【第16回】遅れてやってきた通訳者

白倉淳一さん

通訳者になろうと思い立ったとき、50歳と数カ月になっていました。

学校を出てから日本の企業で28年間転職することもなく働いていましたので、通訳者になることはキャリアの大きな変化になりました。私と同じような経歴の通訳者にはまだ直接会ったことがありません。通訳学校のことや仕事との出会いなどで、少数派として何か参考になることをお伝えできるかもしれないと思い、このリレー・コラムを書かせていただきます。

まず少数派通訳者の経歴を少し。空調設備の設計・施工をする企業に入社し、会計、その後給与計算や人事を担当しました。会計担当の時に英領香港(当時)に3年滞在し、インターネットもない時代でしたのでほぼ英語だけの生活となり、これがきっかけで帰国してからも英語の学習を続けました。

会社勤めもやりがいがありましたが、50歳を過ぎてから少々行き詰まり感がありました。60歳、あるいは65歳になったときに自分がどのような仕事をしているのか具体的なイメージがつかめなかったのです。他人よりも少しは得意な英語を使って何かできないか。翻訳や通訳を仕事にする可能性を考え、インターネットでいろいろと調べてみました。

社内で講師をしたりトーストマスターズ活動でスピーチの練習をしたこともあって、人前で話すことに強い関心があること、翻訳と違って通訳では首都圏在住がそのまま競争優位になることから通訳の道に進んでみようと決意しました。

起業していた友人二人は強く賛成してくれましたが、会社勤めの友人は全員かなり懐疑的でした。自営業者と会社勤務者ではリスクを取る感覚が違ってくるのでしょう。一時的に収入が落ち込んでも、仮に70歳くらいまで現役で働けばトータルではさほど損はないのではないかと考えました。今思うとなぜそれだけ楽観的だったのかよくわからないくらいです。勤務先でお世話になった方々が50代・60代で亡くなることが続いたり、東日本大震災があったことも「したいことがあれば、今、しておこう」という決心につながったと思います。

通訳学校を選ぶ暇などなかった

通訳者になれる可能性があるかどうか、数週間、いろいろと調べる日々を過ごしました。直接知っている職業通訳者がいなかったので情報集めはインターネットの検索が中心でしたが、そこで40代、50代から通訳を始めた人が実際に存在することがわかり、大変励まされました。これは試してみる価値がありそうだと決意しました。

仕事を獲得できるようになるためには通訳エージェント併設の通訳学校に通うのが早道だという情報が多かったので、通学を検討しました。たまたま英語の学習仲間が通訳学校に通っていることを知り、学校名を尋ねてみました。その方の英語の実力はかなりのものでしたし、自ら起業した会社の経営者として多忙でもあり、その方が「良い」と言えばまずまちがいないと思ったからです。私も企業勤務のため多忙であちこちの学校を検討する時間はなく、なにより「学習するのは本人で、学校は(おそらく)どこでも大差ない」と思っていました。

こうして 2012年の4月からインタースクール東京校に通い始めました。この時点で50歳でした。

受講前にレベルチェックを受け、「会議通訳本科」の一番下に入りました。「準備」や「基礎」、「入門」という段階に案内されるようなら英語力の点で問題だと思っていたので、まずまずの開始です。一学期の半年間も私の年齢としては貴重です。少しでも修了に近いクラスに入りたいと思ってのスタートでした。

これは職業訓練

50代という年齢が学習の大きな支障になるとは考えていませんでしたが、学習の後に通訳者となって生計を立てるだけの収入を得られるかどうかは心配でした。種をまいて育てて、そこで終わりでは困ります。果実を手にしなければなりません。うまくいかない場合の見切りをどこでつけるか。学習を始めてから2年半でプロの通訳者としてエージェントの名刺を持って仕事に出よう、それができなければ撤退しよう、そう決めました。

弁護士になるために通う法科大学院は2年または3年、競輪学校の在学は1年未満。通訳訓練の期間も専業ならこのくらいの期間が節目だろうと思います。集中して学習するため、通訳学校に入学した半年後に勤務先を退職しました。フルタイムで働いていてはとても無理だと感じたからです。相当危険な賭けですが、何かをしようと思ったら何かを手放す必要があるのではないでしょうか。英語がそこそこ使えますし、企業内社会保険労務士として8年間登録していた専門性もあるので、もし通訳者になるのが無理でも年収大幅ダウンの契約社員としてなら再就職できるのではと(甘くも)考えていました(「考え直してウチの会社に来い」というお誘いもいただきました)。この歳になると健康や家族の理解・支援、家計の状態を考え、退路も含めて慎重に判断する必要があると思います。

