【第11回】手話通訳士への道「未熟な社会と未熟な私 Vol .2」

 前回は、適性試験の場での未熟な手話言語通訳者の川根を紹介しました。

今回も未熟な川根の紹介です。未熟な私の気づきの再確認といってもいいかもしれません。

前回、今回で、私の優れた通訳(?!)だけでは解決できないことがあり、解決のためには、みんなで、ろう者が困らない環境を作るために必要なことは何かを考え、共同して取り組む必要性について理解していただければ、目的達成です。

第4回で手話通訳制度について紹介した方が良いという山の神の一声を紹介しました。今回、また、山の神が結論は先に‼。というので、これに従い、1979(昭和54)年、

ブルガリアで開催された第8回世界ろう者会議に日本から提出された論文(高田英一・安藤豊喜)にその答えがでているので紹介します。

●第8回世界ろう者会議提出論文にみる社会的行動の自由と人間関係の発達

 手話通訳の理念の一つにろう者の権利を守ることがあるとしています。

そして、手話通訳に期待する2つの必要条件について次の2点を挙げています。

・即時性

・常時性

この2点は、聴こえる者に常時聴覚が備わっていることに対応しているとしています。

しかし、手話通訳制度や手話通訳者の増員によってこの常時性、即時性を考えるのは、ろう者の社会的行動の自由が、手話通訳の有無によって左右されかねない危険性をはらんでいるとしています。

ろう者の要求する常時性は、ろう者の社会的自立にあり、人間関係の発達と不可分の関係にあることを指摘しています。

ろう者にとっての手話言語通訳のあり方を考えるうえでも重要な指摘です。

具体的なろう者の社会的行動の自由を求める取り組みについて、京都の手話通訳派遣センターと病院の協働した事例を次のように紹介しています。

センターと病院は、 中略 協議の場を設けたことの成果は、場合によって病院側がろう患者の呼出し、診断、投薬等について、手話通訳によらず、自らの一定の配慮を行なうようになったことであり、患者の個性によって筆談、簡単な身振り、継続された協議の場においてマスターした指文字によって、患者とのコミュニケーションがある程度計られるようになったことであり、ろう患者は手話通訳の協力と自ら直接の努力によって健聴者とのコミュニケーションの確立を計らなければならないことを学んだことである。当初、このことは手話通訳派遣にかわる手だて、一時的方便と考えられていた。しかし、それについて具体的な成果のあがるなかで、これもまた手話通訳の重要な任務と考えられるようになった。ここに病院とろう者の人間関係の発達を見ることが出来る。また、ろう者は自由な行動の範囲をひろげることが出来たといえよう。こうした行動自由の範囲の拡大こそろう者要求の本質をなすものであ り、ろう者の社会的自立のための人間関係の発達、社会制度整備の一里塚を示すものである。

 このことを皆さんはどう考えますか? 学びの多い指摘で、組織的な取り組みに発展させるための手話言語通訳の働きの一端が見えたでしょうか。

ろう者の暮らしを考えたとき、手話言語通訳ですべてが解決するわけではないし、仮に解決させる方向で進めた場合、手話言語通訳者にお任せ社会になってしまうのではないでしょうか。そんな社会をろう者は望んでいないように思います。

そんなことを学んだ論文でした。

●手話通訳者はそばにいてくれるだけで良い?!

 上記病院のような取り組みがあまり見られない中にあっては、手話言語通訳者にお任せ社会の一面が表れ、ろう者も、手話言語通訳頼みになってしまうことが起きてしまいます。

 ろう者の社会的行動の自由をめざすろう運動・手話通訳運動が求められている所以です。

 では、お約束通り、本題に戻り、未熟な私が経験した自動車学校(自動車教習所)の通訳を紹介します。

 この通訳場面に臨んだ頃の私は、まだ、運転免許を持っていない頃で、運転免許に関し、耳学問程度の知識しか持ち合わせていませんでした。

 学科の勉強は教室に集合し、講師が学習者に講義する方式なので通訳は、ほぼ「音声日本語⇒手話日本語」です。

 私が理解不能な音声日本語は、その場で教官に質問し、教えてもらいながらの通訳でした。

 教官によってはこんなこと分からないのか。これで通訳か。といった態度を露骨に表す教官もいました。

 それはそうですよね。事前に勉強して臨むべきですよね。通訳者ですから。

ここで、また言い訳です。

 今日は、朝一病院での通訳。終わったら会社の通訳。そして、夜は自動車学校(自動車教習所)。市役所の障害福祉課の仕事と同時進行です。毎日がこんな状況というわけではないのですが、通訳が多いか少ないか、全くない日もありますが、日常業務の障害福祉課の仕事もしながらの毎日です。

 お読みいただいている皆さんにお察しいただければ…。情けないですね。

本題に戻ります。

難題は車に乗っているときの実車教習の通訳です。

あらかじめ、教習コースを歩きながら教官から説明してもらったり、場所場所での車の扱いなど詳細に説明してもらった上で、教習スタートです。ここまで準備できたのでちょっと誇らしげな私でした。

