【第19回】わたしの転機。そして、「ずっと長く道は続くよ」

橋本佳奈さん

このコラム執筆のお話をいただく少し前、実は、通訳の仕事を辞めたいと悩んでいました。

「本当は人前で話すことは得意ではないのに」などと、心の中でいつも苦しんでいました。でも、依頼がくると、反射的に「はい」と言って引き受けてしまう。そして、仕事の当日までもがき苦しむ。そんな繰り返しでした。「楽な仕事は世の中にはない」、「私を必要としている人がいる」「今の私にできる仕事はこれしかない」と自分を励まし、やっと仕事を続ける決心がついたのです。ですから、このコラムでは自分自身を振り返る意味も込めて、普通のルートではない形で通訳になった私の体験を通して、「目標にたどり着くまでの道はいくつもある」という事例を、通訳を目指す方々に参考にしていただければと考え、執筆を引き受けました。

最初の転機「わたしは中国語が話せる」

現在、私は橋本佳奈の名前を名乗っていますが、もともとは台湾の出身です。中学の時に来日し、日本の高校と大学を卒業しましたが、その間は台湾の本名を使っていました。結婚、そして出産しましたが、「母親がアジア系の外国人だと子どもが学校でいじめられる」と周囲に言われたこともあり、長女が5歳、次女が2歳の時に日本国籍を取得して、台湾の名を捨てました。

専業主婦の生活を経て、やがて子育てに手がかからないようになり、家の近くでパートの仕事を始めたのですが、そこでセクハラに遭い、屈辱を感じてパートは辞めました。「お金をいただきながらプライドをもってできる仕事はないだろうか」と考えているうちに、ふと「私は中国語が話せる」ということを思い出したのです。

その頃、語学雑誌で通訳の仕事を紹介する特集を読み、会議通訳や通訳案内士は無理でも、法廷通訳ならできるかも知れないと思い立ち、雑誌に書いてあった裁判所に法廷通訳人の登録をしました。登録から半年後に最初の仕事が来ました。出入国管理及び難民認定法違反事件の案件でした。30分の公判を滞りなく終わらせられるかどうか、前の晩に急に不安になり、子どもたちを寝かしつけてから徹夜して全ての書類を中国語に訳し、仕事に臨みました。そのときは初めての仕事をなんとか切り抜けられて心の底からホッとしたものです。

次に向かったのは台湾貿易センター(日本のJETROにあたる団体)でした。通常は台湾からの留学生がアルバイト採用されていましたが、子持ちの主婦の私も参戦したのです。食品展、CEATEC(アジア最大級の最先端IT・エクトロニクス分野の展示会)、家具展、ギフトショー等の展示ブース内での商談通訳を任されました。留学生より少し日本語が上手だったせいか、台湾貿易センターからセミナーの通訳をやってみないかとお声がかかりました。

そのセミナーは冷凍の枝豆に関する会議でした。日本の各社大手スーパーの担当バイヤーたちと台湾の枝豆生産輸出業者が15人対15人くらいで意見交換を行うのですが、専門用語が飛び交い、メモも上手にとれなかったので、台湾の方のお話を日本語に全部再現できず、途中で双方が日本語で話し出す始末でした。そこでは私は役立たずの通訳でした。とても悔しかったことを覚えています。“話せること≠訳せること”を実感しました。

通訳学校に通う時間も余裕もなかった私は書店で『中国語通訳への道』(塚本慶一著/大修館書店)を購入し、自宅で通訳理論やスキルアップの練習を独学しました。

法廷通訳の仕事は毎回まじめに下訳をして行ったのが良かったのか、どんどん難しい事件を任されるようになり、最終的には裁判員裁判も数多く担当させていただきました。検察官や弁護士が冒頭陳述や論告、弁論をする時は裁判官の手元にも書類があるので、検察官や弁護士は書類を法廷で早口で読み上げます。法廷通訳人の私は、被告人に同じスピードでその内容を伝えなければなりません。事実上、同時通訳なのです。

その対策として、毎朝4時BS NHKで放送される「ワールドニュース」を録画し、CCTV(中国国営放送)の中国語をシャドーイング(音声に合わせて復唱)することにしました。同時に、日本人アナウンサーが読み上げる日本語ニュースもシャドーイングで練習しました。そんな練習をしているうちに、不思議と同時通訳ができるようになりました。

