第3回JACI特別功労賞 受賞者コメント

徳永晴美

名誉ある特別功労賞の受賞にちなみ心よりお礼申し上げます。

ロシア語通訳協会は本年8月30日に創立40周年となり、かつ本年は夭逝された米原万里さんの生誕70年の節目。私と万里ちゃんの特別功労賞の同時授与の決定を下された貴協会の皆様に心より感謝申し上げます。あらためて万里ちゃんのことを想起する機会を頂いて本当に感激です。(以下、字数節約のため「電報文体」にさせていただきます。)

・醜い?通訳者たち

 わたしたちの協会ができるころ、ソ連は西側諸国の「仮想敵国」だった。「仮想敵国」? ならば、通訳者は口喧嘩が通じる高度なコミュニケーション能力を磨き、そのノウハウを「同僚」と惜しみなく分かち合う精神を具備せねばならないはずだ。

ところが当時は・・・? なんと、新入りから「縄張り」を守ろうとしたり、現場でパートナーに手を貸さないどころか、自分が入手した会議資料(用語・略語集)や参考情報を隠蔽しようとしたりする通訳者に何度か遭遇した。実に醜い世界に思えた。

真のプロ通訳者は、優秀な同業者を見いだして喜びを感じ、共に成長するために切磋琢磨する中で育つのではなかろうか。本物のプロとは、ハイレベルのチームワークに応じる能力と人柄を備えた者のことであろう。

「実力者による団体戦」の必要性を確信した小生は、若手通訳者たちを誘い、イデオロギーを持ち込まない「通訳協会」結成を目指した。そして1980年8月末、ロシア語通訳者18名が集まり、協会発足に至った。会長・徳永、副会長・小林満利子、事務局長・米原万里のトロイカによる、よちよち歩きが始まった。

組織作りの原点は、「個人の知識とノウハウの抱え込みを乗り越えて、それらを分かち合って共有財産を築き継承する」。プラス、「リーズナブルな料金体系を整備する等で労働条件及び社会的な地位の向上を目指す」だった。(電気・ガス・水道・タクシー料金などは値切れないのに、当時、ロシア語通訳料金は低額で値切られっぱなしだった。公衆電話ボックスに張られたチラシを見ると、コールガールにも料金システムがきちんとあった。)

折しもその頃は、1979年の「ソ連軍のアフガン侵攻」を口実に、日本を含む西側諸国がモスクワオリンピックのボイコットを断行。われわれ「ロシア語通訳者の稼ぎ時」の夢は潰れてしまった。そこで発足当初のメインスローガンは、「暇なときこそ皆で学習活動を進めて、力と知識を蓄積し、将来に備えよう。いまこそ勉強のチャンス!」だった。

・同時通訳者米原万里の誕生シーン

以後、今回の共同受賞者である米原さんとは、かれこれ15年間、仕事をともにした。

彼女を初めて同時通訳に駆り出したときのことを思い出す。1978年、東京での「アジア交通運輸労組会議」。彼女の受け持ちは,日本側代表の演説草稿を事前に露訳しておき,演説時にそれを「同時読み上げ」するだけのことだ。ところが、そのスピーチが始まった途端、万里さんは「だめ、私やっぱり才能ない、こんなの向いてない」とヘッドホンを放り投げてしまった。小生は慌てずマイクのスイッチを切り、「万里ちゃん,分かるところをゆっくり伝えるだけでもいいから」とささやき、ゆっくりとヘッドホンを付けてやり,マイクのスイッチをONにした・・・ 同時通訳者・米原万里の誕生シーンだった。そのとき小生は、「あっ、いつか来た道だ!」と感じた。

それ以降の米原万里さんの活躍ぶりについては多くの方々が知るところだ。

・ボランティア精神の協会の新たな取り組み

都心に本部事務所を構え、関西と北海道に支部を持つロシア語通訳協会はこんにち、マスコミ各社、外務省・財務省他の省庁や大手企業・組織に頼られる組織となった。

一方で、発足当時から今日まで、一部のボランティア役員の重い負担の上にその活動が成り立っているのもこの協会の隠せざる実情だ。

そこで、会の顧問として小生は本年の年頭総会へ向けて以下のことの再確認を呼びかけた ― すなわち、協会は会員へサービスを提供することを第一目的としているのではなくて、逆に、会員が知識と経験・情報を持ち寄る(与える)ことを優先目的とするボランティア組織である。

