jobs, which brings me to why the amount of slack is so important.

「しかし、失業の原因がスラックにある場合には求人数の欠如が問題の核心となります」。そしてこの需要不足による「失業」を「循環的失業」(cyclical unemployment)と呼んで構造的失業と区別し、FRBの出番はまさにこのタイプの失業の時にこそあるのだ、と述べる。

Worse than that, without slack in the labor market, the economic stimulus from the Fed could put attaining our inflation goal at risk. In fact, judging how much slack there is in the labor market is one of the most important questions that my Federal Reserve colleagues and I consider when making monetary policy decisions, because our inflation goal is no less important than the goal of maximum employment.

構造的失業に金融緩和策を講じてしまうと物価の安定が脅かされる。したがってFRBが雇用の安定のために失業率をみる場合には、「労働市場に『スラック』がどの程度存在するかを見積もることが金融政策を策定する上で最重要といえるほどの問いになるわけです」。

2.「スラックが存在している」証拠

1)「失業率に含まれない労働需給の「緩み」

One form of evidence for slack is found in other labor market data, beyond the unemployment rate or payrolls, some of which I have touched on already. For example, the seven million people who are working part time but would like a full-time job.

「労働市場にまだかなりの『スラック』が残っていることを示す証拠の一つは、失業率や非農業部門雇用者数以外のデータに求められます」。そして職についているのだから「失業者」(注6)には含まれないというわけ。その例として、「フルタイムの仕事を希望しながらも仕方なくパートタイムの職についている労働者が700万人いる」と指摘する。

2)賃金が上がっていないから

A second form of evidence for slack is that the decline in unemployment has not helped raise wages for workers as in past recoveries. Workers in a slack market have little leverage to demand raises.……. But labor market slack has also surely been a factor in holding down compensation. The low rate of wage growth is, to me, another sign that the Fed’s job is not yet done.

「(スラックが存在している)2つ目の証拠は、失業率が低下しているにもかかわらず名目賃金は過去の景気回復局面においてほどには上昇していないという点です」。

3)長期失業者の存在

A third form of evidence related to slack concerns the characteristics of the extraordinarily large share of the unemployed who have been out of work for six months or more.

「スラック」存在の3番目の証拠として「長期失業者」(注5)の割合が多い点を挙げている。働く意欲があり求職もしているのに職がなかなか得られない人々(「失業者」に入る)がかなりいる事実を無視できないと述べている。もちろん、最終的に職探しを諦めてしまう人々(労働力人口から抜け落ちる=失業者のカウントから外れる)がいる、とも。

 4)労働参加率の低下

A final piece of evidence of slack in the labor market has been the behavior of the participation rate–the proportion of working-age adults that hold or are seeking jobs. Participation falls in a slack job market when people who want a job give up trying to find one. ……Lower participation could mean that the 6.7 percent unemployment rate is overstating the progress in the labor market.

労働参加率(生産年齢人口に占める労働力人口⦅就業者+失業者⦆の割合)の動きを見るべきだ、という話。そもそも就職活動をしていない(あきらめた人も含めて)がいるはずではないか。したがって「6.7%の失業率をもって雇用情勢が改善しているとは言い切れないでしょう」と結んでいる。

One factor lowering participation is the aging of the population, which means that an increasing share of the population is retired. If demographics were the only or overwhelming reason for falling participation, then declining participation would not be a sign of labor market slack. …Based on the evidence, my own view is that a significant amount of the decline in participation during the recovery is due to slack, another sign that help from the Fed can still be effective.

労働参加率の低下要因の一つとして高齢化を挙げ、「労働参加率低下の大半がもし高齢化によるものであれば、これはスラックの兆候にはならないだろう」。この後で、再就職したくてもできない高齢者が「失業者」にカウントされていない点を指摘している。さらに働き盛りの人々の労働参加率も低下しているじゃないか、と。

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上の内容を、私の理解を添えてまとめてみると、こんな感じだろうか。

  1. 働く意欲も能力も備えた求職者の数が求人の数をはるかに上回っている状況が「スラック」。つまり、「失業者」(注6)は「スラック」に入る。「スラック」って失業者に含まれない「余り」のことではないのだ。現在は当時よりも失業率が低いため(注4)、「失業率は低くても『スラック』があるので労働環境は厳しい」という文脈で使われることもあり、言葉の意味内容が若干ズレてきたかもしれない。ただ、元々はこういう意味だった(らしい)。
  2. 「失業」には「スラック」に入らない構造的失業者が含まれている。その解決にはFRBの金融政策ではなく、時間のかかる財政政策が必要で、そこを見極めないと金融緩和政策がかえって状況を悪化させる場合がある
  3. 「スラック」には「経済的理由によりパートで働いている人々」など、今の定義の「失業者」(注6)には分類されない人々が含まれる。
  4. 働く意欲も能力もあるにもかかわらず就業者になりにくく、労働市場から退出する(そうなると、労働人口ではなくなる)予備軍層である「長期失業者」(注7)の存在に留意。
  5. 失業の深刻度を見るには、「労働参加率」が低下している事実も忘れないこと。つまり、就職をあきらめてしまって「失業者」にカウントされない人々(その分だけ失業率が低くなっている)とりわけ、実は働きたい(失業者に数えられない)高齢者も「スラック」の一部。

