【第21回】駆け出しのころ「多くの出会いに恵まれて」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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学生時代の私は、自分が将来通訳の仕事をするなんて想像もしていませんでした。日本から出たことも駅前留学(英会話学校を意味する死語)もしたこともない私にとって、英語は大学受験の一科目という位置づけで大学では英語の授業は履修もしませんでした。
ただ、せっかく覚えた英単語を完全に忘れるのももったいないような気がして、NHKのラジオ英語番組をMDに(時代を感じますね!)タイマー録音して通学中の暇つぶしに聴いていました。主人公が離婚危機に陥ったりと翌日の続きが気になるストーリー展開で、テキストを買うお財布の余裕(と、そこまでの熱意)がなかった私は連ドラ感覚で毎日聴くことになり、結果的に良い勉強になったように思います。

そのおかげか卒業後にエンジニアとして就職した外資系ソフトウエア会社で、新卒社員が受けるTOEICで比較的高いスコアを取りました。それが上司の目にとまり、社内向けの技術文書を翻訳するように言われ渋々引き受けることに。今考えるとこれが運命の分かれ道でした。
無理だと思いながらも翻訳をしてみると楽しくて、すぐに「こういう仕事もいいな~」と単純に思い、翻訳に関する本を求めて書店に行きました。そこで通訳という選択肢もあり都内の通訳学校で訓練が受けられるということを知り、さっそく逐次通訳の一番の下コースに滑り込んだのです。アフターファイブの習い事気分で通っていたためロクに宿題もしない落ちこぼれでしたが、たまたま学校経由で募集のあった製鉄会社のプロジェクト付き通訳の仕事に応募して、複数の通訳者の一人として採用されました。

当時、今は亡き母が五十台前半で若年性アルツハイマー病にかかり介護が必要になり始めた時期でした。製鉄会社のプロジェクトは長期に渡るもので国内やインドへの出張もあったため、これを機にスケジュールを融通しやすそうな通訳者になろうと3年勤めたソフトウエア会社を退職。
製鉄会社のプロジェクトでは、通訳者の中で私が一番下手で恥ずかしい思いもしました。それでも製鉄会社の皆さんや通訳の諸先輩方とインドや九州に行き、優しくして頂いたことは忘れられない思い出です。

(左:製鉄所でのドキドキ通訳(左から2人目),  右:インドのホテルで。サリーを着て調子にのっています)

プロジェクト終了後しばらくは、派遣で社内通訳や展示会の通訳などをしていました。

母の介護は実家の父と、実家の近くに住む私が分担していたのですが、父の都合が悪い時は私が自分の仕事を断って母の面倒をみる事が増えてきました。時間の融通が利くと思って通訳者に転向したのですがそれは甘い考えで、自由なのは仕事を受けるか否かに関してのみであり決まった仕事は融通が利かないため、突発的な事がある介護生活とは相性が悪かったのです。
また、仕事よりも介護を優先させる状態を何年も続けたら私のキャリアや経済力はどうなってしまうのかと不安になったことに加え、通訳の仕事でセクハラに遭遇したり、エンジニアの仕事が恋しくなったこともあり、再度柔軟に働けるエンジニアとして外資系IT企業に転職。

その会社は勤務時間も自由で通院やデイケアの送り迎えなどの介護との調整もでき、仕事も楽しく学ぶことも多く当時の私にとっては正しい選択でした。同僚と上司の理解には感謝してもしきれません。2社でのエンジニアとしての経験があったお陰で、今もIT案件の通訳をする際には内容を理解したうえで訳出ができているのだと思います。また、通訳案件の閑散期には現在でもエンジニアの仕事をすることもあり、シリコンバレーで先端の開発の現場を末席から垣間見る機会に恵まれています。

さて、その会社ではエンジニアとしてさらに6年ほど働きましたが、家族の都合で米国シリコンバレーへの引越しを機に退職。人生初の海外生活となりました。

アメリカに来てからは、ワンオペ子育てに追われつつ簡単な通訳をしたりIT企業やゲーム会社で社内翻訳をしたりと満足していたある日、ゲーム会社で大量レイオフがあり私も自称「フリーランス翻訳・通訳者」という名目の無職に。ただ、有難いことに地元の通訳エージェントからポツポツと簡単な逐次通訳の仕事が入るようになりました。