通訳学校では半年ごとのコースで連続3回進級しました。学習の過程は人それぞれですが、通訳学校の入門レベルで思ったように進級していかないとすれば、主な原因は通訳技能ではなくて、「外国語(英語)を取り込む力」・「英語で表現する力」が十分ではないのかもしれません。英語の能力と通訳技能の両方を同時に高めようとするのはあまり効率的ではない気がします。英語の力があれば自分が出した訳の良し悪しがわかるので、通訳訓練も効率が良いものになります。

心の持ちよう

通訳学校の最後の1年は1年課程で、半年経過後に中間試験がありました。この出来は散々なもので、よく放り出されなかったと思っています(半年で継続受講できるかの判定がありました)。その後もパッとしない出来で、時間だけが過ぎていくという焦燥感がありました。そしてすぐに期末試験。母体の通訳エージェントから営業担当者等も列席していて、ちょっとものものしい雰囲気でした。不思議なことに、その「本番らしさ」によって通訳者本来の役割を思い出しました。講師だけではなくその他の「よその人」も並んでいるので、「言葉が通じずに困っている人たちがいて、私が入らなければ話が始まらない」という場面を想像することができたのです。

この瞬間、「うまくできなかったらどうしよう」「今度こそまともなところを見せなければ」という気持ちが背後に退きました。試験では授業のときよりもずっと勢いを保って訳せたと思います(講師からもそのような講評がありました)。自分のほうばかり向いていた心の「矢印」が聴衆のほうにクルリと向きを変えたのです。「お伝えしなければならぬ」と。

この点はかなり重要ではないかと今でも思っています。仕事ではパートナーより出来が悪かったら困るとか、準備が不足で心配だという思いも当然頭をもたげるのですが、そうした内向きの感情はなるべく放置して、訳して伝えることに心を用いるべきだと思います。

運の果たす役割

運よく2014年3月に展示会の通訳者としてデビューを果たすことができました。予定から半年の前倒しです。そして大きな転機が訪れます。出張を伴う通訳業務をエージェントから請け負い、延長に次ぐ延長で半年以上断続的にその仕事が続きました。顧客は日本に進出して間もない米国企業で、通訳を使ったことのない技術者を担当しました。優れた通訳者がどのようなものかを知らず、要求度が高くないのは大きな幸運でした。

「君は日英両方話せるのか。すごいな!」という感じでした。内容が以前の勤務先でなじみのあったプラント系で、顧客は「この通訳者は機械も電気もよくわかっている」と安心したようです。客先と同じホテルに宿泊し、同じ車で移動して夕食も共にするという濃密なつきあいですが、プラント業界ではごく普通なので抵抗がありませんでした。「同じ釜の飯を食う」関係で相互に信頼が深まり、通訳にも慣れていきました。通訳学校の講師から後に「めったにない幸運」と繰り返し言われることになるのですが、今になると本当にそう思います。

先輩通訳者にいろいろ話をうかがうと、運の果たす役割の大きさを感じます。指導者や仕事との出会いもそうですが、それ以外にも家族や健康、経済状況など自分でも気づきにくい「幸運」がだれにでもあると思います。それに気づくのは難しいのかもしれませんが、できそうだと感じたら一歩踏み出す。そうすると何かが起こる確率は必ず増加します。

現場に出てみて

通訳の現場に出てみると学校とは全く違った世界が見えてきました。

  • 顧客は金を払って通訳サービスを買っている。
  • 通訳の口から出た言葉はそのまま話者が言ったこととして受け取られる。

この恐ろしさは仕事をして骨身にしみました。何十億円という設備投資の打ち合わせで自分が通訳する内容を顧客がメモして次の質問を考えます。確信が持てなければ発言内容を確認する勇気も必要です。発言者に確認する練習なんて、通訳学校ではしてくれません。

また、通訳の現場には英語を使い慣れている日本人も多く居合わせます。通訳者(私)を必要とする日本人は一人だけで、その他の日本人は英米の大学を卒業、うち複数はMBA取得者ということもよくあります。そうした方々の発言を逐次で通訳するときには「この場が早く終わってくれますように」と念じてしまいます(無心でなければいけないのですが)。