という感じで、直感に訴えやすい事例並列的に紹介されているが、スラックに入らない「失業者」や「失業者」に入らない「スラック」など、複雑な内容がさらっと述べられ、それぞれの段落で語っている内容の次元が異なるし、スピーチすべての例が挙げられているわけでもない。さらに、スラックが存在する2番目の証拠である「賃金が上がっていないから」に至っては完全な状況証拠で、「失業率が低下しているのになぜ名目賃金が上がらないの?」に対して「スラックがあるから」。「なぜスラックがあるの?」という質問には答えられないので、説得力に欠けるかも。……そんなこんなで、「何となくわかったような、よくよく考えるとわからないような」感じがしませんでしたか?私が冒頭で“雰囲気”と書いたのはそういう理由です。

・・・というわけで、今回はイントロダクション、次回(来月)はや失業率に関してもう少しまとまった記事の内容をご紹介して、失業率関連の用語を整理して行く予定(「「スラック」から考える失業率  (その2)」)です。(注8)

なお余談ながら、イエレンさんは、2017年12月13日、FOMC開催後に開かれた在任中最後の記者会見で、「われわれは完全雇用に極めて近接しています」と述べて勇退されました(注9)。もし2期目に入っていたら、今頃、トランプさんから次のようなツイートをされていたかも。”…My only question is, who is our biggest enemy, Janet Yellen, Barack Obama or China’s Xi?”(注10)

ではまた次回に。

【注釈】

  1. 在任は2018年2月3日までの1期4年間。オバマ嫌いのトランプ大統領がオバマに任命されたイエレン氏を嫌ったという説は結構有名(?)。
  2. FRB議長をはじめとするFRB高官のスピーチは下のURLで期間を指定すると閲覧できる。https://www.federalreserve.gov/newsevents/speeches.htm
  3. FRBには2つの使命(dual mandate)、雇用の最大化(maximum employment)と物価の安定(price stability)(このスピーチではinflation goalと表記されている)があるが、このうち、「インフレ目標」については、2012年1月25日に連邦公開市場委員会(FOMC)が発表した特別声明(Federal Reserve issues FOMC statement of longer-run goals and policy strategy)で示された(下線が重要)。”The Committee judges that inflation at the rate of 2 percent, as measured by the annual change in the price index for personal consumption expenditures, is most consistent over the longer run with the Federal Reserve’s statutory mandate.” FRBはそのうち、価格変動の激しい食品とエネルギーを除いたコア個人消費支出(PCE)デフレーターを最も重視しているとされている。なお、当時の議長は、インフレターゲット論者として有名なベン・バーナンキ氏。https://www.federalreserve.gov/newsevents/pressreleases/monetary20120125c.htm
  4. 失業率はさらに下がり続け、2019年7月の雇用統計では、3.7%まで落ちた。
  5. 構造的失業:需給バランスではなく,産業・就業構造の状況により決定される失業(コトバンク)https://kotobank.jp/word/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E7%9A%84%E5%A4%B1%E6%A5%AD-62594
  6. 米国労働省の直近の定義(国際労働機関(ILO)の定義と同じ)に従うと、失業者とは、現在は①就業していないが、②直近4週間求職活動をしている、③就業可能な者のこと。こうした各種「失業」の定義については(その2)でやや詳しく紹介する。なお、ILO主催の第19回国際労働統計家会議において就業等において採択された終業等関する決議:原文と日本語訳(手に入った仮訳):150ページからは次の通り。https://www.ilo.org/wcmsp5/groups/public/—dgreports/—stat/documents/normativeinstrument/wcms_230304.pdf https://www.stat.go.jp/data/roudou/pdf/hndbk10_2.pdf
  7. このスピーチでは6カ月以上の失業者を長期失業者と定義しているが、例えば日本では1年以上を「長期失業者」とする例が多い。 「わが国の長期失業者の現状」https://www.boj.or.jp/research/wps_rev/lab/lab16j02.htm/
  8. なお、この演説の日本語訳は下記に掲載されているが、翻訳はやや冗長でポイントがズレており、また誤訳と思われる箇所もあるので、あくまでも英語を読む際の補助としてご参照ください。https://econ101.jp/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%B3-%E3%80%8C%E9%9B%87%E7%94%A8%E6%83%85%E5%8B%A2%E3%81%AE%E6%94%B9%E5%96%84%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%9Ff/
  9. 就任中最後となったFOMC後の記者会見における該当発言はこちら。“…Participants do recognize that the unemployment rate is lower than their estimates of its long-run sustainable rate, so I think we are in the vicinity of full employment.”
    (Transcript of Chair Yellen’s Press Conference December 13, 2017
    https://www.federalreserve.gov/mediacenter/files/FOMCpresconf20171213.pdf
  10. 2019年8月23日(フランスでのG7サミットの前日)、トランプ大統領は次のツイートをし、その後ムニューシン財務長官が「文字通りのコメントと思わない」と火消しに追われた。ちなみにイエレン議長を任命したのはオバマ大統領。パウエル議長を任命したのはトランプ大統領。”…My only question is, who is our bigger enemy, Jay Powel or China’s Xi?”
    https://www.foxbusiness.com/economy/trump-federal-reserve-jerome-powell-xi-jinping

鈴木立哉(すずきたつや)

金融翻訳者。あだ名は「チャーリー」。一橋大学社会学部卒。米コロンビア大学ビジネススクール修了(MBA:専攻は会計とファイナンス)。野村證券勤務などを経て、2002年、42歳の時に翻訳者として独立。現在は主にマクロ経済や金融分野のレポート、契約書などの英日翻訳を手がける。訳書に『ティール組織――マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版)、『Q思考――シンプルな問いで本質をつかむ思考法』(ダイヤモンド社)、『世界でいちばん大切にしたい会社 コンシャス・カンパニー』(翔泳社)、『ブレイクアウト・ネーションズ』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)など。著書に『金融英語の基礎と応用 すぐに役立つ表現・文例1300』(講談社)。