第5回JACI特別功労賞 受賞者コメント 神崎多實子

中国語を生涯の友として   

わたしが通訳の「いろは」も知らないうちに、サブ通訳になったのは19歳のとき。

それがいまや通訳歴六十年以上、中国語通訳のほか教師も含め、長い人生行路を中国語とともに歩んできた。

会議通訳の合間を縫って手がけてきた放送通訳の仕事は、今年3月をもって辞職した。NHKの放送通訳は、1980年代の中国残留孤児の肉親捜しの生同時通訳放送から数えると四十年近くになる。

このような長距離走を続けてこられた理由を聞かれたら、答えは「好きだから」。

人生最後の放送通訳を終えて間もなく、日本会議通訳者協会(JACI)から「特別功労賞」が授与されるという話が舞い込んできた。リタイアした矢先に思いがけずこのような栄誉に与り、心からありがたく嬉しく思った。

聞くところによると、JACIは英語を中心に、プロの通訳者が中心になって情報交換するプラットフォームで、通訳としての心得や通訳術を学ぶ場を提供しているという。そのような組織から賞を授与されるのは誠に光栄の至りで、関根マイク会長はじめ関係者の皆様に心より感謝申し上げたい。 

新中国誕生――肌で感じた中国人

思えば、長いような、短いようなあっという間の通訳人生だった。

わたしが物心ついた頃には、父の仕事の関係でいまの中国東北部の長春、当時「満州国」の首都新京にいた。戦時中、新京は「東洋のユートピア」と言われ、かなり恵まれた暮らしだった。

ところが、1945年8月の敗戦によって現地の日本人はどん底の暮らしに。それに続いて始まった国民党と共産党の国共内戦、中国共産党は戦いの傍ら土地改革を進めつつ多くの農民を味方に付け、やがて全中国を解放した。

1948年、わたしはひとつの転機を迎える。というのも、父が敗戦後引き続き「留用」(残留)され、大学に勤務。国共内戦の戦禍を逃れて長春から解放区吉林へ移住した時、教員宿舎がキャンパスの中にあった。そこは世間とは隔絶された特殊な空間だったかもしれないが、実に新鮮な中国があった。

今日は“晩会(ワンホエ)”(文芸の夕べ)があると聞くと大学の講堂に駆けつける。幼友だちと二人で遠慮がちに立見席に立っていると、大学生のお兄さんやお姉さんたちが席を譲ってくれる。次々と舞台に繰り広げられる、大学生が演じる歌や踊り、芝居「白毛女」など、なによりも幕間に観客席いっぱいに響く学生たちの大合唱にすっかり魅せられた。中国語はもちろん、革命のことなどまったく知らないわたしだったが、この時わたしは初めて中国人を身近に感じた。

間もなく長春も解放され、大学が吉林から長春に移転することになり、再び長春に戻った。父の強い勧めで、父の勤務先東北師範大学の付属小学校3年に編入学。14歳のわたしが耳にした中国語は、早口言葉の雑音のようだったが、発音にこだわらず自由に歌える音楽の授業など、すぐ好きになった。いわば歌から覚えた中国語だった。

語学力がつくと特別な計らいで1951年には同大付属中学3年に編入学。先生の多くは、かの吉林のキャンパスを闊歩していた大学生たちで、あの活き活きとした雰囲気を彷彿とさせた。わたしは日本人であることを忘れるほど先生や級友たちに馴染み、また「女性は経済的に自立してこそ、真に解放される」などという生き方についても共感を覚えた。1953年、多くの中国留用日本人の帰国に伴い、同付属高校1年の時に日本に帰国した。

中国の学友たちとともに学んだのは4年余りだが、同級生数人とは、八十路を越えたいまでも中国版SNS、Wechatを通して連絡し合い、その友だちグループ名は「友誼永存」(友情よ、永久(とこしえ)に!)である。

駆け出しの通訳の頃

帰国して間もない1955年、中国からの帰国者を対象にした通訳一般募集があった。「通訳とは何ぞや」ということすらも知らないうちに試験に合格、高校在学中に中国の代表団が来日し、授業はそっちのけでサブ通訳の仕事をする。

また「わだつみ会」の反戦活動に熱中するなど、傍から見ればかなり変わった高校生だったと思うが、当時の都立大学付属高校の自由な校風がわたしを通訳の道へと(いざな)ってくれたと言える。

その頃の日本は、中国を赤い国、「中共」と呼び、中国語ができるというだけで公安の監視が付くような厳しい時代でもあった。

駆け出しの通訳の頃の仕事は、代表団の世話で、正式の貿易交渉などには同席しない。ところがある時、貿易代表団一行が箱根を観光し、地元で歓迎の宴会が催された時のことだった。わたしは末席に座っていたのだが、近くの日本人が簡単な挨拶に立ったため、突如わたしに出番が回ってきてしまった。慌ててメモを取ったものの、手が震えて自分の字が読めない。頭が真っ白になって、訳したのは後ろ半分くらいで、前は全部吹っ飛んでしまった。後で先輩から「前に座っている人を石ころと思え」などとアドバイスされた。

