第5回JACI特別功労賞 受賞者コメント 金城初美

第5回JACI特別功労賞の受賞者に決定されたとの連絡を受けた時、大きな驚きとともに、私が受けて本当にいいのかなと少し迷いましたが、今年は沖縄が日本に復帰してから50年という記念すべき年であり、沖縄について、そして沖縄の司法通訳についてより多くの人に知ってもらえる機会になるかも知れないと思い、受けることにしました。これを機に、これまで自分が生きて来た道を振り返ることとします。

1971年に米国ワシントン州シアトルのワシントン大学で薬学の学士号 (B.S. in Pharmacy) を取得して沖縄に戻った後、日本の薬剤師国家試験に合格し、薬剤師として県に登録し、民間の病院に就職しました。その病院では、復帰特例として米国の医師免許を有する米国人の医師が勤務していて、米国で学んだ日本人薬剤師を長い間探していたということで、私は特別待遇で迎えられました。私の職務は薬剤師と通訳でした。勤務時間は院内の薬局で調剤や薬剤交付などの仕事をこなしながら、院内の朝の礼拝では、医師らにウイスパリングで通訳をし、煙草をやめたい人のための講演会では、医学の専門家である医師が喫煙の害について語る内容を逐次通訳しました。薬剤師の仕事より、通訳が自分に向いた仕事ではないかと考えるようになったのは、この頃でした。米国の大学では薬学の専門科目に加え一般教養科目の履修が必要でした。幸運なことに、多様な分野の講義の内容をノートに取るスキルが身に付き、逐次通訳する時のメモ作りに役立ちました。いわゆる通訳者としての成功体験を重ねることができたのです。

1972年5月15日に沖縄は日本に復帰し、米軍人・軍属の犯罪が日本の法廷で裁かれる数が増え、沖縄の刑事裁判における通訳人の確保が急務となりました。その頃、父の友人で私が米国に留学したことを覚えていてくれた裁判官からの強い勧めがあって、裁判所で面接を受けるなど所定の手続きを経て、法廷通訳人として登録することになったのです。その後、8年間勤務した病院を退職し、薬局を開設し、通訳・翻訳の仕事をどんどん引き受けるようになりました。司法通訳としては警察の取り調べ、刑事・民事・家事・少年事件の法廷通訳並びに少年事件等の調査官調査や家事調停における通訳を中心に多忙な日々を過ごすことになりました。

更に、沖縄における国際会議や大学関係のシンポジウムなどの同時通訳の依頼も増えていきました。多忙な中ではありましたが、琉球大学と沖縄国際大学から英語講師のオファーがあった時は、迷わず引き受けました。帰国後間もない頃に英語通訳案内業国家試験に合格し、沖縄県に登録していましたので、大学では観光英語と通訳演習の講義をしました。高校を卒業して米国留学を決める前、将来は英語の講師として大学生の指導をしたいという夢を描いていた私にとって、忘れ物を見つけたようなもので、楽しくやりがいのある仕事となりました。このように薬剤師・通訳・大学の講師として、毎日仕事をこなす日々が続きましたが、2006年に薬局は閉じました。また、大学の講師も2013年以降は辞退を続けています。孫の成長を見守りながら、家族と過ごす時間を増やすようにしたのです。その後、コロナ禍で国際会議やシンポジウムなどの同時通訳の仕事が激減し、最近では、司法通訳の仕事を主にこなす日々となっています。

フリーランスの通訳として本格的に稼働するようになったのは、裁判所に法廷通訳人として登録してからです。沖縄の本土復帰直後のことで、すでに法廷通訳人として活躍していた先輩が2名ほどいました。私が先ず担当することになったのは、麻薬・大麻・覚せい剤などの薬物乱用、違法薬物の密輸入や売買が絡んだ外国人(多くが米軍人)が被告人となって裁かれた刑事裁判でした。ですから薬学の知識が役立つことも多々ありました。その頃は、薬剤師の資格保持者だから薬物関係の事件の法廷通訳の依頼が多いのだと思っていました。しかし、最近になって、沖縄タイムスの連載記事「基地と麻薬―復帰前後の沖縄」を読み、いかに復帰前後の沖縄、特に米軍基地における薬物の乱用、違法薬物の使用や取引が多かったのかを知り、愕然とする思いをしています。

裁判における通訳をする上で難しかったのは、日本語でした。いわゆる法律用語や法曹界で常用される言葉で、耳慣れない表現が法廷で飛び交うこともありました。その場合は、書記官に説明を求めることもありました。そういう中で日本語の法律用語の勉強会が裁判所で定期的に開催され、裁判官・書記官・検察官・弁護士が法廷通訳人の多種多様な質問に答えてくれ、大変勉強になりました。その勉強会は数年間しか続きませんでしたが、その後法廷通訳基礎研修、法廷通訳セミナー、法廷研究会などが開催され、法廷内の通訳人の役割、注意すべき点について学ぶ機会が増え、通訳人から裁判所や検察官や弁護士にお願いしたいことや意見を述べる場としても活用されています。この頃から、事前に起訴状などの資料の提供を受けて、法廷通訳人として事前準備ができるようになりました。最近は模擬裁判を中心に通訳に必要な知識の蓄積やスキルの向上が図られ、いきなり法廷で本番を迎えてどぎまぎする不慣れな通訳人はいなくなっているように思います。

これまで約50年間という長きにわたり、法廷通訳人としてやってこられたのは、何より健康に恵まれたことと勉強する事が好きで常に向上心が持てたからだと思います。記憶する限り、自分の健康不良を理由に予定していた仕事を休んだことは一度もありません。また、結婚後も通訳の仕事をやり続けることが出来たのは、夫の理解があったからこそで、感謝しています。裁判所以外の場所で通訳の仕事をする場合は、他の通訳者と組んでやることも数多くあり、通訳の仕事を通してとても素晴らしい友人ができたことは、私にとって何にも代え難い財産です。

沖縄の歴史を語る際、好きな言葉のひとつが「万国津梁」です。それは「世界の架け橋」という意味です。琉球王国の時代、沖縄がアジアの海で中継貿易を行って繁栄していた時代に鋳造された「万国津梁の鐘」の銘文からきています。異文化交流の架け橋となるような通訳者でありたいという願いは今も変わらず持ち続けています。

今回の受賞を機に今後もしばらくの間は通訳の仕事を頑張りたいと思うようになりました。孫との楽しい時間も大切にしながら、細く長く司法通訳の仕事を続けていきたいです。本当にありがとうございます。

JACIの益々の発展を祈念し、受賞者のコメントとさせていただきます。