【第6回】駆け出しのころ「30年かけて夢に近づく」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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いつから通訳に憧れたのかなと振り返ると、中学時代に遡ります。ピアニストを夢見た時期もありましたが、高校進学の際に断念。というのも、三重県のド田舎に住んでいたため、志望校に通学するには片道2時間もかかりピアノの練習時間が確保できなかったからです。

そして次に夢見たのが「通訳」。中高を通してずっと英語が大好きでした。第一志望の大学には入れなかったけれども、英語を専攻し、1年間アメリカに交換留学。卒業時は日常英会話レベルには達していました。けれども通訳になるにはほど遠く、情報も得にくい時代。通訳学校も時間や学費を考えると二の足を踏んでいました。

結局、英会話スクールの講師として英語を使う職業に就きましたが、通訳や翻訳は憧れるだけの日々。この頃に大阪で故米原万里さんの講演を聴く機会があり、「絶対に通訳者になりたい!」と思いを新たにしたことはよく覚えています。そして阪神大震災が起きました。当時近所に住んでいた同僚の外国人講師やその友人とお互いの無事を確認したり、励ましあったりしているうちに、その中の一人だった今の夫と親しくなり、電撃結婚・渡英することになりました。

渡英後まもなく子宝に恵まれたため、正社員の職はあきらめてフリーランス翻訳・通訳として看板を上げることにしたものの、実力も実績もコネもなく暗中模索の日々。それでも日系新聞の求人広告を見て応募したニュース翻訳でなぜか採用され、一応翻訳者としてデビューすることができました。1日200ワード程度の記事を1本和訳する仕事で子育てとの両立には最高の仕事でした。

次男の出産前後はしばらく子育てに専念。一時期は、翻訳・通訳を完全にあきらめて地元の企業に就職することも考えました。思うように社会復帰できず再び悶々とした日々を送っていたところママ友の紹介で『ロングマン英和辞典』の仕事をする機会に恵まれました。縁というのは分からないものです。その後は芋づる式に『コウビルト英英和辞典』、『Oxford Essential Dictionary』、『Collins Pocket Japanese Dictionary』など様々な辞書編纂や『ゴールは偶然の産物ではない』、『GMの言い分』、『市場原理主義の害毒 イギリスからの眺め』など出版翻訳のチャンスにも恵まれました。バース大学・大学院で非常勤講師として翻訳指導をするようにもなり、気が付いたら翻訳者としての地位は確立できていました。けれども、やっぱり通訳への憧れの気持ちは消えません。子供も小学生になり、外で仕事がしやすい環境も整いつつありました。辞書編纂に根を詰めすぎ、ひどい腱鞘炎にかかったこともキャリアを見直すきっかけでした。

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(写真:会議通訳者になるための土台、翻訳や辞書編纂の経験)

 

イギリスには翻訳通訳協会(The Institute of Translation & Interpreting, ITI)という職業団体があり、その日本語支部J-netではメーリングリストで情報交換をしています。最初に通訳の仕事に就いたきっかけは、J-netの求人情報でした。英国政府が主催するゲーム業界のイベントで商談の逐次通訳。日本側の発言を三人称で “Mr XX says he wants to…”のような訳し方だったり、メモの取りすぎで腕が痛くなったりといかにも「新米あるある」というようなパフォーマンスでしたが、幸いお客さんには喜んでもらえて翌年も同じような案件でのリピート依頼がありました。当時は毎日辞書とにらめっこの生活でしたが、「外に出て人に会って目の前にいる人のお役に立てる!」ということにやりがいを感じました。

その半年後に目に留まったのはゲームカンファレンス基調講演における同通の求人募集(J-net)です。講演者は欧米で大人気の日本人ゲームソフト開発者。初めての同通案件でしたが、唯一馴染みのあるゲーム業界だということで無鉄砲にも応募。すると、上記ゲーム業界での経験が功を奏して採用。事前に原稿をもらえる、前日に講演者と打ち合わせがある、というので勇気を出して引き受けました。

結局、原稿が入手できたのは前日。徹夜で英訳し、フラフラの状態で現場に向かいました。原稿部分はなんとか訳せたもののQ&Aでは質問者の英語の訛りで四苦八苦。講演終了後、ぐったりと落ち込んでいたら、ある女性に声をかけられました。なんと翌年に開催される別のゲーム・カンファレンスで同通をしてほしいと!一気に疲れが吹き飛び、また頑張るぞ!と気持ちを新たにしました。

とにかく、逐次通訳の経験も片手で数えられるころから無謀さのみで同通を始めたというわけです。当時は、辞書編纂や翻訳の仕事がメインで通訳は数カ月に一度。その度に「前日眠れない」「翌日は燃え尽きて寝込む」を繰り返していました。

平凡な大学の学士号しかない私ですが、上記の通り大学院で翻訳指導をするようになり、その経験が買われ、今度は別の大学院で通訳の指導をするように依頼されました。翻訳ではある程度の自信もついてきたころでしたが、通訳経験はまだ数えられるほど。しかもすべて独学。まさか自分が大学院で教えられる知識や能力があるとは思えませんでしたが、面接で聞かれた質問は一つだけ。Would you like to work for us?

その後は、とにかく必死で準備して教える、を繰り返していたら大学院での指導も10年以上が経過。通訳も毎年依頼が増え、案件のレベルも少しずつ上がっています。最近では閣僚級会議や首脳会議も依頼されるようになりました。

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(写真:ASEM首脳会合の会場にて。欧州理事会の会議室)
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(写真:2018年ITI Award通訳部門最優秀賞を受賞)

一方、大学院で取り入れられている欧州式の通訳訓練方法が気に入り、これを日英通訳に応用して2016年からオンライン講座グリンズアカデミーを通して世界各地の通訳者を指導しています。

「愛と情熱のある通訳と教育でグローバル社会に貢献する」をモットーに毎日努力を続けていたら、少しずつ夢に近づくことができました。あきらめずに夢を追う、って臭いセリフのようですが、あきらめない限り夢が叶う可能性が残されています。私はずっと憧れてきた通訳者にやっとなれてこれが天職だと思っています。また、同じような夢を追っている人のお手伝いができることも何にも勝る喜びです。

グリーン裕美(ひろみ) 2005年デビュー
日本では英語講師、渡英後『ロングマン英和辞典』や『コウビルト英英和辞典』などの辞書編纂、『ゴールは偶然の産物ではない』『GMの言い分』などの出版翻訳経験を経てから会議通訳者になる。現在は国際会議や政府高官、大臣付通訳など外交の場に出ることが多い。大学院での講師歴10年以上。オンライン通訳スクール「グリンズアカデミー」にて世界各地に住む通訳者が笑顔で切磋琢磨できる場を提供。英国在住。