【第35回】駆け出しのころ「七転び八起き」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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イギリスへ語学留学
私が初めて英語に興味をもったのは、中学生の頃、近所の友達の家にアメリカから交換留学生がやってきた時のことです。テレビでしか見たことがない外国人と遊んで、片言の会話ができた時は有頂天になりました。それをきっかけに近所の英会話教室に通い始めて、大学生になってイギリスに語学留学しました。最初はイギリス人の話す英語が全くわからなくて愕然としましたが、少しずつ耳が慣れてきて、1ヶ月くらい経つとクラスメートたちとパブに行って、おしゃべりを楽しめるようになっていました。半年後にPolytechnic of Central Londonの外国人枠コースに入学、ビジネス・イングリッシュを学びました。

初めての通訳
2年間も留学したにも関わらず、どのようにキャリアを積んでいけばいいのかわからないまま、帰国後間もなく出会った夫と結婚してのんびり主婦生活を送っていたところ、友人の紹介で広島アジアオリンピックのボランティア通訳に参加することになりました。最初は選手村でサポートをしていたのですが、なぜか急に開会式のVIP付きのアテンドを仰せつかり、会場に行くとなんと当時の天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后両陛下)と皇太子妃夫妻(現在の天皇皇后両陛下)が揃っていらっしゃる席の近くでした。緊張のあまり詳細は覚えていませんが、通訳者はこのような世界の架け橋になる大切なお役目であると初めて理解しました。

震災から復帰、社内翻訳・通訳へ
その直後の1995年の阪神淡路大震災で被災しました。結婚して約1年でした。自宅が全壊し、夫も失業して、約1年仮設住宅での暮らしを余儀なくされました。震災後のPTSDに苦しみ、心身ともに疲れ果て、日々を生きていくだけで精一杯の状態が数年続きました。徐々に回復するにつれ、自分ができる仕事は何か、何をしたいかを本気で考えるようになりました。

5年ほど経って落ち着いた頃、電機メーカーの自動車部にて社内翻訳の仕事に就くことができました。まったく基礎知識がなく、通信教育で翻訳を学びながら仕様書の翻訳をしていました。すると翻訳ができるのだったら、通訳もできるだろうと上司に言われ、週一回の電話会議の通訳にいきなり入れられました。相手のインド人訛りが聞き取れなくて、ほぼ何も通訳できず、冷や汗を流しながら針のむしろに座っているような状態でした。2回目は必死でお願いして、事前に綿密な打ち合わせをしてもらい、資料もしっかり勉強して準備しました。会議が始まりインド人に何度も聞き直していると、ゆっくりと話してくれるようになり、たどたどしい通訳でしたが、会議の目的を果たすことができて、ほっとしました。

そんなある日、フリーランスの通訳者の方がきて工場見学ツアーを通訳すると聞いて、見せてもらう機会がありました。 パナガイドのイヤホンから流れる流暢な同時通訳を聞き、これがプロの通訳者の仕事なのかと衝撃を受けました。その通訳者の方に 「どうやったらプロの通訳になれますか?」と聞いたら、通訳学校の名前を教えてくれました。恥ずかしながら、私はそれまで通訳学校の存在すら知らなかったのです。早速レベルチェックを受けて、会議通訳基礎コースに入りました。仕事と週末の学校の両立は大変でしたが、学校でのトレーニングを重ねるうちに、約1年後にはあのフリーランスの通訳者の方とペアで監査の通訳をさせていただき、上司から「通訳が上手になったね!」と初めてお褒めの言葉をいただけたのは今でも忘れられません。

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マイヘルメットをかぶって、建築現場での通訳

その電機メーカーを退職後、IT系企業の外国人上司について一日中会議通訳する仕事のオファーがきて、通訳学校の先生に相談したところ、「あなたのレベルでそんな仕事がくるチャンスは滅多にないから、ぜひ受けなさい!」と背中を押されて、約3年がんばりましたが、過労のため体調を崩して退職。辛かったですが、この時に一番、通訳スキルが現場で鍛えられたと思います。その後、テーマパークの技術部に社内通訳として入り、毎日ヘルメットをかぶり、安全靴を履いて、アトラクションの建築現場で外国人エンジニアたちの通訳をしました。夜勤もあり、ここもかなりのハードワークでしたが、自分が関わった建築物が完成していく様子を見るのは何ものにも代えがたい喜びでした。

エンターテイメントの通訳へ
技術部の仕事を5年ほどしたところ、同じ社内のエンターテイメント部からお誘いがかかりました。ロンドンで舞台の魅力に目覚めていた私は、即答でお引き受けしました。主に外国人キャストのリハーサルや舞台のバックステージでの通訳ですが、最初のうちは大勢の人前でマイクを使って通訳をするのが苦手で、「声が小さい!」と怒鳴られたり、リハーサルでの通訳者の立ち位置がわからず、おろおろしてその場で退場させられたり、失敗の連続でした。落ち込むことも多々ありましたが、世界中から集まった俳優、歌手、ダンサーたちのポジティブに人生を楽しむ姿に勇気付けられました。また華やかな世界の裏側で沢山のスタッフが裏方として働いている様子を見て、私もチームの一員としてお役に立ちたいと心から思いました。今から考えると、これがその後の私のキャリアの方向性を変える大きな転機だったと思います。私らしい仕事をする天職に出会ったと直感で感じたのです。

なら映画祭
なら映画祭にてイギリス人監督の舞台通訳

フリーランスの通訳へ
契約形態が変わったので、フリーランスのお仕事も始めて、現在では技術系が2割ほど、エンターテイメント系の案件が8割ほど占めるようになりました。海外セミナーの通訳として、エジプト、カナダ、南アフリカ、タイなどの海外出張に行く機会にも恵まれました。

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シンガポール出身の歌手のインタビュー通訳

振り返ってみると、無我夢中で綱渡りのような人生を歩んできましたが、挫折やどん底を経験しても何度転んでも立ち上がってこれたのは、周りの皆さんのお力添えがあったからだと思います。恩返しとして次世代にPay forwardしていきたいと思います。

フラ通訳
フラダンスワークショップの通訳

花岡 千都子(はなおか ちずこ) 2001年デビュー
大阪生まれ、兵庫県在住。神戸市外国語大学英米学科卒業。学生時代にイギリスに2年間語学留学。三菱電機、IBM、USJなどの大手企業の社内通訳を10数年勤めた後、フリーランス通訳として独立。広島アジアオリンピック、長野オリンピック、FIFAワールドカップなど各種スポーツイベントや国際会議に通訳として参加。現在は主に、IT、エンターテイメント系やイベントの通訳、報道番組の翻訳を専門としています。
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