【第31回】駆け出しのころ「熱しやすさと冷めやすさのはざま」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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子供の頃、その熱しやすく冷めやすい性格が手伝って、なりたかった職業は数知れず。探偵になろうと尾行を始め、お菓子屋になろうと図書館のレシピを片っ端から試し、ハーバリストになろうと実家の庭をハーブでジャングルにしてみるも、数か月後にはすっかり忘れてまた違う職業を探していました。そんな子供時代、天職探訪とは別に、いつも頭のどこかにあったのが、日本語でない言葉への不思議と憧れでした。外国語を話す人を見るたびに、まるでサーカスの離れ業を見てしまったような、そんな驚嘆と感動で胸がいっぱいになるのです。外国人らしき人を見つければ、すっと近づき聞き耳を立てる、そういう子供でした。

写真①
修学旅行先で外国人観光客に狂喜乱舞しては話しかける中学生の頃

とはいえ、校庭に猿が乱入し、ガードレールにイノシシの皮が干してあるような田舎に暮らす小学生は、そうそう外国人に出会いません。簡単に会える外国人はどこかしら、と見渡せば、どんな田舎でも映るNHK海外ドラマがあるではありませんか。以来、フルハウス、アルフ、ビバヒル等々、沢山の海外ドラマに育まれ、進路選択も例にもれず、当時夢中になっていたデュマの三銃士で仏文科を選ぶという、絵にかいたような安直な大学生に仕上がっていました。

そんな浅はかな進路設計は、入学後早くも熱が冷めてあっさり頓挫。授業には全く身が入らず、都心の大学の立地を乱用し、何度自主休校してはセール会場に向かったことか。幸い、言語に関する授業の多い大学だったため、元々外国語やその習得の過程に魅せられていた私は、途中から第二言語習得に活路を見出します。その後日本語教育能力検定試験に合格し、国際交流基金からアメリカの公立学校に2年間、日本語教師として派遣されることになりました。すでに入学を決めていた大学院は休学し、教鞭をとりながら修士論文のデータを収取すべく、日本を後にします。

大義名分は修士論文のネタ集めでしたが、生活費や車代支援もいただけるこの好機に、ミーハー根性が抑えられません。初めての外国語生活!初めてのアメリカ!それはもう鼻息荒く上陸したアメリカで心底わかったのは、悲しいかな、自分は教える側に全くもって向いていないことでした。かくして私は再び振出しに戻り、彼の地でも天職を探す毎日。そうこうする間に2年の任期も終わりに近づいた頃、別の州に派遣されていた日本語教師の同期が、帰国後は通訳学校に通うんだと教えてくれました。彼女は、これまで英語を義務教育以外で学んだことはないけれど、通訳は面白そうだから、仕事をしながら学校に通うと言うのです。通訳は帰国子女が目指すものと決め込んでいた私には、目から鱗が落ちる瞬間でした。まずは試したっていいじゃない?勉強したらいいじゃない?そんなふうに優しく背中を押してもらえたような気がして、こうなると心は逸るばかり。帰国するとすぐに、大学院に退学届けを出し、通訳学校の学費確保に、実入りがよさそうで英語も使える会社に仕事を決めました。ほどなくしてお金もたまり、目当ての通訳学校からも入れてやってもよいとお達しをいただき、ようやく通訳になるべく、しかし八大地獄さながらの苦行の日々に飛び込んだのでした。

当時通った学校は数多くの優秀な通訳者を輩出しており、講師の先生方は厳しくも愛情注いで生徒を指導してくださっていました。当然授業は毎回厳しい御指導の嵐で、私は打ちのめされるばかり。回を重ねるごとに1人、また1人と辞めていくクラスメートを横目に、これが天職なのかもしれない一縷の望みと、払った授業料の投資回収という義務感だけが、私を授業へと向かわせました。その間、同じクラスを3度も落第。先生には「あなた、日本語がおかしいから帰国子女だと思ったわ」などと、予想の斜め上をゆくご指摘に愕然としながらも、今度ばかりはやる気が冷めやることなく、石の上にも3年。同時通訳クラスに辿り着いたのでした。そんな苦行時代に心底助けられたのは、同じ境遇に身を置くクラスメート達でした。互いに励まし、時に将来を語る中で、安定した稼ぎのよい今の仕事を辞めても、派遣社員で通訳業務がある仕事につくことが、技術向上の近道であると考えるようになりました。

再び、善は急げ。会社に辞意を伝え、探し当てたのが自動車会社の秘書職でした。秘書業の傍ら、社内通訳ではカバーできない部内会議に対応してほしいとの先方の申し出に、渡りに船と即日返答。すぐに就労が始まりました。そこからは、毎日が失敗と沢山の収穫に溢れ、今では感謝しか思い出せません。ナフサをNAFTAと聞き間違え、総輪をsoaringと訳す通訳に、しかし温かく仏の眼差しの社員の皆さまは、むしろそんな駆け出しの私を育ててやろうと、自動車業界のいろはを一から丁寧に教えてくださいました。ほどなくして同社の社内通訳にと声をかけていただき、ようやく長い長い助走から、正式に通訳として駆け出すのでした。

写真②
自動車会社の社内通訳時代。仏の社員の皆様と。後列右から5人目が筆者

その後2度の出産を経て、地球人としてこの星で生活を営める程度の人間を2人育てるのに思った以上に時間がかかりました。一旦は駆け出した足取りも、いつしかその場で足踏み。ようやく歩みを取り戻しつつある昨今、駆け出すまでに時間がかかった分、日々携わる通訳という仕事がありがたく、愛おしくてなりません。自動車会社の後、再生エネルギー分野の社内通訳を経て、より多くのお客様のお役に立ちたいとフリーランス通訳を選びました。「またお願いね」「次も君で」のお声掛けを糧に、今日もお客様のご満足ゆくサービス提供すべく、もはや冷めることのない情熱で駆け続けたいと思うのです。

各界の著名人の今を垣間見れるのも通訳の醍醐味

齋藤 亜生子(さいとう あきこ) デビュー2006年
顧客満足第一をモットーに、自動車、IR、再生エネルギー、教育、ビジネス分野中心に通訳。上智大学仏文科卒、東京学芸大学大学院国語教育専攻中退。日本語教育能力検定合格。簿記3級、FP3級。夫、息子2人と現在は東京在住。趣味は整理整頓、ドラマ鑑賞。