【第3回】オーストラリアの通訳現場から

エバレット千尋さん

メルボルンでの出勤前

バリバリバリ・・・。真冬といえども日本にいるほど身体の芯から冷えるような感覚のないメルボルンで久々に聞いたこの音。「曇り時々雨。突風に注意」の天気予報を信じ、珍しく自動車で今日の現場に向かおうとすると、フロントガラスが凍りついていました。オーストラリアの大都市はどこもそうなのですが、朝の道路状況は刻一刻と変わります。

今日の仕事は王道の9時開始。その上シティを縦断して現場にいかなければならないので、まさに1分1分が勝負です。台所にいた子どもに外から大声で「お湯沸かして!」と指示し、エンジンを温めつつ待つこと2分。やっとのこと出来上がった熱湯をフロントガラスにかけるとフロントガラスに張り付いていた氷は何事もなかったかのように流れ去り、出発の準備が整いました。

でも無駄にしてしまった7分はあなどれません。もちろん、いつも余裕をもって出発時間を決めていますが、それでも朝は1分の出発の遅れが2分の到着の遅れになります。所要時間をあらかじめ把握し、公共交通手段で現場に向かうことができる(しかも、予想所要時間に狂いがない!)日本とは大違いです。今日は朝からワイルドカードで始まる1日でした。

それにしてもこの寒さ。2週間前に戻っていた日本とは天地の差です。ちょうど梅雨明けと重なり湿度も手伝って息苦しい程の暑さの東京には、たった1日の会議のために戻ったのですが、1日とはいえ、エージェントが資料を取りそろえ、通訳の分担を決め、会場の地図まで用意してくれる日本は、本当に仕事をする環境に恵まれているなあと思います。

オーストラリアの日英・英日通訳事情

日本語の通訳に限っていえば、オーストラリアではエージェント経由で紹介される仕事はあまり多くありません。ビジネス関連のミーティングはクライアントから直接依頼されるケースが多く、当然ながら条件交渉や見積もりの提出から資料の依頼、経費精算や請求書の作成まで、日本ではエージェントが行ってくれる作業も全て自分でやる必要があります。

また日本では多種多様な仕事が数多くありますが、オーストラリアでは件数も少なく、種類も限られています。たとえば日本企業の現地子会社に本社から訪問者がある時の対応や、日本の省庁からの訪問、また姉妹都市関係を結んでいる県や市の代表者の州政府や公共組織への表敬訪問の対応などが主な仕事になります。私は個人的にあまり対応していませんが、病院や法廷など、公的機関から依頼される「コミュニティ通訳」なども一般的です。さらに限定的ではありますが、メルボルンが主催都市となって国際会議が開催される時などは、先輩方に混じって末席を汚す機会をいただくこともあります。

こういった国際会議はエージェント経由の場合が多いのですが、海外のエージェントで一般的であるように、資料の印刷などは基本的に自分たちで行います。自分の使いやすいような大きさで必要な部分のみ印刷できますし、効率的ではあるのですが、案件によっては数百ページの莫大な資料になります。印刷用紙の枚数も使用するインクの量もハンパではありません。

ギリギリになってサーバーにアップロードされた資料を印刷していたら途中でインク切れになって、泣く泣く自転車で閉店間際のOffice Worksに駆け込んだり、途中でどのセッションまで印刷して、どのセッションがまだなのか混乱して無駄に印刷したり、後から抜けていることに気づいてがっかりすることも多々あります。

こんな時は、夜遅くなってもバイク便で資料を送ってくれる日本のエージェントが心底恋しくなります。現場までの地図の提供や、各セッションの担当通訳者の事前割り振りといった「日本流おもてなし」的なエージェントサービスは期待できません。その分、自由度が高い面もあるかもしれませんが。

通訳・翻訳には資格が必要

オーストラリアは移民の国です。多種多様な言語・文化背景をもった人々が住んでおり、全世帯の20%近くの家庭で英語以外の言語が使用されていると言われています。このような多様性を背景に、病院や法廷など、公的な場面においては、英語でのコミュニケーションが不自由な人々に対し、政府が無料で通訳サービスを提供しています。これが前述のコミュニティ通訳です。

公的な場面での通訳サービスには一定の品質が求められますので、国家試験で一定以上のレベルを認められた有資格者しか通訳を行うことはできません。これは翻訳についても同じで、戸籍謄本や運転免許証といった公的書類は、有資格者による翻訳と、有資格者の翻訳である旨を証明するスタンプの押印が必要になります。

さて、日本人が関連する法廷通訳ですが、他の言語が関わる事件と比べると犯罪の重大さや件数ともに限定的だと思います。窃盗、麻薬取引、凶悪事件などはめったになく、一般的なのが、保護命令(接近禁止令)や飲酒運転に関わる事件になると思います。そういった民事や軽微な刑事事件という性質上、マジストレートという日本の簡易裁判所のような裁判所が第一審となり、審理は一回、通訳の出番は15分、あとはひたすら順番待ちというパターンが多いと思います。

