【第1回】歴史を支えた通訳者たち~金城初美 [1/4]

歴史が動くとき、通訳者はいつだってそこにいた――。

通訳者は日陰の存在。歴史に残る出来事に立ち会い、コミュニケーションの架け橋として常に対話の中心にいるにもかかわらず、多くはその名を知ることがなく、その人の物語が語られることもありません。本連載はこれまであまり語られることがなかったパイオニアたちの物語であり、オーラルヒストリーでもあります。不定期連載、初回のみ一般公開です。

第1回は戦後の沖縄を通訳者として支え続けてきた金城初美さんです。インタビューは2017年春に行われました。

――通訳を始めたきっかけを教えてください。

金城:私の通訳人生のスタートは裁判所です。私の父の幼友達が裁判官をしていて、その人から電話で「いま通訳人がいないから、とにかく来てやってくれ」と頼まれて、スタートしたのです。(那覇地方裁判所)沖縄支部の裁判官をやっていたその人の依頼で法廷通訳人登録をしたのですが、登録をするにあたって那覇地方裁判所で手続きがありました。たぶん英日バイリンガルの裁判官がいたのだと思うのですけれども、面接も受けました。私以外の候補者もいたのですけど、何故か私一人が登録することになって、裁判所通訳の仕事をスタートさせたのです。

私はアメリカのワシントン大学へ留学しました。薬学を専攻し、B.S. in Pharmacyを取るために4年間学びました。卒業後1971年に帰ってきて、それから薬剤師の国家試験を受けて、合格後に通訳の仕事を始めたので、1974年くらいから裁判所の仕事をしています。沖縄の日本復帰直後からですね。最初はもっぱら逐次通訳の仕事です。裁判所から声がかかる前にメディカルセンター (AMC)という病院から声がかかりましてその病院に薬剤師として就職しました。これも不思議なのですが、私は公立の高校を卒業後、間もなくアメリカに留学したのです。つまりアメリカ政府が実施した試験に合格して、奨学金がもらえたので、留学できたのです。ですから、帰国後、先ずユースカー(USCAR: United States Civil Administration of the Ryukyu Islands / 琉球列島米国民政府)の教育局のトップに「お陰様で卒業できました」という挨拶に行ったのです。その時にお会いした人が、「あなたみたいな人を探している!」という病院があると言われたのです。つまり、日本人で、アメリカで薬学を勉強した人を探している病院があるということでした。その人は、病院の事務長にすぐ電話してくれ、その足ですぐに病院に行って、事務長からは「給料はいくら欲しい?」と言われて、薬剤師としての病院勤務がスタートしたのです(笑)。

実は、それが薬剤師としてのスタートでもあり、通訳としてのスタートでもあったのです。なぜかというと、その病院 (AMC) の医者は全員アメリカ人だったのです。事務長もアメリカ人でした。会計にもアメリカ人がいました。ですから、普通に日本語と英語が飛び交っているような職場だったのです。宗教的な病院というか、世界各地にある医療機関をもつアドベンチスト病院グループの一つで、セブンスデーアドベンチスト教団が運営している病院でしたので、毎朝キリスト教の礼拝があるんですよ。そのときに米国人医師がミッショナリー・ドクターとして聖書の話をすることが結構頻繁にあって、その際は「誰が通訳するの?」ということになり、医者が話を聞く側にある時は「誰が日本語の話を英語で説明する?」ということになるわけで、それが全部私!ということになりました。そこで逐次通訳をスタートさせて、ウィスパリングもするようになったのです。

――いわゆる下積みだったのですね。

金城:ええ、下積みですよね。その頃、「なんだ、私意外と通訳に向いているかもしれない」と思ったのです。その当時はまだ若いし、逐次でメモをしないで、ワンパラグラフくらい平気で記憶して逐次通訳できました。病院では通訳終了後に、「わかりやすかったよ」という反応も聞くことができたので、結構通訳って楽しいし、自分に向いているかもしれないなと思いました。病院に就職後、しばらくしてから裁判所の通訳の仕事をスタートさせたのです。「誰もいないから来て」と言われて。当時の日本ではみんなそうでしたが、私も中学から英語の授業があり、それなりに勉強しましたが、留学前は大した英語力はなかったと思うのですよ。中学、高校と普通に教科書を読む程度の勉強で、学校の成績は常に五段階評価で「5」をもらっていた。だけど米国の大学生のレベルではなかったと思います。アメリカに留学するとなると、むこうの大学レベルといきなり競争するわけですから、私は相当勉強しなくてはいけなかった。留学が英語を真剣に勉強する一つの大きなきっかけになったと思うのですよ。リスニングも録音テープを使ってかなり勉強しました。

1987年撮影

――それは大学に行く前ですか?

