【第3回】フランスとレイシズム「フランスとイスラエル–パレスチナ問題」

 みなさま、こんにちは。この連載はフランスにおけるレイシズムの問題を扱うものですが、今回は、事態の緊急性という事情もあり、現在起きているイスラエル–パレスチナ問題(あるいはパレスチナ人ジェノサイド)とフランスの状況についてコメントします。以下、本文です。


10月7日、パレスチナの武装組織ハマスによるイスラエルへの大規模攻撃に対して、イスラエルはガザ空爆という形で応じ、いまやこれは3万人以上ものパレスチナ人犠牲者を数える大虐殺(ジェノサイド)へと発展している。この文章を書いている現在もそれは進行中だ。

 その凄惨さはもはや筆舌に尽くし難い。だが、それに加えて私たちをさらに恐怖させるのは、欧米諸国によるこの虐殺への黙認だ。もちろん、誰しもが黙っているわけではない。世界中いたるところで多くの市民たちが怒り悲しみ、抗議活動を行なっている。しかしアメリカと西洋の旧帝国主義国家の政府たち(ここに日本も含んでもよいだろう)は、この虐殺を止めるためにいまだに有効な手段をとろうとしていない。それは端的に言って、虐殺への加担である。20世紀以降における数々のジェノサイドの歴史––ドイツ帝国によるヘロロの人々の虐殺(1904-1908)、オットーマン帝国におけるアルメリア人虐殺(1915-1916)、ルワンダにおけるツチ族虐殺(1994)、そしてもちろんナチスドイツによるユダヤ人虐殺––を経たあとでなお、これらの歴史から何も学ばなかったかのように、パレスチナ人たちへのジェノサイドが白昼堂々と、他国政府の暗黙の同意のもとで行われているのだ。この事実が私たちを恐れさせ、かてて加えてパレスチナの人々を更なる絶望へと追いやっているのである。

 ド・ゴールからシラクまで、かつてフランスは「パレスチナの友人」とさえ呼ばれるほど中東外交においては独自の立場をとっていた。だが、サルコジ以降はアメリカに追随するだけの国になってしまった。今回も、政府は早々にイスラエルの無条件支持を表明し、ハマスによる攻撃もイスラエルによる植民地主義の結果とは見ず、イスラエル軍の攻撃をアメリカが始めた対イスラム−テロリズム戦争の一種として捉えている。またこの事態を「イスラエル–ハマス戦争」と銘打って封じ続けるメディアの問題も深刻だ。万単位での民間人犠牲者と避難民がでているこの状況で、いまだにこれが、ハマスだけを標的とした「戦争」であると言うのには、あまりにも無理があるだろう。しかしフランスの政府閣僚や親イスラエルの知識人たちはこれがイスラエルの「正当防衛」であると平気で述べたり、彼らはハマスと違って「わざと」子どもを狙っているのではないと弁護したりしている。逆に、イスラエルを批判したりパレスチナの側に立ったりするような姿勢を見せれば、テロリズムの擁護者とみなされるありさまだ。

 なぜフランスにおいてイスラエルの批判はこれほど困難になっているのか?その要因はいくつかあるが、その根本的な原因は、反アラブ人のレイシズムにあるように思われる。ガザにおけるイスラエルの戦略がそれを物語っている。電気や水道の供給の遮断、病院や教育機関の破壊、衛生環境の悪化と病気の蔓延、飢餓状態、要するに住民たちをその場所で生存不可能にすること。また、ただ殺害するだけではなく、衣服を脱がせ拘束するなどして辱めを与えること。これらすべては、パレスチナ人たちを同じ人間として扱わないレイシズムの表出である。そもそもイスラエルの防衛大臣からして、パレスチナ人を「人間のような動物」と形容し、ガザを一掃すると宣言してさえいる。パレスチナ人たちは非人間であると、イスラエル人たち自身が公言しているのだ。他者を人間の範疇から除外して動物化することはレイシズムの本質を成すものである。いま起きていることは、人種化されたパレスチナ人たちを標的とした公然たるジェノサイドとみなすべきものだ。

