【第1回】通翻訳者が知るべきBrexit「幕間」

これを書いている2019年6月、ここ半年間のBrexit(※1)狂騒劇は幕間を迎えたように見える。Brexitを巡る国会での攻防や抗議デモ、EUサミットのニュースを息つく暇もなく流していたUK(※2)のニュースメディアも、今はメイ首相の後継者を選ぶ保守党党首選に焦点を移している。

UKは現在もEUのメンバーである。2016年6月24日の朝に「欧州連合離脱是非を問う国民投票」(European Union Membership Referendum)の開票結果が発表された時には、まさか満3年経っても離脱していないどころか、いつどんな形で離脱するのかさえ決まっていないとは、ほとんど誰も予想しなかっただろう。

EUの法的枠組みを規定するLisbon Treaty(リスボン条約)の第50条は、メンバー国がEUから離脱するにはその旨を欧州理事会(European Council)に通知し(Article 50 Withdrawal Notice)、EUと交渉して、通知日から2年以内に離脱協定(Withdrawal Agreement)を締結しなければならないと定めている。

2017年3月29日にEUに離脱通知を提出したUKは、2年後の2019年3月29日にEUから離脱するはずだった。交渉は2017年6月19日に開始し、2018年11月14日には離脱協定案が発表された。UKがEUに支払う清算金(2013-20年のEU予算のうちUKが負担する分担金の未払い額だが、一般に”divorce settlement”、つまり離婚手切れ金と呼ばれている)、離脱後のEU・UK市民の権利、国境・税関管理、そして完全離脱までの移行期間について規定する、599ページの分厚い法文書だ。さらに追補として、離脱後のUK・EU間の関係について大枠をまとめた26ページの「政治的宣言」(Political Declaration)が付いている。協定本体は法的拘束力を持つが、政治的宣言の方は現時点での両者の希望を文書化した叩き台程度の位置付け、という違いがある。

EU27ヶ国を代表する欧州理事会は11月25日に協定案を承認し、交渉は完結した。あとはUK国会が協定を承認すれば協定は締結に進み、UK国会は協定の内容を法制化して離脱プロセスは完了、その次のステップである貿易協定交渉に進む。…はずだった。

ところがこの離脱協定は与野党の離脱支持派・反対派両方から批判を浴び、UK国会は432票対202票という史上例のない大差でこの協定を否決。EUとの再交渉や議員懐柔の試み、野党第一党である労働党(Labour Party)との協議、さらにはテリーザ・メイ(Theresa May)首相の「協定案を可決してくれたら辞任する」という約束も効果はなく、UK政府はEUに離脱期限の延長を求める羽目になった。

4月10日のEUサミットでUK政府が6月30日までの延長を要請したのに対し、ドナルド・トゥスク欧州理事会議長(Donald Tusk, European Council President)は最長1年間・短縮可能な”flexible extension”を提案したが、マクロン仏大統領は延長など無駄と訴えて断固反対。結局EUは離脱期限を10月31日に延長するという妥協案を採用した。

この決定を発表したトゥスク議長は、UK政府と国会に向けて”Please do not waste this time”と釘を差した。しかしUK国会はこの後すぐにイースター休暇で閉会し、続いて各政党は選挙モードに入った。5月2日にイングランドで地方選挙、5月23日には欧州議会選挙が実施され、保守党はどちらの選挙でも予想を超える大敗を喫した。敗北原因は明らかにEU離脱問題で、「離脱延期はメイ政権の無能のせい」と怒る離脱支持者と、離脱に反対し国民投票の再実施を求めるEU残留支持者、どちらからもそっぽを向かれた結果だ。これまで幾度も政権存続の危機を乗り越えてきたメイ首相も、ついに引責辞任に追い込まれた。

というわけで、現在与党保守党(Conservative Party ※3)は党首選の真っ最中だ。13人もの候補が名乗りを上げたが、最有力候補は国民投票で離脱キャンペーンの顔となったボリス・ジョンソン(Boris Johnson)だ。保守党員の間では絶大な人気があり、当選はほぼ確実と考えられている(※4)。複数ラウンドの議員投票によって2人に絞り込まれた候補者のどちらかが、党員による最終投票で新党首・次期首相の座に就く。結果が発表されるのは7月22日の週。現在宙ぶらりんになっているBrexitの取り組みが再開するのはその後ということになるが、UK国会は7月24日から9月3日まで夏休みだし、EUももちろんヴァカンスシーズンを棒に振ってまでUKとの交渉に付き合うはずもない。夏休みが明けたら10月31日の期限はまた目前だ。

Brexitが休憩状態とはいえ、党首選でも最大の争点はもちろんBrexitだ。しかし、候補達がそれぞれ離脱達成の青写真を示して熱い議論を戦わせているのかと言うとそうではない。どの候補も10月31日までに離脱協定を締結して離脱することを目指すと言っているが、どうやってそれを実現するのか、実現しなかった場合はどうなるのかなど判然としない。というわけで、迷走するUKの舵取り役が交代した後も、Brexit狂騒劇が一体どんな展開になるのかは誰にもわからない。

この連載では、Brexitの最新状況についてお伝えするとともに、なぜこんなことになってしまったのか、BrexitとはUKにとって何なのか、過去を振り返って分析していく予定だ。


※注1 Brexit (/ˈbrɛksɪt, ˈbrɛɡzɪt/):
BritainとExitを組み合わせた造語で”UK’s exit from the EU”を意味する。日本では「ブレグジット」と表記されているが、現地ではxを無声音として発音する人が多い。この連載ではBrexitと表記するので、どちらでも好きな発音で読んでほしい。

※注2 UK:
United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)の略。外務省採用の正式な日本語略称は「英国」だが、英国という呼称自体は英吉利(イギリス)の略であり、ポルトガル語のInglez (=English)が語源であるため、イングランドを指して「英国」や「イギリス」と呼ぶこともあるから紛らわしい。UKとEnglandの区別はBrexitについて語る上で重要なので、この連載ではUKの表記を使う。
ちなみに、”UK’s exit from the EU”を意味して作られた造語がUkexitやUxitではなくBrexitだったという点も、今考えるとなかなか示唆的である。

※注3 保守党:
一般にはConservative Party、通称ConservativesとかToriesと呼ばれているが、正式名称はConservative and Unionist Partyという。”Unionist”というのは、現在のUnited Kingdomの枠組み、つまりイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという4つの国(Home Nations、Home Countriesと呼ばれる)の連合体(Union)という国体の維持を党是としているという意味だ。なのでもちろんスコットランドの独立やアイルランドの再統一には反対している。

※注4 保守党党首選:
保守党にはなぜか昔から「最有力候補は党首選で勝てない」というジンクスがある。ボリスはそういえば前回も立候補を断念するまでは最有力候補と目されていたし、元首相のキャメロンやメージャー、サッチャーも、党首選で名乗りを上げた当初は当選の見込み薄と思われていた。


杉本優(Yuno Dinnie)

スコットランド在住。1990年からスコットランドの日系メーカー社内翻訳者、2008年からフリーランス。専門分野はスコットランド史・時事、園芸、サルサだが、翻訳需要がないので主に法律・契約書と環境・サステナビリティ分野の翻訳を扱っている。http://sugimoto-yu.net/