金城:そう、留学する前。本もいろいろ読んだ。英語の小説を一冊ずつ熟読するようになったのは、この頃です。それまでは英語で何かを読むこともなく、まあ教科書を読むくらいしかできなかったのです。リスニングは、ミシガン州立大学がレッスン1から20までだったと思いますが、リスニング練習用教材を出していて、それが沖縄県の語学センター(Language Lab.)にあったわけ。その当時は琉球大学も語学センターも首里にあったのです。私は高校卒業後に1年間だけ琉大の英文科に在籍していたのですよ。受験に合格したのでね。それで、琉大の講義を受けた後、語学センターに寄って英語のリスニング練習をすることが多かったです。琉大に進学する前に、米国留学のための試験を受けていて、留学が決まっていたからです。実は、不思議なきっかけで私の留学は決まったのです。高校3年時のクラスメートから、沖縄県内の高校生などを対象とする米国留学生のための奨学金制度があるという話を聞いて、何気なく、私も一緒に申し込んでくれとお願いしたのです。だから、どういう手続きを経て何処で申し込んだのか、全くわからないままです。その人に言われるままに試験を受けに行ったのです。試験問題はたいしたことなくて、論文形式でした。質問の答えをパラパラと英語で書いて、答案用紙を提出しました。その後、はい、私は合格。友達は落ちた。そういうよくあるパターンとなり、友人には申し訳ないことしたなぁって思ったりします。つくづくね。私が受験しなければ彼女が合格したかもしれないのにと思ったりしてね。ちょっと気まずかった(笑)。

進路を決めるにあたり、何がきっかけになるか分からないですよね。当時、留学が決まった学生は、渡米する直前、語学センターで半年間、英語のレベルアップに向けたトレーニングコースを受けていました。午前中はネイティブのアメリカ人によるアメリカの歴史や文化・習慣に関する講義がありました。受講後、午後はフリーだったので、当時はちょっと真面目だったから、そのまま語学センターに残り、リスニングの教材テープを繰り返し聞きました。これをやっていなかったら、渡米後相当苦労したはずです。だって聞けなきゃどうしようもないじゃない?大学の講義はそれでもついていくのが大変で、相当勉強しました。薬学部に入っちゃったもんですから、元々は英文科志望だったのに。

――琉大の英文科ですか?

金城:そう。琉大の英文科に入って、将来的には留学するにしても、琉大で英語を教えようと思っていた。それが私の目標だったのですが、米国の大学に進学することが決まった時、何か資格を得たいと思って、薬学部に変更しました。英語で勉強するんだから、英語は身につくだろうと考えて。だから欲張った考え方だよね。それで薬学を専攻したのですが、勉強はいつも大変でした。薬学部の学生はみんな真面目に勉強するんですよ。でも、英文学科など他の文科系学部の学生って勉強しないで、大学生活を思い切り楽しんでいる人たちが圧倒的に多い感じでした。ですから、ちょこっと勉強したら全部Aを取れるのではないかなと思ったこともあります。薬学部の場合は、私だけが外国人であり、英語力でも追いつけなかった私にとって、クラスの中でトップグループに入るような成績を達成することは、とても困難な状況でした。だから彼らに追いつくために週末の土日や祝祭日に勉強するという習慣がその時に身についたのです。夏休みに少し時間がとれて、旅行など友人と遊びに行けたのが楽しい思い出です。長い休みがある時に少し遊びに行くくらいで、普段は全く遊びに行ったことなかったです。私の一生のなかで一番勉強した時期がこの4年間だと思うわ。本当に毎日が勉強だったから。沖縄にも帰らなかったしね。当時の私の年頃の学生(高校3年生)を米国へ留学させる場合、配置される大学はほぼ全員がハワイ大学だったと思います。そして、一年後に沖縄に帰省できるシステムになっていました。でも私が選んだのは薬学部で、ハワイ大学には薬学部がないために、アメリカ本土の大学に配置され、沖縄には帰れない上、必死に勉強せざるをえなかったと思うんですよね。最初の一年は慣れるのに必死でした。でも教養科目はそんなに難しくはなかったし、Dean’s List(成績優秀者名簿)に載ったこともあるくらいです。クラスメートの学生があまり勉強しなかったので、私でも、まあまあの成績が取れたのでしょう。

薬学部の一年生の時、同じ薬学部の学生と親しくなったのですが、ショックだったのは、彼女が授業中にとったノートが、完璧だったことです。そろそろ生理学、無機化学、有機化学など専門に近い科目をとるようになった時でしたが、その友人の書いたノートを見た時の衝撃は忘れられません。彼女はきちんとノートブックの行間を埋めるようにきれいな文章を書いていたのです。私たるや単語をちょこちょこと残しているだけで、後で見返しても何にも意味が分からない、情けない状態でした。