遅くから始めた通訳者の強み・弱み

企業勤務が長く、複数部署を経験したことが通訳で役に立つことはかなりあります。企業の各部署の機能や発注・納品・請求・決済のしくみ、財務諸表、社会保険など、どの企業にも共通する点を理解しているので、企業活動や商取引の分野では「この話は全体のどの部分か」がよくわかります。他の通訳者がこうした点を苦手にしているのは意外でした。また、技術職ではなくても勤務していた会社の商品・技術は意外に身に付いていて、これは大きな助けになりました(建設・機械・電気)。通訳の事前資料が分厚いことも多いのですが、内容に親しみがあるのでどんどん読め、知らない用語は少数だったということもよくあります。

しかし、通訳者に必要な知識は専門家より間口が狭く奥も浅くてよいのも事実です。医師免許がなくても医学・医療の通訳はできますし、弁護士資格がなくても法廷通訳は可能です。私も空調の負荷計算をしたこともなければ電気配線をしたこともありませんが、顧客からは「よく知っている」とお褒めの言葉をいただいています。20代、30代の人が食わず嫌いをせずに本気で準備すれば、私の長年の経験に簡単に追いつけるはずです。

いっぽう、日本語・外国語を聞き、言語を変換してわかりやすく高品位な訳を顧客に聞かせる基本的な能力は専門領域の経験・知識では補完ができません。このことは自分で通訳をしていてしみじみ感じます。そして、遅く始めた私にはこの技能を伸ばしていく時間が非常に限られています。この点で遅く始めた通訳者はかなり不利ではないかというのが私の懸念です。通訳者は通訳サービスを売買する市場に身を投じるのですから、意識するかどうかは別として他の通訳者と競争しています。そして競争相手は立ち止まっているわけではなく、休みなく経験を積み技能を伸ばしています。

ちょっとだけ老練

企業勤務の経験がいたずらに長いよりも20代、30代から通訳の道を歩むほうが有利だと思っていますが、私のような「遅くやってきた通訳者」にもわずかながら有利な点があります。それは「物知り・雑学」という点です。

私がときどき使う「おじさんの奥の手」があります。話者と打ち合わせや雑談のときに「相手の心に刺さるちょっとした質問・コメント」をしてみます。例えば、最先端の機械や処理を扱うときには単に「すごいですね」と驚くのではなく、技術の勘所を押さえた一言を発するのです。

「ここの部分、こんな理由で大変だったでしょう」
「ここが何か新しい部分ではないですか」
と釣り針を投げ込んでみます。うまくヒットすると、
「そうなんだよ、君、そこなんだよ。わかってるね!」
という展開になり、通訳者が「言語変換機械」から一人の人間に「昇格」します。そうこうすると話者は心のどこかで通訳者を意識して話すようになるのか、話がわかりやすくなる気がします。

こうした質問やコメントは簡単ではありません。急所を外してしまうと「やっぱりわかってないね」になりますし、外さないために無難なことを言うと相手の印象に残りません。「これなら少しは話に乗ってくれる」という自信があるときだけ、少し抑え気味にこの作戦を使っています。この手でかなり助かってきた気がします。しかし、「余計なことを言うヤツだ」「知ったかぶりをしたい人だ」と思われたこともあったかもしれません。

決めるのは自分しかいない

長年してきた会計や人事労務とは全く違った仕事に踏み込んだのですが、日本語と英語とはいつも身近にありました。社内文書を作れば上司にさんざん直されましたし、海外現地法人からの訪問団を案内することもありました。今振り返ると、それらは実は細い糸で通訳につながっていたように感じます。通訳者を目指そうという動機は人それぞれ。学習方法や学校についての情報を集めて回ることも必要ですが、実際に通訳者の入る講演会に出かけ、通訳者に会って話を聞き、自分の心の声に耳を澄ますのが第一なのかもしれません。

ここまで読んでくださった方にお礼を申し上げると共に、どうか自分だけの「通訳者になる必然性」を見出していただくよう願わずにはいられません。「なれたらいいな」で通訳者になった方は少なくとも私の周囲にはいないようです。皆どこかの時点で決意を固め、全力で取り組んできたのだろうと思います(外からはそう見えなくても)。私の心の支えになってきた言葉を引用して結びといたします。

「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」(江副浩正 リクルート創業者)

白倉淳一さん

Profile/

フリーランス通訳者。大学卒業後、建設設備企業で会計・労務管理・人事を担当。在職時に社会保険労務士資格を取得。通訳学校に通い始めて半年後、2012年に勤続28年で学習に専念のため退職。

2年経過後からフリーランス通訳者として稼働を開始。エネルギー、公共インフラ、企業会計、ITの通訳経験が多いが、範囲を広げようと鋭意活動中。