【第7回】駆け出しのころ「亀さん通訳は今もゆっくり進んでいる」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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バレリーナ、スチュワーデスと変遷した私の憧れの職業が通訳という今の職業に固定したのは中学生の時でした。中学の時に出会ったドストエフスキーの『罪と罰』の読後感は、後にも先にもない衝撃的なものでした。私が通訳になるとしたらロシア語の通訳と決めたのです。しかし、あの頃聞いてうっとりしたジェー(Jze)という美しい音を持つ文字がЖという全くみたこともない形をしているのを知ったのは、大学でロシア語の教科書をはじめて開いたその日のことでした。

ロシア語のアルファベットを習得するのは大変な苦労でした。日本語にない発音をするのは至難の業であり、一番苦しんだのは巻き舌のР(R)でした。これができないと「ロシア語を話します」Я говорю по-русски.(Ya govoryu po-russki)とさえ言えないのです。ましてや通訳になど…。何度試みても不発に終わる巻き舌に3か月くらい毎日格闘しました。その喜ばしきР(R)の音が降臨したのは、当時住んでいたアパート近くの橋の上でした。突然、やってきたРの音に小躍りしてアパートに帰り、この感覚を忘れまいと、何度も何度も ルルルルルРРРРРРРРРРРРと繰り返したのが昨日のように思い出されます。

猛勉強の末、大学の交換留学生選抜試験に合格し、帰国後、就職活動を始めました。就職は私にとっては通訳への布石に過ぎませんでした。ロシア語を生かしてバリバリ仕事ができるという環境は大手にはないと思っていたので、ロシアの中小専門商社ばかりに就職活動をしかけていました。

入社後、新人一年目から、ロシア人技師の通訳、ソ連公団幹部の接待通訳、見本市の仕事でロシア出張の機会を得ました。ロシア語のブラッシュアップをひたすら考えていた私には最高の環境でした。しかし、もっと大きなチャンスをつかみました。駐在員で唯一のロシア語話者の退社にともない、私は入社1年目の終わりにモスクワ駐在員となり2年をモスクワで過ごしました。

業務は軽微、狭い事務所でたった一人だったので、家庭教師を頼むことにしました。ロシア人の先生には宿題を出すことが何よりも効果的だという信仰のようなものがあるのでしょう。とにかく宿題。これにはげんなりしました。しかしながら、講師になった今、わかるのは、やはり、予復習をした生徒にはかなわないのです。あの頃の私に言ってあげられることは、「宿題をもっと出してと先生に頼むべき!」

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(写真:デビュー2年目。薄氷踏む思いで通訳中)

しかし、だんだん、ロシア(当時はソ連)にいるというだけでは、通訳としてのキャリアは築けないということに気づいてきました。そして、知人の紹介でソ連国営タス通信社東京支社に入社しました。これは人生の中でも重要でした。

先輩である他の翻訳員のアドバイスをうけながら、経済新聞の翻訳に従事しました。また、訳し終わったあとは特派員の添削を受け、書き直すという大変勉強になる日々を送ったのでした。

少女時代からの目標「通訳になる」というゴールへ着々と進んでいました。

そして、通訳デビューは、突然やってきました。それは、ソ連崩壊でタス通信の人員削減に協力せざるをえなくなり、フリーランスとなったからです。私の予定では、あと2年修行時代があるはずだったのですが、準備不足の不安を抱え、大海原に漕ぎ出してしまったのです。

初めての通訳は、広島市でのジャーナリスト同士の交流でした。意見交換、原爆資料館、新聞社の視察などの通訳でした。緊張しやすい私は、口が動かず、どもり、つっかえ、華やかな表敬訪問を台無しにしてしまいました。計画外に通訳デビューしてしまった私は、まだ、実力も度胸も全く伴っていなかったのだと思います。それでも最後まで首にされずに済んだのは、必死に最後まで諦めないで通訳する新米の私を可哀そうに思ったジャーナリストのおじ様たちのおかげだったのかもしれません。

それからも、実力不足と生来の弱気な性格が災いし、落ち込むことが多くなり、才能豊かな周りの人たちと自分を引き比べ、どんどん言葉が出なくなっていきました。自信のなさから本格的に通訳をする勇気が生まれず、アテンド通訳というカテゴリーから飛び出すことができないままに数年が過ぎました。

まだ携帯電話が普及していなかったあの頃、バスで施設見学に行った帰り、渋滞にはまり、カメラ屋の閉店時間に間に合わないとお客さんに言われた私は、バスを先に行かせて、公衆電話を求めて一人降車し、日本料理屋に飛び込みました。無事、カメラ屋に連絡を済ませ、そこを出ようと、キラキラ光る床と思い込んで足を運んだその瞬間、ザブーンと音を立て、私は生け簀の中に落ちていました!!赤っ恥!!

このままでは嫌だ、自分も通訳として活躍したいともがき、ロシアでホームステイをしてロシア語を学び、専門学校の通信教育などを履修したり、先輩たちの通訳を聞いてはノートに書き取り、技術を盗もうとあがく日々でした。

その頃、政府系の仕事を発注するエージェントの試験に合格し、少しずつ仕事をもらえるようになり、技術研修の通訳をするようになりました。やっと通訳としてのキャリアを始めることができたと感じた時代でした。その時にはとっくに30代半ばとなっていました。

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(写真:やっと自信が持てた頃)

あの頃を振り返って思うことは、ひとつやふたつの失敗にくよくよしている暇があるなら、もっと通訳の練習をすればよかった。日露の通訳学校が日本にないなら、求めて、ロシアで英露の通訳学校にでも行けばよかったのだと思います。情報を得てそして行動することでいくらでも道を切り拓くことはできたはずでした。仲間をつくり切磋琢磨したらよかった。今の私のように。

でも、まだ人生は続く。この歳(55歳)で昨年同通デビューを果たしました。念願だったロシア語通訳講座の講師も務めるようになりました。

やる気になれば人間なんでもできるをスローガンにまだまだ頑張ります。

竪山洋子(たてやま ようこ) 1990年デビュー
ロシア語通訳・翻訳者・ロシア語講師 モスクワ大学に一年間留学後、ロシア専門商社に就職し、2年間の駐在生活後、タス通信東京支局に翻訳者として転職。その後、フリーランスの通訳・翻訳者として現在に至る。得意分野は原子力後遺障害医療。訳書に「妖精たちが見た不思議な人間世界」(マール社、2017年)、ゲーム露訳 “False Vows,True Love ~in a night full of lies~”がある。