――ある意味、通訳的ですね。

金城:でしょう?今は絶対自信ある。例えば、話や講義の内容の9割近くは、メモにとれるかも知れない。そして、後になってメモを見ながらその内容を再生することもできると思います。それは4年間のアメリカでの大学生活を通して身につけたと思います。キーワードを取って聞きながら、文章でまとめきれるわけ。つまり言いたいことをrephraseしたりsummarizeしたりしながら。その力が大学で自然と身についたのかな?そうでないと多分そこそこの成績もとれなかったし、それどころか、恐らく落第して、卒業も危ぶまれたかもしれません。そういう状況だったから、必死にならざるを得なかったし、勉強に明け暮れる大学時代でした。それが何に活きたかっていうと、逐次通訳です。裁判所の通訳をするようになった当初、裁判に関する事前資料は何もなくて。起訴状のコピーすらもらえませんでした。ぶっつけ本番で、公判廷に臨み、耳に入る言葉をメモして、逐次通訳をしました。当時は全部逐次通訳でした。だからメモ力がないと無理だったと思います。被告人尋問にしたって結構長くなったりするじゃない。そういうのを全部メモって逐次通訳していたのです。

当時は本当に何も事前資料がもらえなかったのです。法廷に入る直前まで、事件の内容すらわかりませんでした。この日のこの時間に来てください、と電話で依頼され、駆けつけるという感じでした。最初は、殺人事件のような重大事件を担当することはなく、大麻事件が多かったかな。私が米国の薬学部を卒業していたから、そういう事件の通訳依頼が多いのだと思いました。大麻に関することでは、特に難しい発言もなかったように思います。但し、公判廷でいろんな関係者の名前が出てくるのですが、資料がないとこれが一番大変でした。何年か法廷通訳人として経験を積んだ頃になると、裁判の当日になれば起訴状はもらえるようになりました。しかし、論告も弁論も見たことない、証拠関係資料も見たことない状況が長年続きました。でもメモ力があったので何とかやりこなせていたのかなと思います。

私は1974年くらいからずっと裁判所のお仕事をしているのですが、裁判所で同時通訳が一部導入されたのが、今から20年、10年くらい前かな。書面に事前でもらえる場合は、原則同時でやりましょうということになったのです。私は全部逐次でやってほしい派だったのですが、迅速な裁判のために導入されました。同通となると、どうしても通訳人は事前準備にかなり時間をかけなきゃいけなくなるじゃない?でも事前に準備した時間は通訳料にまったく反映されないのです。逆に通訳している時間(労働時間)は短くなるから、通訳料は少なくなってしまうのです。おかしいと思いつつも、まあ仕方ないとやっているような感じでしょうか。私は書面をもらうと、同通であってもサイトラでこなす。いちいち全部翻訳していたら時間がいくらあっても足りない。他の仕事ができなくなっちゃうじゃない。それはちょっと納得いかないかなと思うので。なるべく最小限の単語だけを拾って書面に対訳を書いておき、あとはサイトラでこなすようにしているので、裁判所は続けてこられるのかなと思うのですよ。それでも、いまだに法廷通訳人に支払われる通訳料については、全くわかりません。沖縄にも通訳の仕事を頑張っている若い人たちはかなりいますが、裁判の通訳はストレスがかかるため敬遠されることが多いように思います。裁判所の通訳料がもう少し良ければ、他の通訳者にもっと声を掛けることができるのかなと思う。

――金城さんに恩師やメンターはいますか?

金城:通訳に関しては恩師と言える人はいないのですが、高校三年生の時の学級担任が英語の先生で、私が琉大に行こうか行くまいか思案していた頃、先生が米国に留学したのです。そこで、私がお願いして留学中の先生と英語で文通をするようになって、多分2年間くらい、続いたと思います。これが英語に自信を深めるきっかけになったのかもしれないし、また気持ちが米国留学に向くようになり、留学につながる一つのきっかけになったかもしれません。もちろん例の友人がいなければ受験していなかったわけですが。奨学金の給付を受けられなければ、アメリカの大学に進学することはなかったと思うのです。

――先ほどのお話ではアドベンチスト・メデイカルセンターで働き始めて通訳を始めたということですが、一番初めの仕事は何か覚えていますか?

