【第1回】日米同盟:防衛協定からグローバルパートナーシップへの道のり「日米同盟の黎明期: 敗戦から対日講和へ」

2021年4月、バイデン米大統領と日本の菅総理(当時)は日米首脳共同声明を発出し、日米同盟は、「インド太平洋地域、そして世界全体の平和と安全の礎(cornerstone)となった」と宣言した。いまや、日米同盟についての知識は、日米関係のみならず、国際安全保障全般について語るうえで不可欠といえるだろう。本連載では、日米安全保障がその始まりから現在までどのような過程で発展してきたのか、歴史的なマイルストーンや変換点に触れつつ、それがいま現在の時事問題にどのように影響を与えているのかを解説する。

本連載は、戦後の対日講和から1990年代まで10年間ごとに整理し、2000年以降は各米大統領の政権ごとに日米同盟がどのように変化したか、そして、今後インド太平洋地域が地政学的に最も重要な地域となる中で、日米同盟が地域の平和と安定に貢献するための課題や日本を取り巻く多国間関係を紹介する。

第1回となる今回は、第二次世界大戦におけるポツダム宣言の受諾から、サンフランシスコ講和条約を結び、日米の安全保障関係が成立にいたるまでを解説する。

極東アジアの地政学的変動期

1945年から1951年までは、動乱の時代であった。特に日本占領から、朝鮮戦争に至るまでは、アメリカと、ソビエト連邦(ソ連)、そして中華人民共和国(中国)という共産主義勢力が極東アジアにおける影響力をめぐってせめぎあいを行っていたのである。第二次世界大戦末期、対ドイツ、イタリア戦線で協力関係にあったアメリカとソ連は、大戦後の極東アジアの秩序を巡って対立を深めていた。アメリカのトルーマン政権は、戦争終結後のソ連の極東アジアにおける野心を警戒し、当初計画されていた、統合戦争計画委員会(Joint War Plans Committee, JWPC)のアメリカ、ソ連、中華民国、イギリスの4か国による共同占領案を破棄し、国務省が提案した単独占領計画を1945年8月に承認した。

日本の無条件降伏を求めたポツダム宣言を日本が1945年8月14日に受諾し、同年9月、ダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官総司令部(SCAP/GHQ)を率い、日本再建のための活動を開始した。

対日占領初期:日本の戦争責任追及と改革

イギリス、ソ連、中華民国は「連合国会議」の一員として諮問的役割を担っていたが、マッカーサーはすべての決定権を最終的に握っていた。アメリカ主導の日本占領は、日本の戦争責任追及と改革、日本経済の再生と反共産陣営化、そして対日講和の3つの段階に分けることができる。

第一段階は、1945年の終戦から1947年までで、日本政府と社会にとって最も根本的な変化を伴うものであった。連合国は、極東軍事裁判を開廷し、日本の過去の軍国主義や拡張主義を罰した。同時に、GHQは日本帝国陸海軍を解体し、旧軍人が新政府の政治的指導者の役割を担うことを禁じた。また、それ以外の戦時指導者も公職追放の対象となった。経済分野では、農地改革や財閥解体など、日本経済を自由市場の資本主義システムに転換する試みが行われた。しかし最もインパクトが大きかったのは、憲法改正である。1947年、GHQは、日本政府に新しい憲法を実質的に示した。その中で最も大きな変化は、天皇の地位を政治的な支配力を持たない象徴に格下げし、国会に大きな権限を与えること、女性の権利と特権を拡大すること、戦争する権利を放棄し、防衛以外の軍隊をすべて廃止すること等であった。

対日占領中期:日本経済の再生と反共産陣営化

1947年末から1950年まで続く第二の時期においては、1948年に日本では経済危機が発生し、共産主義の蔓延が懸念されたため、占領政策の見直しが行われた。GHQは、日本経済の低迷が国内の共産主義運動の影響力を強めることを懸念するとともに、中国の内戦で共産主義者が勝利する可能性が高まり、極東アジアの将来が危うくなると考えた。占領軍の経済対策は、税制改革からインフレ抑制策まで多岐にわたった。しかし、最も深刻な問題は、日本の産業を支える原材料の不足と、完成品の市場不足であった。1950年に勃発した朝鮮戦争は、SCAPにとってこの問題を解決する絶好の機会であった。アメリカが率いる国連軍が朝鮮戦争に突入すると、日本は国連軍への主要な補給基地となった。また、朝鮮戦争によって日本は、アジアにおける対共産主義のアメリカの防衛線と明確に位置付けられた。