 あらゆる失敗体験を共有するのも協会全体の課題の1つ。失敗のケーススタディーのための学習会も必須課題。「一か八か」で仕事に出かけるのを回避したいもの。そのための学習会と教材の充実を図ることに協会の存在意義がある

あくまでも私見だが,今後会議通訳者たちにとっては, Zoom等を活用したリモート逐次・同時通訳演習に力を入れることが緊要ではなかろうか。ロシア語通訳協会外部のロシア語教育機関でもそのような試みは始まっている(於:新橋,横浜)。学習テーマは山ほど有る。各国首脳のリモート会議も多用され始めているいま,この傾向が(善し悪しは別として)将来さらに強まることも考慮し,それへの対処法を身につけておくべきだろう。

・通訳者としてのプロ根性、職業意識

駆け出しから本物への道は遠い。ここで「プロ」についてのいましめを一つ。仕事に「慣れるのは大事」だが、「慣れきったら要注意」ということ。この警告を下さったのは,尊敬する同時通訳のパイオニアである国弘正雄、村松増美の両氏だ。

国弘氏は、東南アジアでのある会議の通訳をつとめた際に、現地に集まった他国の通訳者たちが「なんだかすえた雰囲気をもっていたので嫌な感じがした」と語ったことがある。

村松氏も、その名著[1]でこう戒めている。「Blaséという言葉があります。これは、フランス語から入った言葉で、その意味は『慣れっこになった』ということです。Blaséになり、怠惰に陥ってしまって、『通訳なんてたいしたことはない、captainだろうとleaderだろうとどっちでもいいしゃないか』といった態度になるのがいちばん恐ろしいことだと思います」。

とはいえ,逆のことも銘記しておくべきだろう。以下は一例だが,かなりロシア語を上手に操る若手通訳者が、「和露通訳のとき日本語の細かいニュアンスがうまくロシア語で伝えられないので挫折感を覚えてしかたがない」と打ち明けてくれたことがある。(彼女はまだ全体として一字一語の逐語的、直訳的な、早くそこから抜け出したほうが良いと思われるたぐいの通訳をしていた。)

ローデリック・ジョーンズ著の『会議通訳』(松柏社、2006年)に(も)処方箋がある。いわく、通訳の主要目的は「意思伝達をうまく行うこと」であり、「スピーカーのアイデアを伝達することに全神経を集中すること」である。「完全な翻訳は不可能だ」とあらかじめ納得しておくことだ(208頁)。また、より的確な訳を目指して頻繁に訂正するような「自己満足が目的の通訳は非効率的である」と諭してもいる(190頁)。

さらに,プロであることについては Seleskovitch,Danica氏の名著Interpreting for International Conferences(『会議通訳』)がある。その邦訳版(遅かりし)がようやく2009年、研究社から出た。原著は1968年に仏語で出版、英語版は1978年に出て久しかった。

そのセレスコヴィッチ氏の著書から、溜飲のさがるくだりを引用させていただきたい[2]

しばしば会議において通訳者はぶっつけ本番で翻訳する。すなわち会場で読み上げられている原稿を口頭で翻訳しなければならないのである。そこで通訳者に要求されるのは、書き言葉、そして棒読みという、通訳に全く適さない形態のメッセージを伝えることである。しかも1分当たり200語、つまり通常の翻訳作業の40倍の速さで訳すのである。この異常なまでの速さによって通訳者は神経をすり減らし疲労困憊するが(以下割愛、残念……)、最も優れた通訳者たち、年期を積んだ厳格なプロ通訳者たちは、不可能な状況下で仕事をして通訳という職業全体の評価を落とすことを拒み、マイクのスイッチを切るのである。