子育ての日々の合間にスーツを着て仕事に向かう日があるのは、社会とのつながりを感じられるワクワクするひと時でした。通訳スキルの不足を補うべく必死に事前知識を付けて一つ一つの案件に取り組んだ結果、依頼される頻度や難易度が上がっていきました。ですが、決してすべてが順風満帆とは行かず、逐次の案件と言われて行ってみたらブース同通の仕事があってド下手な訳を繰り出してしまったり、体調を崩した大先輩に「あなたなら大丈夫」と言われピンチヒッターとして入った仕事で歯が立たなかったりした事も。


同じころ、オンラインの通訳講座を受講し始めて仲間もでき勉強のペースを作れるようになりました。「勉強」と言っても子供が低学年の頃は体が弱くホームスクール(通学せずに家で勉強)をしていたこともあり、私が机に向かって勉強できる時間は殆どありませんでした。犬の散歩中や夕食の準備中に課題の音源やポッドキャストを片耳で聴く「ながら勉強」が9割強。もう一方の耳は子供に話しかけられても答えられるように、イヤホンを付けずに空けていました。
同時通訳の練習を始めた頃は、訳を考えている内にどんどん遅れてしまい「これは人間業ではない!」とも感じましたが、世の中には何百人という日英会議通訳者がいる訳ですから、誰でもやめずに訓練すればそのうち出来るようになるはずと楽観的に考えていました。


講座で知り合った受講生の多くは、子育てなどでキャリアが中断されて改めて通訳を目指している似たような環境の人たちでした。そんな仲間の一人で、お子さんの成人後にバリバリ活躍している方からは「人生100年時代なのだから10年や15年程度休んだでもまた勉強して仕事すれば良いのよ!」との心強い言葉が。通訳者でなくてもキャリアに迷いのある方には勇気の出る考え方ですね。

(パートナーを組んだベック徳子さんと。カナダでの緊張感のある会議を終えて。)


講座は様々なプラス効果をもたらしてくれました。通訳の技術自体は、ストイックな人なら参考書や動画などを使って一人でも身につけられると思います。しかし、大事なことを先延ばしにする癖のある私にとっては、講座の課題の期限に迫られて勉強するペースが外堀から固められ、同じ勉強している仲間がいる環境はありがたいものです。

(横浜のTICAD=アフリカ開発会議のイベントでパートナーを組んだ松岡由季さんと。写真を撮ってくれたのは、自身もTICADでの通訳業務の後に来てくれた大石万里さん)

通訳という職業は、他の多くの職業と同様に破壊的テクノロジーの進化で若い方にはお勧めして良いかどうかは迷う所ですが、年齢も経歴も学歴もあまり関係なくスキルを磨いて良い仕事をすれば次も呼ばれる、努力の報われるフェアな仕事である点が気に入っています。

努力と言っても私の場合は「ながら勉強」ばかりなので偉そうなことは言えませんが、世界には生まれた場所の違いだけで努力してもどうにもならない苦境にいる人が沢山いる中、努力で人生をコントロールできる恵まれた環境にいる私たちは、できる範囲で頑張ること、そして社会に貢献することが礼儀だという気がするのです。
今後も自分のペースで進歩して、「この人に頼んでよかった」と思われる通訳で多くの方々の意思疎通のお役に立ち続けることが今後の目標です。

黒田玄 (くろだはるか) デビュー 2015年ごろ細々と

慶応大学環境情報学部を卒業後、ソフトウェアエンジニアとして外資系IT企業の開発部門で働いていた時に業務上必要に迫られてやってみた翻訳が楽しくて語学の道へとキャリアチェンジ。 前職経歴やシリコンバレーという拠点の土地柄、スタートアップから大手までIT関係の案件、そして意外と多い製薬や医学関係の案件を中心に活動中。今でもたまに1.1足程度の草鞋を履きエンジニア業もしている。