ただ貧乏くじを引くこともあります。たとえば通訳の宣誓。通訳は、誠意を持って能力の限り正確に通訳をする旨を宣誓しなければならないのですが、これは証言台に立って裁判所書記官の言う内容を復唱する形で行われます。一度、移民(フランス語圏のアフリカ出身者?)の裁判書記官に当たったことがあり、生まれて初めて聞く超難解なアクセントに、証言台で絶句しそうになったことがあります。

通訳が絶句していては審理が進みませんので、ここは記憶を頼りに、事前に調べた宣誓文をなんとか押し出すのですが、証言台に冷や汗の水溜りを残しそうになりました。裁判官の訝しげな視線を今でも忘れることができません。

「運転免許合宿」型が奏功!?

私はメルボルンの某大学大学院で通訳・翻訳コースを教えています。と言っても「カジュアル」という非常勤の立場で週に2、3回、ワークショップを担当するだけなのですが、以前日本で教えていた民間の通訳学校とは違うなと感じることが幾つかあります。まず、当然ながらオーストラリアの大学院ですから、英語ネイティブの生徒が多いことです。そして修士のコースであるため、実践ばかりでなく理論の学習が多いこと、そして1年半という短い期間の中で非常に集中的な訓練を行うということです。

現在の日本語通訳・翻訳の学生は、国籍こそオーストラリア、ニュージーランド、英国、シンガポールと多種多様ですが、全員が英語ネイティブです。全員20代前半で、大学卒業後直接、あるいは短期間働いて学資を貯め入学した若い学生で、日本語の学習歴も決して長くはありません。私たちが痛切に感じるように、英語と日本語は言語的にかけ離れているため、互いの言語を習得するためには莫大な時間がかかります。このため個人差はあるものの、入学時点での日本語能力はいわゆる「バイリンガル」レベルからはほど遠いわけです。

そんな英語社会で普段日本語に接することなく生活してきた彼らが、卒業時点ではかなり高度な通訳もできるようになることを考えると、その間にかなり集中してスキルを高めていくことが分かります。「これであなたもプロになれる!」というような、万能薬的な訓練方法はないのですが、1年半のコースの間は毎日寝ても起きても常に通訳・翻訳のことを考える生活、つまり「運転免許合宿」のような要素が奏功していることは間違いないと思います。

日本の通訳学校だと、生徒達には普段の生活があって、週に2回、仕事が終わった後に学校に来て勉強するというのが一般的じゃないかと思います。こちらのコースでは毎週、授業だけでも通訳のワークショップ2回、翻訳のワークショップ、通訳理論、翻訳理論、さらに授業以外にも数十ページのリーディング課題、ワークショップのためのリサーチ、宿題、予習・復習があり、学生達は多大な時間を通訳・翻訳の訓練のためだけに投資しなければなりません。通訳の授業では、逐次でも全員がブースに入り自分の訳出を録音しながら一斉に通訳しますので、集中的で息つく暇がありません。一方で講師からのフィードバックは詳細な訳抜けや誤訳ではなく、その原因となった問題点の指摘や、スピーチの背景説明など、技術的な要素が中心となります。

つまり、スクリプトと付き合わせて録音した訳出を詳細に確認する復習作業は自分たちの責任で行うことが求められており、自分の訳出を批判的に聞き返し、これをきっちり自分の基礎として積み上げている学生が成長も早いように思います。そんなこんなで一年もコースを続けていると、学生達の能力もかなり上がってきます。

日本語ネイティブの私は、「おっ、いい表現を使っているな、しめしめ」と、学生が使った表現をこっそり盗んだりする場面も出てきます。私も時間を見つけては普段からさまざまなトピックの通訳の練習をするようにしていますが、録音した訳出を聞き返しては毎回針でチクチクと刺されるような学びを感じます。

今回はオーストラリア在住の通訳者として、通訳を取り巻く事情や通訳訓練について簡単に書いてみました。また機会があれば逸話も交えてもっと掘り下げたお話をしたいと思います。学生達には「千里の道も一歩から」と鼓舞しますが、千里の道はあくまでも千里、途中で歩みを止めると前に進むことはできません。次の機会まで、切磋琢磨して過ごしていきたいと思います。

エバレット千尋さん

Profile/

フリーランス通訳者。インターナショナル美術専門学校を卒業後、設計事務所に就職。通訳スクールの受講を経て、1994年よりフリーランス通訳者・翻訳者として独立。1997-98年にクイーンズランド大学大学院日本語通訳翻訳学科で学ぶ。帰国後、日本の通訳スクールにて講師を務める傍ら、フリーランス通訳者としての実績を積む。その後、外資系通信企業の役員付き通訳者を経て、現在は会議通訳者として活躍中。