【第14回】駆け出しのころ「志願してつかんだデビュー」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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こんにちは。英語通訳のカイザー真紀子です。5社8年の社内通訳を経て2014年にフリーランス通訳になりました。これを書いている2020年4月上旬現在、コロナの影響で通訳案件は昨年対比95%減と過去最悪を記録しています。そんな中、駆け出しのころを振り返る機会をいただきましたので、デビュー当時のことを書きたいと思います。

私が初めてお金をもらって通訳したのは、学校を卒業して初めて派遣社員として勤務した日系半導体会社でのことでした。2006年くらいのことで、20代後半になったばかりの若いころでした。無駄に文学修士号までとったものの現実社会にいまいちなじめず、語学力しか取り柄のなかった私を拾ってくれた寛大なこの半導体メーカーでの主な業務は、通訳ではなくデータシートの翻訳。データシートとは半導体の仕様書のことで、半導体の開発部門が作った日本語版から英語版を作るのが私の仕事でした。学生時代が長すぎたため、なんでもいいからとにかく稼ぎたかった私は、時給1400円のその仕事に対するやる気は十分でした。

でも、時効だと思うので書きますが、半導体の中身にものすごく興味があったわけではありません。データシートに書いてある内容というのは、なんとか電流の波形がどうとか、なんとかビットの設定がどうとか、おおむねそのような内容なのですが、残念ながら私はときめきませんでした。もっとも半導体そのものにときめく人は英語版のデータシートを作る業務につかないでしょう(ただしこのころ真面目に半導体に取り組んだから、いまITの通訳案件がこなせていると思います。何事も役に立つものです)。

半導体にはしっくりこなかったけど、私には夢がありました。それは英語通訳になることです。学生時代、ロシア語通訳の米原万里さん、イタリア語通訳の田丸公美子さんの対談が2002年版の『アルク地球人ムック通訳事典』に掲載されており、それを読んであこがれたのが通訳を目指したきっかけです。これまで何度となく断捨離を繰り返してきましたが、学部生時代大事に通学カバンに入れて持ち歩き、何度も読み返したこのムック本だけは捨てられず、今も手元にあります。米原さん、田丸さんのエッセイ本、特に米原さんの『ガセネッタ&シモネッタ』、田丸さんの『パーネ・アモーレ』も大好きでした。自分もいつか大好きな国際交流を題材にこんな軽妙なエッセイがかけたら良いなと思っていたし、実は今も思っています。

カイザー真紀子_当時の愛読書
(写真:当時の愛読書)

さて、半導体会社に拾ってもらった薄給派遣社員の私は、なけなしの自分のお金で通訳学校に通いました。昼間は半導体メーカーの仕事、夜は通訳の勉強です。そんなある日、勤務先の半導体メーカーが台湾のファンドリー(工場機能がメインの会社)と合同で事業を行うことになり、そのため台湾から取締役が来日するようになりました。つまり通訳需要が発生したということです。「今度会議で通訳が必要なんだけどどうしよう」、そのようなことを誰かがつぶやいているのを小耳に挟んだ私は、これはチャンス!と思い、通訳学校に通っていること、ぜひ通訳をやらせてほしいことなどを、総務部門に訴えました。既存の、しかも時給1400円の格安翻訳者が通訳も兼任してくれるなら会社にとっても悪い話ではありません。首尾よく通訳業務を任せてもらえるようになりました。

台湾人取締役は経営会議、取締役会、株主総会などの会議のために来日していたため、振り返るとずいぶんフォーマリティの高い会議での通訳デビューとなりました。しかも逐次通訳ではなくウィスパリング同時通訳です。私がビギナーなら会社も通訳ユーザーとしてはビギナー。お互いに通訳のことを何も知らないからこその非常に危ういアサインメントだったと、今ならわかります。

当時の私はちょっと通訳学校に通ったことがあるだけで、何もわかっていませんでした。パナガイドという機材の存在も知らず、通訳学校は初級レベルだったため同時通訳の仕方を習ったわけでもありません。同時通訳する時は2名でペアを組んで15分で交代するなどの通訳者の常識も持ち合わせていませんでした。ただひたすら若さと熱意に任せて、3時間の経営会議なども一人で、機材は一切使わずにウィスパリングしていました。なぜいきなりウィスパリングができたのかは自分でもわかりませんが、分かるところだけ訳していたのでしょう。終わった後は当然、脳みそと喉が干上がって放心脱力状態でした。株主総会も通訳しましたが、上場企業ではないため想定外の質問が株主から出るなどはなく、全員すでに了解済みの内容を台本にそって進行するだけなので、ベタ訳を作っておけばルーキーでも対応できたし、内容も会社の戦略や業績に関するもので、R&Dより好きでした。総合すると結果オーライ、ラッキーなデビューだったと言えると思います。

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危うい通訳デビューではありましたが、若き20代の私は非常にやりがいを感じました。翻訳という作業自体は嫌いではなかったものの、データシートは自分が作った成果物が読み手にどのように受け取られているのか、役に立っているのかいないのかの手応えがありませんでした。読み手は半導体が搭載される最終製品(携帯電話、カーナビなど)を開発しているエンジニアさんなのだから当然です。それに対し通訳は目の前に人がいて、自分の訳が通じているのかすぐわかるのが良いなと思ったのでしょう。

初めての通訳経験に味をしめた私は、その後、出来るだけ多様な業種を経験しようと業種を変えて社内通訳翻訳を続けました。通訳者の常識も徐々に身につけ、パナガイドの扱いも通訳ブースの使い方も学びました。その過程でどうしても通訳がしたい!というヒリヒリした熱意は、だんだんと「通訳は私の職業である」という落ち着いた自覚に変わっていきました。振り返るとひたすら若かったデビュー戦の思い出です。


カイザー真紀子(まきこ) 2006年デビュー
半導体、自動車、IT、広告、消費財の社内通訳を計8年ののち2014年よりフリーランス。得意分野は消費財、ITなど。夫はオーストラリア人。ブログ時々更新中。https://www.officemakiko.com