 実際、あまりこのような想像はしたくもないが、いま虐殺され続けている人々がユダヤ人であったなら、欧米諸国の反応はまったく違うものであっただろう。それはこれらの国々が、学校や記念館など公的教育を通じてナチスによるユダヤ人ジェノサイドの歴史をある程度まで共有し、かつそれを絶対的な悪として認識しているからである。それはヨーロッパでも最大規模のユダヤ人人口を抱えるフランスでも同様であり、反ユダヤ(反セム)主義的発言はそれだけで処罰され、社会的地位を失う可能性がある。ユダヤ人差別は共通のタブーなのだ。だが、アラブ人差別はどうだろうか? フランスにおいてアラブ人はしばしばイスラムと同一視されて語られるが、アラブ人–イスラムに対する差別は処罰どころか、そもそもそのような差別など存在しない、「想像上の差別」だと言われ、大学などでそれをテーマとした研究さえも難しくなっている。公共空間からのイスラムの排除は差別ではなく「ライシテ」あるいは世俗主義の問題とされる(本連載第二回参照)。けれども、本連載の初回でも見たように、警察の暴力に象徴されるような反アラブのレイシズムはたしかに存在する。問題は、多くのフランス人たちがそのような問題があると認めたがらないことにある。

 イスラエル人がパレスチナ人に対して行なっていることと、フランスで旧植民地(北アフリカ、とりわけアルジェリア)をルーツに持つ人々の身に起きていることは、アラブ人に対するレイシズムという点において、根はつながっているように思う。実際、このことも初回で主張したように、フランスでアラブ人たちがこれほど差別的扱いを受ける背景にも、植民地主義の歴史がある。とくにアルジェリアは、フランス人たちがそこに集団的に移住していた入植植民地であった。この点においてその歴史は、入植植民地主義であるイスラエルの政治と類似点がある。例えば今回のハマスの攻撃から大虐殺へと至る一連の流れから、1945年5月にアルジェリアの街セティフで起きた事件を想起した人々もいる。そのとき、デモで一人の若者が射殺されたことをきっかけにアルジェリア人たちが蜂起し、100人以上のヨーロッパ人入植者たちを残虐な手法で殺害し、女性たちは強姦された。それに引き続いてフランス軍によるアルジェリア人たちの大虐殺が行われたのだ。たとえハマスの行為自体が擁護できるものではないとしても、こうした歴史を踏まえるなら、少なくとも、フランス人たちは今回のハマスの攻撃をイスラムのテロリズムへと短絡させるようなことはしなかっただろう。だがそうするにはフランスは、シャルリー・エブド社襲撃事件をはじめとする数々の衝撃的なテロ事件を経て、あまりにも、アメリカが作り上げた対テロ戦争の図式に既に浸かりすぎていた。このような状態では、パレスチナで起きていることについて、歴史的経緯を踏まえながら正確に把握することなどほとんど不可能なのであった。実際、イスラエルによる政策が植民地主義であり、かつての南アフリカのようなアパルトヘイト(人種隔離政策)であるというこの明白な事実を指摘することさえ、しばしば困難となる。そうした指摘は、イスラエル支持の人々からは同国への不当な批判とみなされ、ユダヤ人国家壊滅を目論んでいるだとか、「反ユダヤ主義」とまで言われるのだ。

結局のところ、これは日本にも言えることだが、自分たちの過去の植民地主義がもたらした問題に真っ向から向き合えていない状態では、他者が抱える類似の問題にもまた向き合えないということなのだろう。フランス政府は、イスラエルを正面から批判できない自分たちの消極的態度がこの最悪の事態に拍車をかけていることを自覚し、直ちにそれを改めるべきだ。この歴史的大惨事を前に、私たちは、イスラエルの蛮行だけではなく、それに加担している人々のことも許してはならない。

2023年10月23日パリでのパレスチナ連帯デモ
©︎Laure Boyer/ Hans Lucas via AFP

参考文献

Benoît Bréville, « Un renoncement français », Le Monde diplomatique, novembre 2023.

Didier Fassin, « La non-reconnaissance de la qualité d’êtres humains à ceux qu’on veut éliminer est le prélude aux pires violences », Le Monde, le 18 octobre 2023.

Alain Gresh, « Barbares et civilisés », Le Monde diplomatique, novembre 2023.

Kaoutar Harchi et Joseph Andras, « Un nettoyage ethnique en Palestine », Frustration, le 17 octobre 2023.


須納瀬淳(すのせ・じゅん)

1986年生まれ。研究テーマは歴史認識論、植民地主義と資本主義の暴力(レイシズムとセ
クシズム)について。たまに雑誌や新聞などに寄稿。音楽(と映画と文学)が好き。いつで
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