【第2回】手話通訳士への道「偏見と差別意識満載の私ー私の育ち その1」

 100坪の土地に多数派のろう者、少数派のきこえる者の環境で育ち、私の家が千葉県、千葉市のろう者の団体の事務所だったので毎日毎日たくさんのろう者が我が家に来ていたことを前回紹介しました。

 毎晩のようにたくさんのろう者が、我が家の2間しかない(一部屋は父母の仕事部屋)我が家の6畳間を占拠していたのです。私の家での多数派は、半端ない多数派だったのです。にもかかわらず「手話もろう者も嫌い」な私は、社会の多数派である聞こえる者の常識にとらわれていました。

 では、ここで、簡単に多数派の聞こえる者の常識の一端を紹介してみましょう。

多数派の聞こえる人たちが手話でコミュニケーションとることはない。

だから多数派に合わせて口の動きを読み取り、口で話す「口話法」を身につけることが自然なことである。

 「ろう者」が学ぶろう学校の教育活動の世界での常識です。

 1880年、聴覚障害教育の国際会議がミラノで開かれ、手話の使用が排除されました。

 手話の使用の排除は、なんと、2010年、バンクーバーでの聴覚障害教育国際会議まで続いたのです。バンクーバー会議では「ミラノ会議が及ぼした有害な諸影響を認め、心から遺憾に思う。」とその誤りを認めています。やっと手話言語を言語として扱った一つの局面です。

 音声言語優位の社会意識と障害者観が集約された出来事だと思います。

 少数言語と人種差別に代表される人間観と同じ側面だと思います。

 私も少数者は多数者に合わせることを当然だと考えていたのだと思います。

 そして、当然と考えていた優生思想につながる意識は、偏見と差別にまみれた「私」そのものでした。

 私が子どもの頃、手話言語が広く社会で受け入れられ、ろう者に対する偏見や差別を否定する社会だったら私のろう者、手話に対する認識は大きく変わっていたと思います。

 偏見や差別は「人」としての尊厳を損ない、時として排除します。旧優性保護法に代表される優生思想がそのことを明らかにしています。

 偏見や差別の中、「ろう者」は、手話言語によるろう者の社会を形成し「ろう運動」を展開し集団をつくり「人」として生きることの保障を求めてきました。

 偏見や差別は、母語まで否定し「生きる力」を奪うものです。

 今、障害者権利条約の誕生、差別解消法の成立と取り組み、手話言語条例制定の広がりなど障害のある人の人権尊重の動き、手話言語が言語であるという理解が徐々に広がってきているように見えます。

 しかし、具体的な人権尊重の指標ともいえる手話日本語による行政サービスや情報提供等、手話日本語の社会的扱いをみると、社会の未熟さが浮き彫りになります。

 ろう運動は、人として生きることを求め、手話言語通訳を生み、育ててきました。

 ではここで、「生きる力」となっている「ことば」について全日本ろうあ連盟の見解を紹介します。

●ことばの力と手話のとらえ方

「手話」が私たちろう者が自らの道を切り拓いてきた「生きる力」そのものであり、「命」であることです。その手話を「日本手話」、「日本語対応手話」と分け、そのことにより聞こえない人や聞こえにくい人、手話通訳者を含めた聞こえる人を分け隔てることがあってはなりません。手話を第一言語として生活しているろう者、手話を獲得・習得しようとしている聞こえない人や聞こえにくい人、手話を使う聞こえる人など、それぞれが使う手話は様々ですが、まず、それら全てが手話であり、音声言語である日本語と同じように一つの言語であることを共通理解としていきましょう。私たちはコミュニケーション手段としての「手話」があり、そして聞こえる人が言語として日本語を獲得するように、聞こえない人が獲得・習得する言語は「手話言語」であると考えました。言語としての手話を「手話言語」として普及していきます。

手話言語は音声言語である日本語と対等な一つの言語です。その認識を正しく市民に啓発し、「手話言語法」を一日も早く制定するよう、全国の仲間と共に一丸となって取り組む所存です。

2018年6月19日一般財団法人全日本ろうあ連盟

 達人であっても、そうでない人であってもその人が使う「ことば」としての手話言語は、どれもが同じ手話言語であるとしています。

 このことは、音声言語と同じ扱いであることを示していると私は理解しています。

 達人が使う手話言語も手話言語を学び始めたばかりの人が使いろう者と話している手話言語も同じ手話言語とし、そのどれもが日本の手話言語であるとしています。

 誤用や文法の誤り等成熟度としてはどんなに幼稚であっても、手話日本語なのです。

 言語学等専門家から見ると様々な指摘があるかもしれませんが、私の感性が「そうだ」と言わせています。

●食う、寝る、風呂

 多数派と少数派が逆転した100坪の環境で育ったことを紹介しましたが、聞こえる者が私一人ではなく、聞こえる祖母がいたことが手話から逃げることができた要因となっていました。

 ばあちゃんと音声で話すことができる環境が家庭内(100坪の土地に2軒あったが)にあったので手話から逃げ、避けられたのです。

 同時に、我が家がろう者団体の事務所で、毎日たくさんのろう者が家に来ていた関係で親と話す機会が乏しかったこともその要因となっていたと思います。

 そんな環境でしたから我が家に来るろう者の手話による会話を否応なく見ることができました。

 しかし、自分で使うことはほとんどありません。手話で会話している様子を見てどうもHな話をしているらしい。どうも意見の対立があるようだ。等、何の話をしているのかおぼろげにですが分かるのです。が、自分で手を動かし、話すとなるとこれが難しいのです。

 手が動かないのです。

 まさに、食う、寝る、風呂、そして金くれ、この程度の手話で暮らしていたとイメージしていただくと私と親のコミュニケーション状況が想像できると思います。

 このことを象徴する出来事を一つ紹介します。

 高校受験を控えた時でした。父がメモ紙に、友達いるかと書いて私の目の前に置いたのです。家には、私の友達何人かがいつもきていました。入り浸っていたといってもいいくらいで、よく泊まっていったりもしていました。決して世間でいうまじめな子たちではありませんが私より偏見のない友達でした。そんな友達でしたので私より父と話していたように記憶しています。父は、筆談で私の友達と話していたのです。友達がたくさんいたことを知っていたはずなのに、そんなメモをおいていったのです。

 親がどのような心持で私を見ていたかということはさておき、「友達いるか」というとても簡単な手話なのに、メモにしなければならないほど私は手話とは縁遠かったのです。 

 私の手話による会話の水準がわかると思います。

 では、2回目はこのくらいにして、次回は、私の中の「ろう」「ろう者」を紹介したいと思います。


川根紀夫(かわね のりお)

手話通訳士。1974年、聴覚障害者福祉と手話言語通訳者の社会的地位の向上のため、手話言語、手話言語通訳や聴覚障害者問題の研究・運動を行う全国組織である「全国手話通訳問題研究会」の誕生に伴い、会員に。1976年、手話言語通訳の出来るケースワーカーとして千葉県佐倉市役所に入職。1989年、第1回手話通訳技能認定(手話通訳士)試験(厚生労働大臣認定)が始まり、1991年には、手話通訳士の資質および専門的技術の向上と、手話通訳制度の発展に寄与することを目的に「一般社団法人(現)日本手話通訳士協会」が設立され、1993年、理事に就任。日本手話通訳学会、日本早期認知症学会、自治体学会に所属。第4回JACI特別功労賞受賞者。