対日占領後期:対日講和

1950年に始まる占領の第3段階では、GHQは日本の政治的、経済的未来が確立されたとみなし、戦争と占領の両方を終わらせるための正式な平和条約を確保することに着手した。1945年から1950年にかけて、国際的な脅威に対するアメリカの認識は大きく変化し、日本が再び武装し武装するという考えは、もはやアメリカ政府関係者を憂慮するものではなく、むしろ真の脅威は、特にアジアにおける共産主義の忍び寄りだと考えられた。この考えに基づき、1950年7月には、マッカーサーの命令により、日本の限定的な軍事力の土台となる7万5千人規模の警察予備隊が創設された。これらの占領政策の実行を踏まえ、1951年9月、52カ国がサンフランシスコに集まり、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)について話し合い、最終的に、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く49カ国が条約に調印した。

旧日米安保条約の誕生

サンフランシスコ平和条約の調印により占領は正式に終了し、日本は主権を取り戻した。サンフランシスコ講和会議で吉田茂首相は、日本が独立を取り戻すためには、安保条約とアメリカとの同盟が必要であると強調した。この講和会議の期間中、サンフランシスコ平和条約とは別に、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安保条約)が調印された。この条約により、日本は米軍を駐留させることで自国の安全保障を確保することを意図したものであった。そうすることで、日本は国家再建を進め、経済的な繁栄に注力することができるというのが理由だ。これがいわゆる吉田ドクトリンの本質であり、日本の経済復興と国際社会への復帰の基礎となった。旧日米安保条約は、朝鮮戦争中に交渉されたものであり、アメリカと日本の力の不均衡を反映したものであった。この条約は今日の日米同盟の基礎となったものの、対等な同盟のための条約というよりは、極めて片務的なものであった。具体的には、次のような問題があった。まず、旧日米安保条約は、米国に日本の防衛を義務付けるものではなかった。また、内乱条項があり、米軍に起こりうる国内での騒乱を抑圧する権限を与えていた。さらに、沖縄に対する主権と、中国との国交樹立という重要な課題は先送りされることとなった。

日本・アメリカがそれぞれ得たもの

旧日米安保条約に基づく最初の日米安全保障体制の発足は、問題を残しつつも、日米両者にとって一定の利益があるものであった。まず、アメリカとしては、ソ連との冷戦に突入する中、サンフランシスコ平和条約により、日本を正式に自由主義陣営(西側)に引き入れることに成功した。また、旧日米安保条約により、アメリカは日本を自らの極東アジアにおける安全保障戦略の拠点として確立することに成功した。一方日本は、条約で明文化されなかったものの、事実上のアメリカによる防衛を獲得し、吉田ドクトリンに基づく、経済成長と社会の安定に注力できる環境を得た。こうして、冷戦の到来に伴う国際情勢の荒波の中、発足したのである。

参考文献

Chanlett-Avery, Emma. “The U.S.-Japan Alliance”. Congressional Research Service, 13 June 2019. https://sgp.fas.org/crs/row/RL33740.pdf.

Dian, Matteo. “Evolution of the Us-Japan Alliance”. Chandos Publishing, 2016.

Iokibe, Makoto, ed. “Nichi-Bei Kankeishi”. Yūhikaku, 2008.

“Milestones: 1945–1952 – Office of the Historian”. Department of State. https://history.state.gov/milestones/1945-1952/japan-reconstruction.

“U.S.- Japan Joint Leaders’ Statement: ‘U.S. – Japan Global Partnership for a New Era’”. The White House, 17 April 2021.
https://www.whitehouse.gov/briefing-room/statements-releases/2021/04/16/u-s-japan-joint-leaders-statement-u-s-japan-global-partnership-for-a-new-era/.


佐々木れな

ジョージタウン大学外交政策学修士課程在学。1992年生まれ。外資系戦略コンサルティングファームに5年在籍し、主に防衛・安全保障のプロジェクトに従事。2021年8月より同大学に留学。米シンクタンクのパシフィック・フォーラムの日米次世代リーダーイニシアティブ及びヤングリーダーズプログラムのメンバー。

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