【第29回】駆け出しのころ「革命いまだならず」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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1990年の秋、「あ」の字も知らなかった私は、日本での生活をスタートすることになりました。それまでは南京にある大学で経済学の講師をしていましたが、天安門事件を機に大学がほぼ休講となり、急遽主人の留学先である岡山へ行くことを決めたのです。当時はテキストを買うお金もなく、テレビやチラシなどを使って日本語を猛勉強し、バイト先の日本人を相手に練習する日々。一年後には「日本語能力試験1級」に合格しました。

通訳者になる契機となったのは、1992年に通訳・翻訳アルバイトとして務めた某鉄鋼メーカーでの経験です。中国からの電話応対、来客の通訳、設備取扱説明書の日中翻訳などが仕事でしたが、業界の専門用語が多く、来日2年目の私には当然務まるはずがありません。1年後に辞職してしまいました。

その後は中国での講師経験を活かし公民館で中国語を教え、自宅でも教室を開き、毎日忙しく過ごしていました。教室を経営しながら、地元の国際イベントのお手伝いもしたりして、そのご縁で1993年7月に上海市金属学会視察団の通訳業務を4日間引き受けました。その頃から私は通訳というものをより意識するようになりました。教室を運営しながら時々通訳する日々がしばらく続きました。

逐次写真②
1993年上海市金属学会視察団来訪、女性は筆者

そのようななか、ロシア語通訳者の米原万里先生の著書『不実な美女か貞淑な醜女か』に出会い、大きなショックを受けました。中国出身だからなんとなくしていた通訳という仕事は、日本では生業であり、プロを目指すなら訓練も実践もブラッシュアップも必要だと強く感じ、まさに目から鱗でした。この本との出会いがなければ私は通訳者になっていなかったかもしれません。

これを機に私は通訳関連テキストを手にして、本気で通訳の勉強を始めました。中国語教室の経営もあり、通訳学校へ通うことは叶いませんでしたが、なんとか通訳の依頼が増えてきました。現場に通うたびに実力を試される日々。達成感も挫折感もまたモチベーションとなり、一層勉強に熱が入りました。

その後、大阪でのアテンド・商談通訳の成功を機に「香港で現地法人を作るので手伝ってくれないか」という話を持ち掛けられた私は、家族の同意をえて雇用契約を結び、香港へ赴任しました。香港では現地オフィスと東莞工場の間を毎週往復し、朝9時から夜11時まで休む間もなく通訳する日が続きました。また、香港オフィスでの登記や東莞工場の立ち上げ、現場管理等、会社経営の実務も学び、貴重な経験をさせて頂きました。

香港から日本に戻って、1997年の北九州市への転居を機に、フリーランスとしてキャリアをスタートさせました。通訳者としてもっと成長しようと自分の事務所をたちあげ、複数のエージェントのテストを受けて登録しました。北九州市で業者登録もし、市の通訳業務を担うようになりました。当時の市長専属通訳でいらっしゃるN先生にも気に入って頂き、サブとして一緒に仕事する機会も多く頂きました。プロとしての仕事の厳しさや、現場での立ち振る舞い等を直に観察でき、本当にありがたかったです。翌年には議長付通訳として大連へ同行し、大連市外事弁公室(国際交流窓口)職員の素晴らしい通訳ぶりに感動し、自分の語学力の貧弱さを思い知らされました。スランプに陥り、壁にぶつかり苦しい時期でしたが、苦心の末に思い切って北九州市立大学大学院に入学することにしました。大学院では言語学をはじめ、異文化コミュニケーション論、日本の社会システムなどを系統的に研究し、修論完成と同時に事務所を法人化しました。二年間の充電はその後の仕事にも非常にプラスになったと思います。

プロフィール写真①
上は九州経済産業局「環」2005秋号インタビュー記事、
下は習近平国家主席(当時副主席)の2009年来訪時

それからは市の幹部の通訳や、日中または日中韓三カ国の政府間交流事業の通訳も担当しました。他地域から呼ばれるようになると海外出張も増え、ほぼフル稼働でした。「九州にいるからこそ」という思いで、一つ一つ丁寧にこなすうちに、専門用語も日本語の言い回しも劇的に増え、表現力が豊かになり、やりがいと達成感を感じ、通訳は天職だと思えるようになりました。

同時通訳のデビューは2009年、40代の頃でした。この頃は中国の習近平国家主席(当時国家副主席)の来訪など、私の通訳人生で節目となる出来事がたくさんありました。ギクシャクした日中関係の影響で通訳案件数や海外出張も激減しましたが、いまは会議通訳を中心に仕事をしています。

同通写真③
2019年8月福岡映像祭にて。左は芸能通訳大先輩の千葉さん

日本にきて早30年、通訳の先輩方やクライアント、エージェント等、出会った皆さんに助けて頂き、ここまで来ることができたと心から感謝しています。本当にラッキーだと思います!語学ゼロからスタートし、途中から通訳の世界に滑り込み、独自の学習法で勉強し、通訳術を磨きながら、来る者拒まずというスタンスでがむしゃらに仕事をしてきました。かなり邪道かもしれませんが、周りの環境に適応しながら常に全力投球し、頑張り続ければきっと自分の目標に近づくことができると、いまでもそう信じています。

最近、仕事の中身も年相応に難しくなり、未だに四苦八苦していますが、毎回通訳するお相手と中身が変わるのでいつもフレッシュな気持ちでいられること、そして様々な業界の優秀な方々と知見を共有できることは、この仕事の最大の魅力だと私は思います。通訳がうまくなる近道などはありません。どれだけ現場を踏むかということに尽きるかと思います。私自身いまだに駆け出しだと思っています。普段からシャドーイング、リテンション、リプロダクションなどの練習を意識的に取り入れ、日中両言語の安定的な訳出を心がけています。

最後にこの文章の締めくくりとして、敬愛する孫文先生の言葉を引用したいと思います。

「革命いまだならず、同志なおすべからく努力すべし!」

中 恵麗(なか えり) 1992年デビュー
会議通訳者/医療通訳士、易仁有限会社代表取締役。中国出身。1990年来日、1992年通訳デビュー、1997年北九州へ転居を機にフリーランスへ。得意分野は行政交流、経済貿易、環境対策、ロジスティクス、半導体、自動車産業、エネルギー等。 

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