【第3回】ことばと私「社会に出る」

 大学卒業後はともかく社会に出てみようと思い、4年生になると就職活動を始めた。キャンパスでは、コネなし就職は難しいとの噂が飛び交う。あてがない自分はどうなるかと不安に思いながら、就職課のファイルを頼りに語学が使えそうな企業を訪問していった。書くことへの憧れもあったので、密かに新聞記者も思ったが、大手新聞社の女性採用は1人くらいだった。

 そうした中、知り合いの知り合いから思わぬコネが入ってきた。コネの先は自民党の大物政治家の福田赳夫・元首相(1905-1995)だという。ビッグネームに驚きながら、議員会館内の福田事務所を訪ねると、コネ受付専門の美しい女性秘書がいて、コネ名簿に次々と名前を書きつけていた。横には手土産と思しき菓子折りが山と積まれている。私の持参した菓子もそこに積み上げられるのだろう。私は航空会社を希望していたが、コネにも序列があるらしく、そう簡単ではないこともわかる。それでも、国際線の就航を近々に予定していたANA全日本航空からスチュワーデス(今のフライト・アテンダント)のお話をいただいた。が、結局、これを受けることなく、公募で決まった野村総合研究所に行くことにした。福田事務所に報告に行くと、今度はベテランらしい男性秘書が出てきて「それはよかった、その方がいいですよ」と言ってくれた。

 また、全くないと思っていたコネが、実はもうひとつ出てきた。父が新日本証券(現在のみずほ証券)の専務だった従弟の「袖川さん」に話をしてくれたのだ。海外畑で、日本の高度成長期を担った企業戦士のビジネスマンだった。ところが、ここで問題となったのが「袖川」という姓である。もし私が雇用されると、海外部門に配属される可能性が高く、その人の直属の部下になる。「袖川」という姓は珍奇ではないかもしれないが、珍しい姓である。私自身、親戚以外にこれを名乗る人に出会ったことがない。なので、その人は危惧した。周囲の人からすぐに親戚だと思われるだろう。それではみんなやりにくくなる。だが、社長に相談すると、気にするな、是非来てもらえと言われたということで、しばらくするといい返事が来た。

 しかし、私もそうした懸念がもっともに思えてきた。互いに神経を使うことになりやしないか。コネの難しいところである。それに証券業務とは何をするのか、イメージも湧かなかった。それで、最終的に、野村総研に採用されたので、そちらに行こうと思うと伝えると、その方もやはり「それはよかった。そっちのほうがいいですよ」と言った。

 振り返ってみると、コネにまつわる話は時代を象徴している。大学に入学した当時の日本は、日中復交を果たしたものの金権政治と言われた田中角栄元首相がロッキード事件で失脚し、クリーンなイメージの三木武夫内閣の時代だった。その後は福田赳夫内閣、大平正芳内閣と続く。ただ一貫しているのは、日本が高度成長をまっしぐらに進んでいたということだ。先には何かいいことがあると思える時代だった。大物政治家の事務所は、今もコネの受付で忙しくしているのだろうか。企業は幹部の親戚を入社させるかどうか検討するのだろうか。知る由もないが、社会に一歩踏み出す前の一連の出来事は、普段は見えない社会の一面を垣間見る貴重な経験となった。

 さて、こうして入社した野村総研は私にとってどういうものだったか。日本初の本格的な民間総合シンクタンクであり、“研究所”というのが知的で魅力的に思われた。コネなし入社の同期の女性は、東大、外語大(2人)、お茶大の4人で、男性同期も東大や東工大、一橋大など“ブランド大学”が並んでいた。同期の学歴に驚嘆しつつ、自分がそういう人選をする“一流企業”に加われたことに、ちょっと得意になっていたと思う。が、それも束の間、すぐに拒絶反応が起きてしまう。会社は女性に補助業務以上の期待はしていなかった。同期の女性たちに割り当てられた仕事は、ひとりは企業名のカタカナ化、ひとりは電話応対とお茶くみ、私は新聞の切り抜きと株式チャートの記入だった。結婚退職は寿退社であり、結婚で辞めないまでも出産は辞め時とされていた。それが社会通念上、普通だった。もちろん、それでも粘り強く頑張っていれば、研究員や役職への道が開けたかもしれない。現に2024年には女性初の社長が誕生している。だが、現実は、世間にいう「1980年代は女性の時代」などではなく、同期の女性は失望を口にした。それに、私の場合、そもそも、経済動向を知るのに必須の株式市場に全く関心が持てなかった。やはり証券とは縁がなかったのだろう。結局、1年で辞めてしまう。待遇もよく、嫌な人間関係もなく、学校を出たばかりの自分に何ができるわけでもないのに、若気の至りというか生意気というか。

 なので、すぐに転職する今の学生を批判する資格はない。学生には授業で「お金をもらって社会人としての教育をしてもらっていると思うんですよ。どこへ行ってもそんなに変わりませんよ」などと言っているが、実は気恥ずかしくもある。が、辞めた後は何ともいえず爽快だった。後から思えば、野村総研に務められたことはありがたく、自分が何をしたいのか真剣に考えた一年となったが、退職は私にとって正しい決断だった。その後、日本翻訳学院で夜のフランス語と英語の翻訳クラスに通いながら、短期派遣で働き、翌年見つけたのが辞典編集のプロダクション会社だった。

新宿野村ビル(当時の野村総研)

袖川裕美

日英同時通学者。関西外国語大学教授。東京外国語大学フランス語学科卒。ブリティッシュ・コロンビア大学(カナダ)修士課程修了。BBCワールドサービス(ロンドン)を経て、放送通訳(NHK・BS、BBC、CNNなど)や会議通訳に従事。著書は『同時通訳はやめられない』(平凡社新書2016年)、『通訳者・翻訳者になる本2018』(イカロス出版)。夢はフランスに1年滞在。ショパンのEtude1を死ぬまでに弾けるようになること。料理上手。