【第15回】駆け出しのころ「『なんちゃって通訳』からの脱却」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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「お前は留学して通訳になれ」中学一年の時の担任の先生のこんな言葉に予言されたかのように私は高校時代にアメリカに留学し、その後、通訳者となりました。でもそれは決して平坦な道のりではありませんでした。

英語が大好きで、試験を受けニューヨーク州のハイスクールに2年間留学しました。最初の一年は挫折の連続でした。スラングだらけの早口のガールズトークについていけず、授業もさっぱりわかりませんでした。それでも二年目には英語でのコミュニケーションにも自信がついて無事卒業。そのまま国際基督教大学に9月入学となりました。コミュニケーションを専攻し通訳や翻訳を学びましたが、デートや遊びに忙しく、さほど真剣に取り組んではいませんでした。クラスには在学中から先生の推薦でテレビ局で仕事をしているような友人もいましたし、そもそも大学は小さい頃から海外で過ごした帰国子女で溢れていて、自分は英語が得意だとは思えなくなっていきました。

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(写真:高校留学時代、ホストファミリーと)

就職活動をすることになっても自分がなにをしたいのかよくわかりませんでしたが、結局、「君が面接の時に一番よく笑っていたから君に決めた。」と採用担当者が言ってくれた外資系の広告代理店に入社が決まりました。コマーシャルプロデューサー室アシスタントということで、コマーシャルをつくるんだ!とワクワク入社したのですが、実際は制作費の見積もり作成、請求書作成、作品の管理、来客や電話の対応などが主な仕事でした。さほど英語を使うわけでもなく、なんとなく物足りない毎日を過ごしていましたが、ある日ニューヨーク帰りの派手なクリエイティブディレクターTさんが入社してきて一気に状況が変わりました。入社当日真っ黒に日焼けし、髭をたくわえ、真っ白のアルマーニにのスーツを着て登場したTさんは日本人同士でも英語で話かけるような人で、会社中の度肝を抜いたのです。

社内で異端児であったこのTさんと私は何故か気が合いました。ニューヨーク出張から帰って来たTさんに都内某ホテルのスカイラウンジに誘われ、お土産にCHANEL19番をもらった時はこれはまずいと思いました。今後の展開次第では走って逃げなければならないと身構えました。でもTさんは私に「君の英語力を活かさないのはもったいない。僕のクリエイティブチームに来てくれないか。」と言いました。そして私は外資系のクライアントを担当するクリエイティブチームに移動になったのです。肩書きはクリエイティブ・コーディネーター。何をする人だかよくわかりません。異動初日、いきなり呼ばれてクライアントとの会議で通訳することになりました。できる範囲でいいからと言われて、なんの準備もないままウィスパリング通訳デビューとなりました。ほとんどなにもわからず、たまに把握できる単語を並べただけのひどい通訳だったと思いますが、通訳って面白いと思ったことは覚えています。

その頃の私は撮影があればついて行き、アイデア出しの時は一緒に部屋に篭ってコマーシャルのアイデアを出し、クリエイティブチームの全ての業務に参加させてもらっていました。その為、通訳として会議にはいっても内容が良くわかっているので、通訳している、というよりは、この人はこう言うことを言うと知っている上でそれを自分なりの言葉にしていただけなので、クライアントの隣でウィスパリングしている時など、クリエイティブスタッフがまだコマーシャルのアイデアを説明している途中なのに私の通訳のほうが先に終わってしまったりすることすらありました。この頃の私は、自分を半ば自虐的に「なんちゃって通訳」と呼んでいました。私としては、まあ私はクリエイティブ・コーディネーター だし、通訳はみんなが困らない程度にできれば問題ないし、この程度でいいや、と思っていたのです。広告用語は下手に日本語にするとかえって意味が伝わらないということも学んだので、内容が良くわからなくても「今日お話しするinitiativeは、消費者のperspectiveからinsightを知ることにより、どうすればよりimpactのあるawarerを増やせるかと言うことを…」のような感じで通訳していました。

そんな生活も三年くらい過ぎるとさすがの私も将来を考えるようになりました。外資系の広告代理店には転職することでステップアップする文化があり、優秀な人ほど3年程度で転職していきます。仲良しの営業担当者や同じチームのクリエイティブスタッフもヘッドハンティングされてどんどん辞めていきました。私も転職したい!と思うようになりましたが、「なんちゃって通訳」を募集している会社などありません。両親からの早く結婚しなさいというプレッシャーも強くなる中、自分が何者かにならないと転職もできないことに気づきました。

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(写真:3社目の広告代理店の仲間とのパーティーで)

相変わらず自分に何ができるか良くわからなかった私は仲良しのチームメイトに「私ってどんな仕事が向いていると思う?」とききました。「通訳に決まってるじゃん。他のひとにできないことをしなくちゃ!」と言われました。そうか、通訳することは誰にでもできることではないんだ。ここは頑張るしか道はなさそうだ、と覚悟を決めたのです。それから自分のマインドセットが変わりました。会議の前にはきちんとブリーフィングをしてもらうようになり、遅ればせながら単語帳もつくるようになりました。会社にあったAdvertising Ageのような業界紙も読むようになり、それまで自信がなくて断っていた大型の新規競合プレゼンなども引き受けるようになり、少しずつ仕事の幅を広げていきました。そしてその2年後、ついにヘッドハントされて転職したのです。肩書きは「クリエイティブ通訳」です。初めて自分の肩書きに通訳という文字がはいりました。

その後は広告業界の通訳者としていくつかの広告代理店に勤務し、最終的にはフリーランスの通訳者として独立することができました。現在は長年の経験のある広告分野、そして、以前から好きだったコンピュータやITの分野を二本の柱として稼働しています。新卒で私を採用してくれて「なんちゃって通訳」の私を見捨てずに育ててくれた広告代理店には今でも感謝の気持ちでいっぱいです。


中村園美(なかむら そのみ) 1987年デビュー
ホームステイでニューヨーク州立高校に2年間留学した後、国際基督教大学に9月入学。コミュニケーションを専攻し通訳翻訳を学んだのち新卒で外資系広告代理店に入社。プロデューサーアシスタント、クリエイティブ・コーディネーターなどスタッフとして勤務の後、社内通訳者となる。3社の広告代理店で社内通訳を経験したあと、フリーランス通訳者として独立。現在は広告/マーケティングと以前から好きな分野であるIT分野を二本の柱として稼働中。