【第28回】通訳なんでも質問箱「倫理と忠実性のどちらを選ぶか」

「通訳なんでも質問箱」は、日本会議通訳者協会に届いた質問に対して、認定会員の岩瀬和美と山本みどり(プラスたまに特別ゲスト)が不定期で、回答内容を事前共有せずに答えるという企画です。通訳関係の質問/お悩みがある方はぜひこちらからメールを。匿名で構いません。

Q. 倫理と忠実性のどちらを選ぶか

私は政治的にはリベラルなのですが、最近ある保守派政治家の通訳をしました。この政治家は所々で差別的、または偏見的と解釈されるような発言をし、私は不本意ながらその意味に近い形で訳しました。政治家にはバイリンガルの秘書も付いていたので、変に表現を和らげても気づかれていたでしょう。でも仮に訳を確認する人がいなかった場合、ソフトな訳にして事を荒立てない方がよいのでしょうか?このような案件と知っていたら最初から断っていましたが、その場で仕事を放棄するわけにもいかず、また現場で似たような状況になったらどうするべきか悩んでいます。忠実に訳しても極端な保守思想をもつ人間だと思われたくないので……(仮案件コレクター)

岩瀬和美の回答

ご質問ありがとうございます。「仮案件コレクター」さんの戸惑い、本当によく分かります。自分の信条に反する言葉を、あたかも自分の意思かのように発しなければならない瞬間は辛いですよね。

ただ、たとえチェックする人が誰もいない場面であっても、通訳者の判断で言葉の「毒」を抜き、表現を和らげてしまうのは避けるのが賢明だと思います。仮案件コレクターさんが差別的だと感じた違和感も、あくまで個人の価値観を通して受け取った印象の一つです。通訳者の本分は黒子として、話し手の意図と、その言葉が持つ強さをできるだけそのまま相手に届けることにあります。

発言によって場の空気が緊張したり、反発が生じたりすることもあるでしょう。しかしそれも含めて、その場で起こるべき自然な衝突です。先回りして衝突を和らげたり、火種を消したりするのは、通訳者の役割ではありません。

例えば、国際会議の場で、ある国の代表が相手国にとって受け入れがたい主張をぶつけ、交渉が決裂したとしても、それは起こるべくして起きた「潔い決裂」です。真の対話は、言葉がぶつかり合う緊張の中に生まれるものです。通訳者が言葉を和らげて衝突を回避させたところで、生まれるのは本音がすれ違ったままの、合意の形をした幻に過ぎません。

もちろん、事前に「今日は合意形成を優先したい」と役割を明確に託されている場合には、場の進行に配慮した表現が求められることもあります。ただその場合であっても、話し手の意図とは異なる意味に置き換えるような違訳は避けるべきです。

自分までその思想の持ち主だと思われるのではないかという不安を感じることもあるでしょう。しかし内容を変えてしまうことは、かえって通訳者としての信頼を損なうことにつながります。どうしても受け入れ難いと感じる案件であれば、事前に辞退するという判断もプロとしての選択の一つです。ただ、現場に立った以上は、自分を前に出さず、摩擦を恐れず、言葉をそのまま届ける。その姿勢の積み重ねが、通訳という仕事への信頼を支えるのだと思います。

山本みどりの回答

通訳者なら誰もが1度は直面する壁、それは自分なら絶対に言わないような言葉を訳さなければならない場面です。

結論から言えば、私は基本的に表現を和らげることはしません。スピーカーの言葉をそのトーンも含めて忠実に再現すること、それこそが通訳者の基本原則である「足さず、引かずに訳す」という責務だと考えているからです。

AIIC(国際会議通訳者連盟)の行動規範においても、クライアントに対する誠実性や通訳の忠実性が強く求められています。

自分では決して言わないようなことを訳す際、私は自分自身を透明人間や空っぽの箱のような存在だと思うようにしています。そこに通訳者自身の感情や判断を介在させてはいけません。忠実に訳した結果、たとえその場に波風が立ったとしても、それはスピーカーの責任であり、通訳者の責任ではありません。

通訳の仕事はその場を丸く収めることではありません。

原文の発言に忠実なプロとしての態度は、むしろ信頼を生むでしょう。クライアントが高いフィーを払ってプロを雇うのは、まさにそうした正確な意思疎通を求めているからではないでしょうか。

人間であれば、自分の口から出る言葉には意思が宿ると考えるものですが、こと通訳においては、その意思をあえて捨てることで、プロとして成長する瞬間があるのだと思います。

そうは言っても、これには精神的な負荷が伴います。どれだけ空っぽの箱に徹しても、自分の口から差別的、偏見のある言葉を発し続けるのはしんどいものです。だからこそ、仕事として長く続けるために自分なりの境界線を持つことが重要になります。

具体的には、自分の倫理観や信念に合わない分野や、許容範囲を超える案件には、最初から近づかない。また期せずして大きな負荷がかかってしまった仕事の後は、自分をいたわるようにする意識を持つこと。

どんな仕事を受けて、どんな仕事を断るか−この軸を明確に持っておくことが、長く通訳の仕事を続けていくための秘訣ではないでしょうか。


岩瀬和美

通訳歴30年以上。ITやビジネス分野では日々奮闘しつつ、芸術関連の仕事に心癒される瞬間を見出している。還暦を過ぎ、これからの働き方・生き方を模索中。

山本みどり

英日会議通訳者。東京外国語大学タイ語科を卒業後、イタリア滞在中に通訳の仕事と出会う。インタースクールにて会議通訳コースを修了。合同会社西友、日本アイ・ビー・エム株式会社の社内通訳を経て、2009年よりフリーランスとして活動開始。特に顧客訪問や取材時の逐次通訳が得意。 Website: yamamoto-ls.com