【第4回】実際価値と知覚価値

update:2018/01/18

前回の記事では、エージェントに登録する際にはできるだけ好条件を初回登録時に引き出した方がよいと書きました。登録時のレートはとても大事で、収入面で通訳者のキャリアを左右するからです。ただ、この点についてはピンとこない読者もいると思いますので、具体的に説明します……といっても具体的に書きすぎたら指定の文字数に収まらないので、真面目に勉強したい人は行動経済学の入門書を読んでもらうとして(笑)、ここではざっくりと解説したバージョンを。

実際価値(AV)と知覚価値(PV)

モノやサービスには実際価値(actual value; AV)と知覚価値(perceived value; PV)があります。AVとは平たくいえば原価のようなものと考えてください。このAVに顧客の期待値を含めた価値がPVです。

シューズを例にして説明しましょう。近所のショップが自社開発のシューズ「X」を販売しようとしています。商品自体に問題はありません。どこにでもありそうな普通のシューズで、製造原価は1,000円。これがAVです。ただ半年後、なんとナイキがこのショップと提携して、「X」を春の新作として、世界各地で大々的にプロモーションを打つことになりました。人気アスリートもインスタグラムで推しています。するとモノ自体は変わっていないのに、2万円でも売り切れ続出の人気商品となりました。これがPVです。PVを平たく定義すれば、「顧客が考える価値」です。人はモノやサービスを購入するとき、AVだけではなく、市場での評判(ブランド)や自分が得る利益・効能についても考え、意思決定の材料にします。

1970年代、タヒチの海岸には天然の黒真珠がゴロゴロ転がっていましたが、需要はなく、販路もありませんでした。黒真珠で儲けようと考えていたけれど苦戦していたイタリアの宝石商、ジェームス・アセールは、旧友の宝石商であるハリー・ウィンストンに相談しました。ウィンストンがニューヨーク五番街の高級店で黒真珠にとても高い価格を付けて販売したところ、すぐにニューヨークのセレブたちが黒真珠のネックレスを身に着けるようになったそうです。

誰も欲しがらなかったゴミ同然の黒真珠が、ハリー・ウィンストンという誰もが認めるブランドと販路を得た瞬間、PVが一気に天井を突き抜けたという良い例です(行動経済学ではアンカリングと呼ばれます)。ただこれは逆もしかりで、商品自体に問題はないのに、粉飾決算等でブランドイメージが毀損されて売れなくなったり、価格がAV以下になったり、その結果として会社が潰れてしまうこともあります。

通訳者(というか、モノやサービスならなんでも)の価値も本質的には同じです。通訳者がエージェントに登録する際に合意するレート(報酬額)や、直取引のクライアントと合意するレートはあくまでもPVであり、AVとは完全に異なります。そしてむしろ、通訳者のAVは性質的に見極めにくいからこそ、PVに徹底的にこだわる必要があるのです。これは「技術不足を演出で補う」と誤解されがちなのですが、決してそうではなく、「自分の価値を効果的な演出により最大化する」と考えてください。この「演出」の例として、実績表の表現の仕方、仕事の選び方、エージェントやクライアント、同業者との関係構築、そして研究活動などがあります。

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レート設定とアンカリング

通訳者が取り組むべきはまずPVの最大化。その延長線上にエージェントやクライアントとのレート交渉があります。特に初回登録時の交渉はとても重要です。なぜなら、最初に合意したレートにより通訳者のレートの伸び率、そして実質的な最高レートが決定されてしまうことが多いからです。

多くのエージェント、特に大手は社内規定として、①レート交渉の時期と②1回の上げ幅制限を定めています。たとえば「毎年3月」、「1回のレートアップにつき最大20%」などです。圧倒的な実績を持つ通訳者であれば例外が認められるかもしれませんが(どんな規則にも例外はある)、通常はエージェントの規定に従うしかありません。1回につき最大20%アップとし、初回登録時のレートをAさんは 3万円、Bさんは 5万円として比べると、5回の20%アップを経た時点でAさんは約7.5万円、Bさんは約12.5万円になります。かなり差がつくのがわかると思います。

ただ、これはたとえばの話であって、普通の通訳者は同一エージェントとキャリアを通して5回もレート交渉はしないでしょう。多くても2回~3回くらいかなと思います。エージェントと通訳者の人間関係とパワーバランスにもよりますが、たとえば毎年のように交渉をお願いしていたら面倒な通訳者と思われる可能性もあります。金額が上がるにつれて伸び率も低下するのが普通です。ですからなおさら初回のレートが重要になるわけです。

「それなら1回の交渉で交渉材料を山積みにして80~100%アップをお願いしたらいいのでは?」と考える読者もいるかもしれませんが、これも難しい。エージェント側に「3万円の人材」としてアンカリングされた通訳者が6万円を勝ち取るのはほぼ不可能といってよいでしょう。レートが2倍ですから、人材価値が2倍になったとエージェントに主張するわけですが、通訳者の技術は目に見えないので定量化しにくい。ましてやエージェントの担当者は通訳者の仕事ぶりを毎日のように現場で確認しているわけではありません。2倍アップは心理的に(そして、ビジネス的にも)受け入れにくいでしょう。

繰り返しますが、初回登録時のレートで、そのエージェントでのあなたの最高レートは実質決定するといっても過言ではないと思います。ですから最初はむやみに登録数を増やさず、地道に実績を積み上げ、勉強会などを通じた同業者とのネットワーク構築を優先するべきです。技術さえあれば、そのうち必ずベテラン通訳者の紹介で登録する機会が訪れるので、状況によってはPVを意識した強気の価格設定で攻めてもよいかもしれません。高めのレートで登録できれば、エージェントはその金額に見合う通訳者としてあなたを見て相応のオファーをするでしょうから、あとはあなたの技術で結果を残せばよいだけです。

自分のパナガイド(簡易通訳装置)を所有する通訳者もいます

その他の交渉豆知識

これを知らない、というか考えたことがない通訳者が多いという印象があります。同一エージェントでも分野別で異なるレート設定をすることはできます。特に対象分野で圧倒的な知識・実績を持っている場合は、その点をアピールして高めのレートを勝ち取ることは十分に可能です。

海外のエージェントと取り引きをする場合は、ネット検索などを通じて市場調査を行い、案件の性質なども考慮して適切なレート設定を心がけましょう。日本のエージェントと異なり、海外のエージェントは交渉ありきでアプローチしてくる場合が少なくありませんし、状況によってはとても高い評価をしてくれるところもあります。要は、日本のレートをそのまま海外に適用する必要は全くないということです。

最後に。交渉を持ちかける場合はタイミングと状況をきちんと見極めましょう。結局はビジネスですから、相手の利益も十分に考慮しなければいけません。自分はこれだけ勉強している、これだけ準備に時間をかけて現場に出ている、だからレートアップは当然、と考えて一方的に主張する人もいるようですが、相手あってのビジネスということを忘れずに!

関根マイク

Mike Sekine

通訳者。関根アンドアソシエーツ 代表、日本会議通訳者協会理事、名古屋外国語大学大学院兼任講師、元日本翻訳者協会副理事長。得意分野は政治経済、法律、ビジネスとスポーツ全般。

現在は主に会議通訳者として活動しているが、YouTubeを観てサボりながらのんびり翻訳をするのも結構好き。近年は若手育成のため精力的に執筆活動も行っている。「イングリッシュ・ジャーナル」で『ブースの中の懲りない面々?通訳の現場から』を連載中。