【第4回】沖縄の通訳現場から

玉城弘子さん

今回、通訳リレーを依頼されている通訳者の中で、私が唯一の地方在住者ということですので、私からは地方の通訳事情について書いてみることにします。ただ、一口に地方といっても各地それぞれ事情が異なるでしょうから、あくまでも私が住んでいる沖縄の状況ということになりますが、大都市から離れた場所には何らかの共通点があるかもしれませんので、首都圏以外の状況を知りたいという人にとって参考になれば幸いです。

私は、東京の通訳学校に2年ほど通い、その間に先生や学校を介して通訳のお仕事も何度か経験しました。そのまま東京で本格的に通訳者になるという選択肢もありましたが、ちょうど通訳学校の区切りがついたところで、沖縄県庁で嘱託の通訳・翻訳官を探しているという話が舞い込んだので、いつかは沖縄に帰りたいと思っていた私は、「帰るなら今!」と、故郷へのUターンの決断をしたのです。

新米にいきなり大きな国際会議!?

首都圏と地方との大きな違いの一つに、社内通訳を雇うような国際的な企業の数があげられるのではないでしょうか。通訳になる道のりは、まずはインハウスの通訳から始め、経験を積んだらフリーランスになるというのが一般的だと思いますが、インハウスの通訳を雇うような企業は沖縄では限られています。

そんな中、沖縄県庁には、国際交流課と基地対策課に通訳・翻訳を専門とする期限付きのポジションがあります。これがまさにインハウスの通訳・翻訳にあたるものだったので、そこから始められた私は非常にラッキーでした。他の地方都市にも、似たような採用をしているところがあるかもしれません。また、外国人の多い大学や研究所の中にも、専門の通訳者を抱えているところがあるようです。

県庁で経験を積む傍ら、地元のエージェントに登録して県庁以外の通訳の仕事もするようになりました。通訳の仕事が沢山あって層が厚ければ、経験に応じて少しずつ難易度を上げていくという理想的なステップも可能なのかもしれませんが、仕事の数も通訳者の数も少ない沖縄では、私のような新米にいきなり大きな国際会議の同時通訳という仕事が舞い込んでくることもあり、果たして引き受けていいものかと思案することも度々でした。そんな時は、先輩通訳者が背中を押してくれました。

県庁でも、初めて間もない段階で、知事、米軍高官、そして外務省・防衛局(現在は防衛省)の代表が顔を揃えるものすごく政治的な会議で、十数台のカメラを前にフラッシュを浴びながら通訳をさせられた時には、「こんな通訳学校を出たてのぺーぺーに通訳させて、あなたたち、本当にいいの!?」と心の中で叫んだものです。

例えて言うなら、調理師学校を出たばかりの料理人に、いきなり要人が列席する晩さん会での食事を担当させるようなものでしょう。おかげで、大失敗も沢山しました。極めつけは、アメリカの某元国務長官が来沖した際、県知事との会談の通訳をさせられたことです。

腐っても鯛、いや、引退はしていても超大物でした。「こんな人との会談の通訳を、なんで駆け出しの私に頼むのよぉ」と思いましたが、通訳というものを知らない県庁職員にはもちろん通じません。戦々恐々として臨みましたが、案の定、会話の中に出てきた中国の地名が訳せず、固まってしまいました。そういう時の対処方法も、当時はまだ分からなかったのです。

沖縄県内の他の通訳者とも、「易しい仕事か、すごく難易度の高い仕事かで、中間があまりないよね」と話しています。通訳は元々度胸の要る仕事ですが、段階的にステップアップしていくことが難しい中でキャリアをスタートさせるには、心臓が相当毛むくじゃらでないといけないようです。

分野を絞れない…。

県庁で通訳の経験を積んだ後、イギリスに住んでみたいという好奇心から留学し、帰国後に本格的なフリーランス通訳の仕事を開始しました。もちろんその時も、果たして沖縄でフリーランス通訳なんかして食べていけるのだろうかという疑問はありましたが、ダメなら東京に戻る覚悟で、とりあえずやってみることにしました。