偶然ですが、NHKのニュースを作っているニュースセンターという所からも仕事をいただくようになりました。中国語については英語のように24時間通訳者が常駐しているのではなく、何かニュースになる出来事が起きると、局入り(放送局に出向いて仕事をすること)の緊急依頼がきます。そこでは、ニュース原稿制作のために現地の報道などを日本語に訳していくことが仕事になります。この仕事をこなすために私がとった対策は、中国や台湾の現地語のニュースアプリをダウンロードして、常に通知がくるように設定し、同時に、日本語の報道にも常にチェックすることでした。

「クライアントに満足してもらえる仕事」を続けること

私はいつも「自分は運がいい」と神様に感謝をしています。人生は本当に不思議です。「一所懸命やっていれば、必ず誰かが見てくれている」。その通りだと思います。それは2010年、公私ともに落ち込んでいた時期でした。

仕事現場にて その1

あるセミナーでの私の通訳を聴いた、台湾の大使館にあたる台北経済文化代表処の方から、「名古屋で開催される『日台架け橋プロジェクト投資説明会』の通訳をして欲しい」というオファーをいただきました。私は二つ返事で引き受けました。無事に仕事を終え、名古屋駅の地下でオーダーしたミソカツは「あなたは必ず自分に勝つ」と語りかけてくれていた気がして、涙を飲み込みながら食べた記憶があります。この時、「一つひとつの仕事にクライアントが満足して通訳料を支払って貰える仕事をしよう」と心に決めました。これが第二の転機です。

今度は、その説明会での私の通訳を聞いた名古屋のある企業の方からその翌年に仕事のオファーがありました。その会社にはその後も品質管理のグローバル会議での通訳を毎年任されています。このように私の通訳の仕事のつながりが広がっていったのです。

2011年には、世界的にIT、環境、情報通信、ライフサイエンスが成長産業になると見込まれていたこともあり、日本企業に学ぼうと台湾から多くの視察団が来日するようになっていました。これに伴って、こうした視察団の通訳をする仕事が増えていた時期でした。日本企業は、各分野の最先端技術や情報を視察団に説明をするのですが、台湾側は大変勉強熱心なので、関心のある日本の政策や技術について疑問が未消化のまま残っているような顔をするときがありました。

その日の夜はインターネットで情報を収集し、翌日一緒に回るバスの中で、前夜に調べたデータや日本の社会的背景を説明してさし上げました。視察団の方は「なるほどね!」ととても喜んでくれていました。自分としては、双方の業界用語や専門用語をその都度詰め込む苦しみはあったものの、やりがいを感じた瞬間でした。それまでの私は、ただ生活のために通訳をしていた部分がありましたが、台湾の方々の喜ぶ表情を見て、「これからは日本と台湾の関係に貢献できる存在でありたい」と強く思うようになりました。


仕事現場にて その2

2016年の仕事は、IOT、ビッグデータ、通信、金融が主なテーマでしたが、今後は、文化、芸術、政治などの領域も増えて行くと思っています。通訳という仕事は、自分を成長させてくれるものであり、感謝をしながら仕事に臨みたいと思っています。二人の娘が大学に入ったら、私も大学院で学びたいとも思っています。

私は、NHKで放送していた連続ドラマ「花子とアン」の主題歌“にじいろ”が大好きです。

歌い出しで「これから始まるあなたの物語、ずっと長く道は続くよ」とあるように、私も通訳を辞めるなどと言わず、頑張り続けます。自分を取り巻く環境がときに障碍と感じる場合もあるでしょう。でも、いまできることを一所懸命やるしかありません。恥をかいても、悔しい思いをしても、笑顔で前へ進めば、必ず道は開けます。これは実はいま、私が私に対して、言い聞かせている言葉なのです。

橋本佳奈さん

Profile/

東京を中心に活動する台湾出身の会議通訳者。日本の高校や大学を卒業後、商社に就職。12年前に法廷通訳に登録したのをきっかけに通訳業界へ。現在は、台湾の政治経済からエンタメまで、幅広く通訳の仕事をしている。台湾セレモニーの日中バイリンガルMCの経験も豊富。