金城:最初の仕事として、多分これだと言えるものは……”5-Day Plan to Stop Smoking” の遂次通訳です。5日間でタバコが止められるという趣旨の、一般の人達を対象とするプログラムがメディカルセンター (AMC)にありました。その中で、対象者を病院の講堂に集めていろいろな講義をしていました。その一つが、AMCの米国人医者による医療講話、つまり喫煙すると肺気腫や肺ガンになる確率が高くなるという話です。健康な人とタバコを長年吸った人の肺の写真を見せるのですが、結構インパクトのある写真でした。そして、医者の通訳は、当時はもっぱら私が担当していました。ですから、AMCの医者並びに病院付き牧師(チャプレン)と一緒に沖縄県内の中学・高校を訪問し、例の写真を見せながら喫煙の怖さを説明した時の英日逐次通訳を担当しました。このように5-Day Planの中で医者の話を逐次通訳したのが、人前でやった最初の通訳かなと思います。また、すでに話したように、AMCの毎朝の礼拝で、外国人が講壇で話す時は逐次通訳し、それ以外の時はウイスパリングで対応するということもありました。AMCで働き始めた時は、通訳ではなくて、薬剤師として勤務していたのですが、依頼されて通訳するのは全然嫌いではなかったです。

元々英語の先生になりたかったのです。少なくとも、大学進学前までは、そう思っていました。ですから、英語を勉強するのも好きだったし、誰かに英語を教えたい気持ちもどこかにあったのです。だからAMCで一部の従業員に頼まれて、英会話のレッスンをやったこともあります。何しろ、当時のAMC勤務医は、日本語は全然できないので、日本人従業員に英会話能力を身に着けて欲しいと願う雰囲気が院内にはありましたので。英会話のレッスンも通訳の仕事も嫌と思ったことないですね。通訳は緊張はするけど私にとってはいい緊張感でした。

――今まで辞めたいと思ったこと一度もないのですか。

金城:嫌だなというか、一生懸命通訳しても誰も聞いてくれない場合は、通訳をするやりがいがないですよね。国際会議で誰も受信機のイヤホンをつけていない時などは、私は誰のために通訳しているの?とか思うものです。またレセプションの通訳の時に、挨拶などほとんど誰も聞いていないことがあります。あっちこっちでみんなが勝手に盛り上がっているわけですよ。そういうときの通訳は好きじゃなかったな。私も一生懸命やっているので聞いてください、と言う感じの気持ちの方が強くて。

本当に嫌だなというより辛いなと思ったことが一回だけ、あるかもしれません。裁判の通訳ですが、例の少女暴行事件の時です。あの裁判は一人で法廷通訳を担当し、迅速な裁判を目指して、3か月くらいで地裁の手続きは終了しました。週一、二回の短いサイクルで当該事件の公判廷での通訳をこなしました。朝10時から夕方の7時前まで通訳したこともありました。被告人が3人いて、それぞれに弁護士がついていました。アメリカからは各被告人の母親が支援に駆けつけたのですが、その親が弁護士を通じて裁判所にいろいろと要求したこともあります。私にとって最も辛かったのは被害者がまだ幼い少女だったということです。被告人尋問の際、レイプ事件現場における具体的な質問が繰り返されました。あのときどうだったか、こうだったのか、何をした、それでどうしたか、等と。複数の被告人が法廷で裁かれる場合ありがちなのですが、お互いに責任のなすりあいをすることもありました。それ以上に被害者の女性に対するリスペクトがないような発言が出た時には辛かったですね。

あの裁判の時は決して許されない犯罪だと女性として思いました。その事件の被害者には、本当に何も落ち度や罪はなかったと思います。夜遅く徘徊していたわけでもなく、知らない人に誘われてついていったわけでもありませんでした。普通にちょっと夕方明るい時間に買い物に行き、途中の道でさらわれた、という事件でした。しかもあんな屈強な軍人に、幼い少女は何も抵抗できないような状況で連れ去られたのです。しかも加害者は3人ですよ。被告人質問の中で、被告人の気持ち、こういう風にしてこういう気持ちで女性を探していただの、実際に現場でこういうことをしているときに、ああだったのこうだったのと聞くのも、通訳するのも辛かったです。それ以外の事件の法廷通訳をやっている時は適度の緊張感と達成感を感じることが多いものです。ある分野の専門家による講演会の通訳の場合、「そうなんだ!」と、仕事しながら新しい知識を得ることもあり、好奇心や探求心を刺激されます。このようにいつもは楽しんで通訳することが多いのですが、あの事件の場合は唯一といってもいいくらい、精神的にとても辛かった裁判での通訳でした。

(続く)


金城初美(きんじょう はつみ)

法廷通訳人、琉球大学講師、薬剤師。本土返還後の沖縄を一手に支えてきたベテラン通訳者。特に那覇地方裁判所では40年以上も外国人事件の通訳を担当している。現在も県内外の国際会議等で活躍中。