すると、思っていたよりも仕事はあるものです。例えば、本社の外国人役員が沖縄支社の社員とタウンミーティングをしに来るだとか、海外の企業がIRミーティングに来るだとかといった需要もありますし、大学、自治体、米国総領事館などが主催する国際シンポジウムや講演会も結構あります。

ただ当然ながら、首都圏に比べると圧倒的に件数が少ないことは否めません。そのため、来るもの拒まず、どんな分野も引き受けることになります。再生可能エネルギーの仕事をしたかと思えば、次は安全保障、その次は物理、そしてサンゴ礁保全、次は災害危機管理…といった具合です。たまに大きな会議で県外からの通訳者さんと組んでお仕事をすることがあるのですが、医学のお仕事でご一緒した東京からの通訳者さんは、業務の半分くらいは医薬のお仕事だとおっしゃっていました。

医薬ばかりだと飽きてしまうので、あえて残りの半分は他の分野のお仕事を入れるのだ、と。なんと羨ましい!沖縄だと、医薬の分野なんて年に1回あるかないかなので、毎回ゼロから専門用語を覚え直しです。元来怠け者の私にはかなりの苦行なのですが、「いろんな分野を垣間見ることができて楽しい~」と無理やり自分に思い込ませるようにしています。

会議通訳、商業通訳に加えての緊張感

分野を問わず何でも引き受けることに加え、捜査機関や検察庁の取り調べおよび裁判の通訳など、司法通訳にも範囲を広げました。残念ながら、商業通訳に比べると報酬は決して良いとはいえないのですが(法務省には、オーストラリアのように通訳の重要性を理解していただきたいものです)、家でただ座っているよりお金にはなりますし、何よりもスキルの維持・向上のためには、とにかく通訳の場数を踏むことが大事でした。

それと、裁判の通訳について言えば、あの独特の雰囲気の中、傍聴人も見守る前で人の運命を左右する重要な内容を通訳するという緊張感も嫌いではないのです。心臓がいったん毛だらけになると、緊張感中毒になるのでしょうか。また捜査機関の通訳には、全く違う世界を垣間見るという面白さもありました。

麻薬捜査官に付き添って大麻中毒者と疑われる被疑者の家に踏み込む、なんていう経験は、なかなかできるものではありません。窃盗犯や麻薬売人の取調べの通訳をしていると、世の中には色んな常識があるもんだ、と変な感心をすることもありました。

その後、縁あって通訳とは異なる仕事をオファーされ、様々な理由から引き受けてしまったため、現在は二束のわらじを履くこととなってしまい、時間的制約により司法通訳はあまりしていませんが、それでも裁判の通訳だけは時間の許す範囲で行っています。

沖縄で通訳を続ける理由

通訳者としてのキャリアを追求するのであれば、首都圏を拠点にするのがベストなのかもしれませんが、私にとっては住環境も大事なのです。やはり、この海が見られる沖縄での生活は捨てがたい!

そしてもう一つの理由は、私にとって通訳の仕事は、故郷である沖縄に貢献できる一つの手段だということです。沖縄県はMICEに力を入れており、国際会議などを誘致しようとしています。そのためには、地元で通訳者が確保できなくてはいけないでしょう。これからも、国際会議などが沖縄で開催された時に「沖縄にもいい通訳者がいるな」と思っていただけるよう、常に向上心を持って邁進していきたいと思います。

通訳の訓練を終えて現場に出たばかりの頃は、「上手に訳さなくては」と肩に力が入っていたように思いますが、ある程度経験を積んだ今、心がけているのは、「上手く訳そうとするより、相手に伝えようとすること」です。自分が上手に訳そう、ではなく、相手に伝えることを第一に考えて訳した方が、結果的にいい通訳ができるように思えるのです。

玉城弘子さん

Profile/

フリーランス通訳者。東京の大学を卒業後、横浜で貿易会社や英会話スクールに勤務。その後オーストラリアで1年間のボランティア日本語教師を経験し、帰国後に通訳学校に通う。1999年に沖縄に戻り、県庁で英字新聞や調査報告書の翻訳および米軍関係者との会議の通訳などを行う。2003-2005年にイギリスのバース大学大学院通訳・翻訳コースで学び、2005年の帰国後よりフリーランス通訳。