【第11回】駆け出しのころ「一歩を踏み出す勇気を重ねて」

「私はプロになれるのだろうか」「いまやっていることは本当に役に立つのだろうか」―デビュー前に誰もが抱く不安、期待、焦燥。本連載はプロ通訳者の駆け出しのころを本人の素直な言葉で綴ります。

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初めて通訳という仕事を意識したのは、12歳のころだったと思います。翻訳家である母の友人が、一冊の訳書を私にプレゼントしてくれました。マザー・テレサの生い立ちや活動を紹介した児童書です。巻末の同時通訳者の解説には、1982年にマザー・テレサが来日した際の通訳の様子が書かれていました。当時の私が、これを読んで何を感じたのかは記憶にありませんが、通訳や翻訳という仕事が憧れのような形で印象に残ったことは、今も覚えています。

通訳との出会い

時を経て20代。私は、企業や官公庁向けに語学研修を行う会社で、コーディネーターを務めました。ネイティブスピーカーの外国人講師を企業などクライアントに派遣し、語学研修を運営する仕事です。この中で通訳のようなことを経験するうちに、通訳の仕事への興味が高まりました。さらに自分を取り巻く環境が変わっても、変わらず持っていられるスキルを身につけたいと考えていたので、通訳の勉強を始めることにしました。

働きながら日本の通訳学校へ通う選択肢も考えましたが、あまりマルチタスクは得意ではありません。当時、日本の通訳学校がアメリカ・ロサンゼルスにも訓練校を持っていることを知り、そちらへの留学を決めました。英語環境で生活をしながら学校へ通い、集中して学びたいと思ったのです。

ところが会社を辞め、ビザなどの手続きを進めながら入学を待つまでの間、幸運にもご縁で紹介を頂き、初めての通訳の仕事に出会うこととなりました。半導体製造工場での通訳でした。現場は地方で、数か月に渡るプロジェクトだったため、引き受けられる通訳者がほかにいなかったから かもしれません。奇しくもこれが、私の通訳者デビューとなるわけですが、半導体に関する知識も足りなければ、思うような通訳もできません。現場の方々の温かさに救われながらも、歯がゆい思いをする日々でした。本格的な通訳訓練の必要性を肌で感じたところで契約が満了し、渡米しました。

アメリカの通訳訓練校

2度目となる アメリカ生活は充実したものでした。授業を含め、毎日10時間くらい勉強したでしょうか。クラスメートは留学生だけでなく、現地在住の方が半数以上で、それが刺激にもなりました。通訳訓練もさることながら、日常生活そのものから知識を得ることができ、貴重な1年間だったと思います。長期の休みには別の都市を訪れたり、国境を越えたりと、積極的に出かけました。留学期間の終わりが近づくにつれ、自分の通訳はどこまで上達したのか、帰国して通訳の仕事に就けるのか、と不安に襲われるようになりました。生活にもすっかり慣れていたため、帰国を迷いましたが、「プロとして仕事を始める決意と、自分をマーケットに出す勇気が、どこかで必ず必要」という先生の言葉に背中を押され、日本に戻りました。

写真①
(写真:留学時代に読んだ本や思い出のツール。左下は12歳のときにプレゼントされた本)

本格的に通訳の道へ

帰国後、数社の通訳エージェントの門を叩き、通訳テストを受けました。そうする中で、取締役付きの通訳兼秘書として、外資系小売企業に就職することが決まりました。しかし、念願の通訳者としての就職が決まり、胸を撫でおろしたのも束の間、すぐに現場の難しさに直面しました。アメリカの政治や経済、社会生活など幅広いトピックを題材として、訓練を積んできたわけですが、それを日本の企業現場にどう応用していいかわかりません。取締役会議などを担当するには、通訳技術も追いついていませんでしたが、社会人経験も不足していたのです。入社して間もないある日の取締役会議の後、血の気の多いタイプの取締役に「その訳じゃ、全然伝わらねぇよ」と言われ、激しく落ち込みました。

ただ恵まれたのは、素晴らしい上司に巡り合えたことでした。建設的なフィードバックをしてくれた上で、「対応できる会議、今はまだ難しい会議を整理しよう。まずは、管轄事業部の会議通訳から始めていこう。」と言ってくれました。そのお陰で、少しずつ通訳する範囲を広げていくことができました。私の未熟な通訳に我慢し、励ましてくれた上司には、今も心から感謝しています。会社は、のちに日本企業に売却されることとなりました。そのタイミングで、上司は早期退職をして日本を離れることとなり、私も転職を決めました。会社を離れる頃には、取締役会議も含め、すべての会議の担当をすることができるようになっていました。最終日、かつて厳しいことを言ってくれた前述の取締役へご挨拶に伺った際、「成長したのは、君の努力だろ」と言っていただいたことは、今も心に残っています。

写真②
(写真:帰国して3年後に通訳者として受けたインタビューの記事)

その後、いくつかの企業で社内通訳の実践を積み、現在はフリーランスとして活動しています。結婚や出産を経て、人生のステージが変わっても、通訳はライフワークとして私の人生に寄り添ってくれています。駆け出しのころ。思い返すと少し痛くて滑稽ですが、何だか愛おしくもあります。一昨年の日本会議通訳者協会主催の『日本通訳フォーラム』で、通訳者の大先輩である袖川裕美さんが、「12歳の頃に漠然と描いた夢は、その人の適性や願望を的確に表している。多くの人が、そのときに思ったものの変形になっているのだそうです。」と、ご講演の中で話されていました。とすると、あのマザー・テレサの本が私をこの道に導いてくれたのでしょうか。

通訳者として乗り越えるべき壁は次から次へとやってきて、七転八倒する日々は今も変わりません。きっとこれからもこの旅路は続いていきます。10年後、15年後、どんな景色が見えていて、今の自分をどのように振り返るのでしょうか。その道のりを楽しみながら、一歩一歩前へ進んでいきたいと思います。

写真③
(写真:社内通訳時代、アメリカ出張先での会議。筆者はプレゼンター横で通訳)

 


菱田 奈津紀(ひしだ なつき)  2004年デビュー
会議通訳者。2005年より1年間アメリカ・ロサンゼルスへ留学し通訳訓練を受ける。その後10年の社内通訳を経て、現在はフリーランス。社長付き通訳や秘書の経験を活かし、政府関連や産業分野で広く活躍。得意分野は製造、流通、国際協力など。東京在住の2児の母、趣味はバレエ鑑賞。