【第8回】駆け出しのころ「結果オーライ回り道」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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小学校5年生のことだった。とてもきれいですらりとしたオーストラリア出身の女の先生が私たちの学校に赴任してこられた。科目は英語。日本語は話せないらしかった。授業はすべて英語で行われ、私はいつも先生に見とれていた。そのころちょうど『赤毛のアン』を読んでいて、赤い毛ってどんな色なんだろう、と思っていたら授業で先生がご自分の毛が赤毛だとおっしゃった。それは赤、というよりオレンジと茶色の間くらいの色だった。それはさておき、所詮は小学5年生、クラスがうるさすぎて、授業が進みにくい時があった。そういう時、先生は私を前にお呼びになり、皆の前でご自分の通訳をさせた。ちょっとだけ他の人より先生の話される英語がわかっていると思われたらしい。それが初めての通訳体験で、人と人をつなぐのって楽しいなと思った瞬間だった。

時間を早送りして、大学4年生。初めてお金をもらって通訳したのはサッカーU17のマスコミ対応。マスコミ対応といっても、英語スピーカーのマスコミの方がいらして、困っていることがあれば助ける、といった仕事内容だった。とにかく楽しかった。ホテルに泊まらせてもらって、仕事が終わったらご飯を食べに連れて行ってもらい、その上お給料がもらえる、なんて楽しい仕事だろう!と毎日修学旅行のようだった(時期はバブル崩壊後だったがバブルの名残があったと思われる)。ノリの良さが気に入ってもらえたのか、その年のトヨタカップ決勝試合(現ヨーロッパと南米のクラブチームサッカー)のマスコミ対応にも通訳として使ってもらった。ブラジルとイタリアのクラブチームの試合だったから、試合後の記者会見に英語を話すジャーナリストは来ないだろうということであったのだがなぜか3名来られて、駆け出しも駆け出しの通訳の私がウィスパリング(そのころはウィスパリングという用語すら知らなかった)をすることになった。選手の名前なのかキックの名前なのかよくわからないまま、聞こえたまま通訳していった。私のでたらめ(!) の通訳内容が新聞に載っていたら (恐らくそうであろう) 申し訳ないなあと今でも思う。でもなぜか、その3名にすごく感謝された。とても嬉しかった。クライアントに感謝されるのがうれしくて今も通訳をしているのではないかと思う。

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(写真:TEDxKobe開催場所のブースにて)

そのままの勢いで卒業後フルタイム通訳になりたかったのだが、プロの通訳さんがお持ちの専門分野なるものが私には全くないことに気づき、いきなり「通訳です」、と飛び込む自信がなかった。そこで縁あり、電機メーカーの正社員になり、海外営業部で働いた。社内通訳ではなかったので、通訳する機会は私が担当するヨーロッパの空調メーカーが商談で来社した時くらいだったが、英語を使う機会は日常的に大変多かったし、実際中に入ってみることで会社の仕組みも理解できた。これが私の専門分野です、というレベルまではいかなかったが、正社員としての経験は現在通訳として色々な企業の社内会議に入る際に大変役に立っている。

その後結婚をし、会社を辞め、年子の子供たちの子育て三昧の日々になった。そのころは基本ワンオペ育児、大変過ぎて記憶がない。仕事を辞めていてもこれだけ大変だったのだから、仕事をしながら小さい子供を育てておられる方々はどれだけすごいのだろうと思う。気が付けば英語とずっと関わってきた自分が全く英語と関わりがなくなってすでに数年たってしまっていた。~さんの奥さん、~のお母さんと周りから呼ばれているが、自分はそもそも何だったんだっけと自問し始めた。そこで、下の子供が幼稚園に入ったのをきっかけに初めて通訳学校の門をたたいた。クラスは週2回だが予習復習が大変だった。子供が起きている時は勉強できないので、通訳学校に通い出してからは子供をできる限り早く寝かし、その後勉強する、もしくは一緒に寝てしまったら朝3時から子供が起きる6時まで勉強した。そのころ通訳学校は4月期と9月期の二回で、子供の夏休みと重なる4月期はお休みして、9月期のみ通っていた。そうこうするうち徐々にお仕事の紹介を頂けるようになった。

私は久々の仕事!ということで嬉しく、しかし主人は平日は忙しすぎてほとんど手伝ってくれなかったので、その日だけ迎えはママ友さんにお願いしたり、習い事の送迎など実家に頼んだりして手配した。でもその嬉しさや緊張感が子供に伝わるのだろうか、仕事当日に限って、子供がおなかが痛い、熱が出る、滑り台から落ちて泣いている、などこれでもかといろいろな事が起こった。だんだんと、「どうせ私が仕事入れてもまたなにかやらかすんでしょう!」とネガティブ思考になっていった。

その頃、通訳を勉強できる大学院が近くにあると聞き、絶対通うのは無理だろうと思いながら興味を持った。平日は夜間、土曜日は丸1日の授業。たまたま通訳学校の先生がその大学院の先生であったこと、そしてその先生が「これから2年は仕事しないでしっかり勉強したら?」と声がけしてくださったこと。また土曜日なら主人がいる、平日の夜間なら、上の子供の塾の時間と重なる。そうだ、後は下の子供だけ何か習い事をさせたら私は通訳の勉強ができるかも!ということで、下の子供はダンススクールに通わせられることになった。ただそのダンススクールが期の途中で急に終了時間が30分早められてしまい、娘はその間大学院の教室で私の隣でたまに寝落ちしながら漢字ドリルをして過ごした。

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(写真:大学院に通っていたころ)

周りの協力もあり、このような紆余曲折を経て大学院を卒業し、晴れて通訳として働くことになった。通訳学校や大学院で通訳を学んでいたころは「こんなに勉強しても、本当に仕事くるのかなあ」ととても不安に感じていたことを記憶している。卒業して今、実際仕事はあった(コロナの前の話だが)。通訳を勉強している人にはぜひ頑張っていただきたい。努力は裏切らない。かなりの回り道をしたかもしれないが、それだからこそ今通訳をさせてもらっているのは、奇跡だなあと思うと同時にまだ夢の途中のような感じがしている。とにかく仕事をもらっていることに感謝しかない。

山崎美保(やまざき みほ) 1993年デビュー
会議通訳者、大学非常勤講師。防災、教育、文化関係が専門。落語家の講演を同時通訳してから、いかに笑いを変換するか、研究中。