運転席にはろう者。助手席には教官。私は後ろの席。

運転中に教官がしゃべります。当然、運転中だし、私は後ろの席だし通訳できません。

少し学習を重ねてきた私は、教官に、とても通訳できません。と伝え、次のように話しました。

川根:「運転中に伝えたいことがあれば、車を止めてから話すようにできませんか。」

教官:面倒くさそうに「わかりました」

教官は、ブレーキを踏み、車を止めてろう者に話しました。私は後ろから身を乗り出し、ろう者は後ろを向いての会話です。

教官:「面倒だな」と一言。

 私は通訳していいのかどうか考えた末、通訳しました。

 川根 :「先生」「面倒」「言う」

 ろう者:「顔」「見る」「わかる」「無視」

 教習終了後、ろう者と雑談していたら、

ろう者:「通訳者」「いる」「よかった」

川根 :「いる」「よかった」「意味」「何?」

ろう者:「いる」「だけ」(で)「良かった」

あれ。通訳した内容ではなく、そばにいるだけで良かったということ!?

聞こえることが前提の社会で暮らすろう者の心細さという言い方が適切かどうかわかりませんが、不安を抱えながらの教習であったことを学んだ一言でした。

音声日本語でのコミュニケーションが当たり前の環境で、手話日本語という系統の違う言語を使って教習を受ける難しさに加え、ろう者の日々暮らしの一コマのドラマでした。

 上記病院の事例を基に、手話日本語で教習を受けるために必要な十分な配慮とはどのようなことなのか。どうにもならない出来事については、科学の進歩でどう解決するかなどが問われているのです。(現在の自動車学校は、学校の努力や教官の努力でかなり改善されているようです。)

 次に、当事者の努力によって成功した事例を紹介します。

●当事者の頑張りが前提-改めて学んだ私-

 18歳で通訳活動をはじめ、10年くらい経ったころです。

 通訳に行ってくれる人がなく、仕方なく手話を勉強し始めて6か月の人に通訳(?!)を担当してもらった事がありました。

学校の先生と保護者(お母さん)の話し合いです。

私は、その先生と保護者の通訳を何度も担当していたので、何かあったら連絡くれるだろうし、あとでフォローすればいいと思っていたのです。

ところが。先生から次のような連絡があったのです。

先生:「先日はお母さんととてもいい話し合いができました。」

   「お母さんとの距離が近くなりました。」

   「ありがとうございました。」

あれ。慌ててお母さんと会い、様子を聞きました。

お母さん:「通訳」「Aさん」「手話」「下手」「私」「頑張った」

    「先生」「頑張った」

    「良かった」

あれ。二人とも良かったと言っている。

そこで、今度は、通訳してくれたAさんに会い、様子を聞きました。

Aさんは、にこにこしながら、

Aさん:「お母さんも先生も私が下手なものだから必死になって、こんなことを言っているのかしら、と確認しながら筆談したり。私にこう言っているのとか確認してくれたのですがわからないことが多くて…。」

「でも、先生が言いたいことの趣旨を簡単に言ってくれたり、お母さんも聞きたいことを簡潔にわかりやすくいってくれたりしたので助かりました。」

「お母さんも、先生も、顔を見合わせながら筆談したりして頑張ってコミュニケーションをとっていました。」

「私が行っていいのかとても不安でしたが、とても良い雰囲気であのような経験をさせてもらい良かったです。」

 私のそれまでの通訳には見られなかった新たな豊かさが誕生した通訳でした。

通訳は、話が分かったというレベルでは不十分で、分かり合う互いの努力、互いの人間関係の形成の努力が必要なのです。

 私の通訳の未熟さを発見した事例です。

 第8回世界ろう者会議提出論文の価値を発見したできごとでした。 

 かなり予定の文字数をオーバーしてしまいましたので、この辺で筆をおくことにします。

 次回からは、手話通訳士に求められる力について考えてみたいと思います。


川根紀夫(かわね のりお)

手話通訳士。1974年、聴覚障害者福祉と手話言語通訳者の社会的地位の向上のため、手話言語、手話言語通訳や聴覚障害者問題の研究・運動を行う全国組織である「全国手話通訳問題研究会」の誕生に伴い、会員に。1976年、手話言語通訳の出来るケースワーカーとして千葉県佐倉市役所に入職。1989年、第1回手話通訳技能認定(手話通訳士)試験(厚生労働大臣認定)が始まり、1991年には、手話通訳士の資質および専門的技術の向上と、手話通訳制度の発展に寄与することを目的に「一般社団法人(現)日本手話通訳士協会」が設立され、1993年、理事に就任。日本手話通訳学会、日本早期認知症学会、自治体学会に所属。第4回JACI特別功労賞受賞者。