当時、中国から派遣された代表たちは、著名人が多かった。例えば京劇俳優の梅蘭芳(めいらんふぁん)、劇作家の曹禺(そうぐう)、魯迅の夫人で女性活動家の(きょ)(こう)(へい)……。通訳の出来具合は別にして、彼らの人柄に惚れ込み、ますます仕事にのめり込んでいった。

プロの通訳の道へ

駆け出しの通訳から、やがて会議通訳、放送通訳へと進む。

多くの人々から尊敬された周恩来元総理(1898~1976)は、「通訳者は40歳くらいになったら語学を活かして専門のポストで活躍したほうがいい」と言ったそうだ。最近でこそ、中国にも通訳エージェントがあり、プロの会議通訳者として活躍し続ける人がいるが、かつてはベテランの日本語通訳者で、のちにその流ちょうな日本語を活かして外交畑で活躍した人は多い。

たしかに通訳者は作家やアーティストとは異なり、他人の土俵の上で相撲を取っているようなもの。その土俵をはみ出したり、勝手に土俵を描いたりしてはならない。さらに聴きながら訳出する同時通訳ともなれば、頭にがっちりタガをはめられたような状態で、悪戦苦闘を強いられる。まさに「泳ぎの中で泳ぎを覚え」、実践のなかで鍛えるほかないのである。小松達也、長井鞠子、篠田顕子諸氏の英語のベテラン通訳者たちは、その手本を示してくれた。1990年代、世はグローバル化時代、中国が積極的に海外進出したことにより、会議では多言語によるリレー同時通訳方式が採用され、わたしも英語をはじめとする通訳者のプロフェッショナル精神に触発され、開眼したと言えるだろう。

たまに話者とピッタリ息が合って、上手に訳せた時の達成感は計り知れない。きれいな発音で、Q&Aにも筋道を立てて理路整然と応じる人の通訳をしていると、自分が役者にでもなったように心が乗り移り、ゲームに勝ったような、自らの限界に打ち勝ったような誇らしさを覚えることさえある。

ただし、会議通訳者は、ある分野に精通した研究者にはなりえない。どの分野にも対応しなければならず、浅く広く「何でも屋」の域を越えられない。会議は多岐にわたり、環境、医学、経済、世界遺産……転々と各分野をこなさなくてはならない。一枚の織物に喩えるならば、タテ糸は多くの分野、ヨコ糸は中国語、語学になる。一枚の織物を美しく仕上げるために、通訳者はたえず多くのタテ糸1本ごとに関連するヨコ糸を数多く積み上げて、切磋琢磨しなければならない。それこそがプロ通訳の道である。

日中国交正常化五十周年に思うこと

今年9月、日中国交正常化五十周年を迎える。五十年前のこの日、わたしは民間の中国語学校で教師をしており、受講生たちとテレビの前で正常化を喜び、歓声を上げた。

国交回復交渉の際には、過去の戦争に対する当時の田中総理の反省の言葉を通訳者が「“添麻烦(ティエンマーファン)”(迷惑をかけた)」と訳したのに対し、「それはスカートにうっかり水をかけてしまった時に謝るような軽い言葉だ」として、周総理はじめ中国側が激怒したという。激論を戦わせた翌日、毛主席が姿を現し、双方に向かって「喧嘩はもう終わりましたか」と言ったとか。わたしはその場に居合わせていないのに、なぜかその情景がありありと目に浮かぶのだ。

この五十年を振り返ると、1980年代は日中蜜月時代だったのではないだろうか。当時、わたしは日本の信託銀行で通訳をしていたが、人民銀行、中国銀行の研修生が来日し、講義の通訳に明け暮れた。それは第一に中国が長期にわたる戦争、また解放後の相次ぐ「運動」などにより経済が疲弊しているなか、1978年鄧小平が提唱した「改革開放」政策への転換が弾みとなって、経済への取り組みが加速したこと、第二に日本側も、経済界、政界の志ある先輩たちが、かつて日本が中国侵略を行ったことへの深い反省に立ち、惜しみなく中国の経済復興に寄与したことが大きかったと思う。

だが、2010年に中国のGDPが日本を抜いて世界第二位となり、2012年には日本による例の「島」国有化問題が起き、政界の風向きが変わってきた。残念ながら昨今の両国関係は必ずしもしっくりいっているとは思えない。

中国という大国を見るとき、どのような切り口から見るかによって見解が異なってくると思う。だが、最近の日本の論調によると、まるで八十年余り前に日本が中国に侵略戦争を仕掛けたことなどなかったかのようである。

暗いニュースが多いなか、来たる9月に日本語版『周恩来の足跡』(村田忠禧監修 社会評論社)が刊行される。同書は19歳のとき日本に留学し、日本への深い情を抱きつつ、今日の中国に寄与した周恩来の生涯を描いたもので、八人の著者からなる、40万字余りに及ぶ大作である。コロナ禍のもと交流が途絶え、近くて遠い国になってしまった感があるなか、同書の翻訳に当たっては、わたしを含む日本と中国の翻訳者数人がオンラインで打ち合わせをし、メールで訳文をやりとりして手直しするなど、連携プレーで取り組んだ。草の根では日中友好の精神が生きていることの証左といえよう。

国交正常化実現の立役者である周総理は、黄泉の国から今の世界、とりわけ日中関係を眺めつつ、どう思うのだろうか?        

神崎多實子  2022年6月3日