うらやましいプロ意識だ。もう一つ、小林禮子著『エンタメ通訳の聞き方・話し方』(PHP新書、2009年)も、会議通訳者とエンターテーメント(興行)通訳者のプロ根性の違いを面白おかしく描写している(21~22頁)。

一例をあげておこう。小学校の教室よりも少し広い会議室でのセミナーの仕事での出来事。そこにはマイクの用意がなかった。日英会議通訳者は、「必要以上に声を張り上げて、明日の仕事に不都合があるのは困る」とマイクが用意されるまで、仕事を始めようとはしなかった。一方、何でもやります通訳者としての著者小林さんはどう振る舞ったであろうか(ほぼその逆をやった)、というお話だ。

通訳者としてのプロ根性、職業意識。これぞ他者の経験(話や著物)から学び身につけるほかなかろう。「30年間まずい料理を作って出してきたコックをプロとは呼ばないものだ」という戒めの言葉も覚えておきたいものだ。

以上、小生が思い,考え,感じてきたことをJACIの皆様と共有できるとすれば嬉しい限りです。

貴協会のご健勝・発展を祈念しつつ。

[1]『続・私も英語が話せなかった』サイマル出版会、1979年、71頁。

[2] 『会議通訳』研究社,2009年,131頁。

 

米原万里

米原万里さんのJACI特別功労賞受賞によせて
ロシア語会議通訳者 柴田友子

「私たちの大切な万里さん」の今回の受賞を心からお慶び申し上げます。長い年月が流れ、それでも、万里さんは、ロシア語通訳界のレジェンドとして今も私たちの心に生きつづけています。ロシア語通訳協会HPの追悼集に「私たちは万里さんの巣から育った子供たち」と題し寄稿した拙文をお祝いにかえて捧げます。

万里さんの言葉選びの感覚は独特だった。繊細さと野蛮さがいりまじった、刷り込みの段階で微妙にボタンが半分掛け間違ったような不思議な風合いをもっていた。

万里さんは、どんな時も全体の筋をちゃんと追っていける、意味をかたまりでとっていける数少ない正統派同時通訳者のひとりだった。懸命にオリジナルにしがみついて、はいってくる言葉を順番にはきだしていく同時通訳の概念とは明らかに違うスタイルなのだ。ふつうの話し方もゆっくりと考えながら大きな目で相手をじっとみながら話すタイプの万里さんは、あるスピードを超えると「これはむりよ。」と真剣に怒っていた。

「通訳は自分が理解できないものは伝えられない」という信念の人だったから、自分さえわかればいいような内容を猛スピードで述べるスピーカーには本当に真剣に怒っていた。「そんなに速くてはわかりません。」と会場でどなったこともあった。それは、できないことへの言い訳なのではなく、通常の速さなら全部わかるはずだという強烈な自信と通訳し伝えることへの責任感なのだった。

「もうちょっとまちなさいよ。まてばわかるんだから。」と、同時通訳のブースで私はよくいわれていた。記憶が消えてしまうのを恐れるあまり訳しはじめるのが早いのだ。とにかくひとつはほめることを基本姿勢としていた万里さんは、私には「あなたは声がすばらしいわ。鈴をふるような声ね。」とくりかえしくりかえしほめてくれた。他には何もほめようがない頃から、私はずいぶん万里さんに組んでもらい、仕事をしてきた。

物を書き始めた万里さんは、いつも締め切りに追われていた。会議のコーヒーブレイクに書いていたこともあった。それでも彼女の切り替えのすごさと並はずれた集中力は、ブースにはいったとたん、そんなものすべてを消し去っていた。

誰をも魅了する、とろけるような笑顔、明晰な思考、怒りに燃える目とほとばしる感情、わがままな聖女のような万里さんはいつも華やかで一生懸命で、すぐそばにいるのに手の届かない存在だった。でも、今のロシア語通訳者の仲間達の多くは確かに「万里さんの巣から育ったひな鳥たち」なのである。(ロシア語通訳協会HPより)