【第22回】駆け出しのころ「多くの出会いに恵まれて」


「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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「三度の駆け出しを経て」

 バブル期がピークアウトし始めた1992年、名古屋の特許事務所で翻訳を担当していた私に一本の電話が入ります。

 「まもなく開業する通信会社が、アメリカ人役員の秘書を探しています。ご興味ありますか?」

 海外生活といえば高校時代の交換留学のみで、読み書きはできても会話には自信のない私でしたが、外国人と仕事がしてみたいという好奇心から、二つ返事で転職を決めました。何をやっても三日坊主で飽きっぽい私が30年近くお世話になる、通訳としての「第1章」のスタートです。

 秘書としての採用ですから、アメリカ人役員のスケジュール管理や電話応答といった簡単な業務を行なっていたのですが、当時の名古屋では、社内に外国人がいるという会社はまだまだ少なく、通訳という概念も存在していない時代で、上司にも通訳はついていません。ある日、会議に入ってもただ座っているだけの上司を不便に思った別の役員から「英語話せるんだから会議の内容伝えてあげてくれる?」といとも簡単にお願いされました。もちろん私にはそんな能力はありませんからお断りすることもできましたが、これまた私の好奇心から快諾。しかも、やってみるとこれが結構できてしまうんです。それまで大量の翻訳をこなしていたせいか、言葉は出てくる。右から左へ訳す、ということはなんとなくできるという感覚がえられました。程なく、社内のみならず、社外会議にも同行するようになり、先方が連れてくる「本物」の通訳さんと出会える、学びの場所が生まれます。上司は私の学びのためにと、本物の通訳さんが入られる会議には必ず私を同行してくれました。1日8時間アメリカ人の上司と会話し、何件もの会議に対応するうち、独学ではありますが徐々に通訳としての技術が身についてきました。仕事自体も、全く何もない状態から壮大な移動通信網を作り上げるというワクワクする内容ですし、週末もオフィスで勉強したり、ネットワークセンターのエンジニアたちと朝まで麻雀したり(あ、これは関係ないですね)と、ザ・ワーカホリックな生活をしていました。

 その後、上司の東京転勤について上京。多くの訓練を積んだ「本物」の通訳さんに刺激を受け、自らも訓練学校に通い始めました。仕事が忙しく、1年程しか通えませんでしたが、基礎を叩き込んでいただけたことに感謝しています。充実した日々は上司がアメリカに帰国するまで続きました。

 そして結婚、出産を経て、フリーランスという「第2章」がスタートします。

独立したのは4月。個人事業主申請に向かう道すがら目にした桜の美しさは、今でも忘れられません。幸い、社員通訳時代にお付き合いのあった企業や先輩通訳からお仕事を紹介いただき、フリーランスになっても忙しい毎日を過ごしていました。社内通訳として小さな世界のお山の大将だった私も、フリーランスの世界では完全なるひよっこ。時には厳しい洗礼を受け、トイレで涙したこともありますが、多くの先輩通訳の皆さんから、技能面のみならず、お客様やエージェント対応といった社会人としての基本を教えていただきました。

 子育てと仕事の両輪を回していくのも大変でしたが、保育園や家事サポートの力を借りながら、精力的に仕事の幅を広げていきました。2008年から3年間は日本・ニュージーランド首脳会談を担当させていただけるようにもなり、「第2章」は順風満帆のように思われました。

2008年5月14日開催の日本・ニュージーランド首脳会談。翌朝新聞記事を見た友人から「ふつう、首脳会談の通訳って笑顔で写んないよね?」と突っ込まれた1枚

 ところが、仕事第一の母に対し、自我が生まれ始めた息子は厳しく当たるようになります。学校生活にも影響が出てきました。そして2011年3月11日の震災。我が家はインフラがやられてしまいます。それまで息子を心配しながらも仕事を諦める決心がつかないでいた私ですが、これを機に一旦仕事をたたみ、息子と地方に移転することを決意します。それから約4年間は息子と向き合う日々。仕事をしたいと思ったこともありましたが、子育てはやり直せません、腹を括って親業に専念しました。休業中はイギリスのオンライン講座を受講し資格を取ったり、英語で料理教室をしてみたり、ワインバーを開いたり、色々と挑戦しました。通訳を離れて生活するのもいいものだな、と結構楽しく暮らしていた気がします。息子の心も落ち着いて、2015年、彼の中学卒業を機に東京に戻りました。

通訳休業中にとった資格の一部

 「第3章」の幕開けです。お世話になっていたエージェントに復帰を伝えると、幸運にもすぐにお仕事の依頼をいただけました。美術展の英語監修という珍しいお仕事にも挑みました。どんなご依頼もとにかく嬉しいですし、お問い合わせいただけることに感謝し、お仕事させていただいています。こんな気持ちになれるのも、一旦通訳から離れた時期があったからこそです。この仕事に、そして仲間たちに感謝の気持ちしかありません。

 コロナ収束後の通訳業界は、これまでとは違うものになるでしょう。そこには「第4章」が待っています。通訳として、そして、これから駆け出しを体験する未来の通訳者を支援する者として、新たなスタートを切りたいと思っています。

2015年 永青文庫にて開催の「春画展」の英語監修。永青文庫理事長の元細川首相と。持っているのは翻訳を担当した図録

岩瀬和美(いわせかずみ)1992年デビュー

現日本会議通訳者協会理事 1992年通訳業務を開始。IT、金融、マーケティング、教育、芸術、ファッション、スポーツ等多様な分野に対応。バイリンガル司会、ウェビナーのファシリテータも行う。