【第9回】大手を振って中道を行く−できない私の通訳雑談「大学院でサバイバル!の巻②」

新型コロナウイルス 、ますます大変な状況になっています。

実は先日、母と娘と共同で東京に小さな1LDKのマンションを買いました。その引き渡しが4月末にあり、当日は司法書士の前で諸々の書類に署名をしなければなりません。先月オーストラリアでこのコラムを書いていた時は、世界の中心から遠く離れたオーストラリアにコロナの影響はありませんでした。まだ夏の余韻があり、暖かい日にはビーチに人が大勢押し寄せていましたし、レストランやカフェ、スポーツジムも普通に営業していました。それがある日突然、海外からの渡航者全員に対して14日間の自主検疫 (self quarantine、これはその後自主隔離 self isolationに格上げされました)が課されました。その数日後にはバイオセキュリティ上の非常事態宣言(human biosecurity emergency)が発出され、全世界を対象に「渡航禁止勧告(Do Not Travel)」、その翌日には全世界を対象に国民と永住者以外の入国禁止措置を発出されたのです。

1週間くらい前までは中国やイランからの入国禁止以外、まったく何の規制もなかったのに、まさに急展開の決定です。事実上の国境封鎖が発表された当日、オーストラリアの主要航空会社2社のひとつであるVirgin Australiaが6月半ばまでの国際便全便運休を発表しました。翌日は、最大手のカンタスも同様に4月から5月末までの国際便全便運休を決定しました。つまり、私は日本に変える足(いや翼か!?)をなくすことになってしまったのです。これでは、マンションの引き渡しに伴う法的手続きができません。そこで予約済みの4月後半のフライトを急遽キャンセルし、当時はまだ細々と残っていた日豪両国での仕事との兼ね合いを考えつつ、3月のできるだけ遅い時期にフライトを変更することにしました。ところがどっこい、4月からの運休とはいえ、すでに乗客数が限りなく減少し存続の危機に立たされている航空会社は、かなり手強い相手になっています。国際線運休の発表と同時に全社員の80%くらいをstand-down(一時帰休)させるくらいですから、なりふり構わずの体制です。予約変更も、オンラインでは既に不可となっていたため超スーパー混雑状態のコールセンターに電話なければなりませんでした。コールセンターでは、最初日本への最終便だと説明され、予約しようとした3月27日のフライトは、なんと変更処理中に運休となり、最終便は25日に繰り上げ。その後、この便もキャンセルとなり24日の便をようやく確定することができました。

ところで、非常事態宣言から帰国までは1週間弱あったのですが、この間も、社会活動の制限があれよあれよという間に強化されていきました。生活に必須の活動(essential activities)以外はあらゆるものが制限の対象となりましたが、最も急速に進んだのがsocial distancingつまり日本でもおなじみになった社会的距離です。社会的距離は1.5メートルに設定されました。当初は「屋内における100人以上の集会は禁止」だったものが、1人あたり4平米の距離を設けるということになり、そしてその数日後には屋外での集会は2人以下(同居家族は別)にまで厳格化されました。はっきり言って当初の集会の制限はユルユルで、施行直後の週末にお天気が良かったこともあり、シドニーのビーチに人々が大挙して押しかけ芋の子洗いになる、なんてことがありました。これを問題視した政府が急遽、規制強化に踏み切りました。レストランやバーは当然ながら全て休業で、営業が許されるのはお持ち帰りのみ。空港のラウンジも閉鎖です(涙)。高齢者施設への訪問は、特に厳しく制限されました。ただ不思議なことに、美容室や床屋さんなんかは営業が制限されませんでした。

オーストラリアは基本的に大らかなお国柄です。規制が始まった当初はかなりテキトーさが目立っていました。確かに不安感から買い占め(panic buy/ hoarding) が起こり、トイレットペーパーやパスタ、コメ、小麦粉はスーパーから消えましたが、それ以外はビーチの例に見られるように、大きな行動変容は見られませんでした。バーやレストランでお酒や食事を楽しんでいた人たちは、行動ではなく単に場所を変え、日本のお花見のように公園に繰り出して大勢で飲み会をしたり、自宅でパーティを開いたりしていました。とはいえ、規制開始後1週間もすぎると、社会的距離はすっかり板につき、人々は事態の深刻さと自らの責任を自覚するようになりました。これは政府が、「同じメッセージを繰り返し伝える」ということを徹底し始めたためだと思います。

決まり文句は「Stay at home, or people will die」。「外出するな、さもなくば犠牲者が出る」とは、かなりヘビーなメッセージですが、今年の流行語大賞に選びたくなるようなリズム感とインパクトがあります。オーストラリアでも規制開始前後は、政治家や医療専門家がメディアや公の場でバラバラなことを言っていましたが、バラバラなベクトルは意識的に修正され、公的なメッセージをかなり厳格にコントロールするようになりました。そしてこの「Stay at home, or people will die」があらゆる場面で繰り返されるようになったのです。

このコラムを書いている今、日本政府がやっと緊急事態宣言を出し、対象となる都府県レベルでの対応が始まったところです。ただ、この動きは後手後手に見えて仕方ありません。今の東京は、非常事態宣言が発出された頃のオーストラリアと全く同じような状態です。そんな中で東京では居酒屋などの外食が認められています。これは国の財政状況を考えると分からなくもないですが、個人レベルでコントロールできる社会的距離も全く持って徹底されていません。社会的距離がどのくらいか不明ですよね。近所のスーパーではレジ待ちのために、床面に1メートル弱ごとにシールが貼ってあります。手を伸ばせば前の人の背中がさわれます。許容される集会の規模(人数とか)も明確ではありません。ママと子供たちの集い(play date)もバンバン行われています。オーストラリアは厳格な社会活動の制限を急速に実施してきましたが、対策が始まって3週間がたった今、明確にその効果が出始めています。目標としていた流行曲線の平坦化(flattening the curve)が綺麗に描かれ始めているのです。法的に規制できなくても、必要なことを具体的に(社会的距離が何メートルだとか、集会では何平米で何人までだとか)伝えれば、真面目な日本人はできるはず!ここは日本も一発、底力を見せたいところです。

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→さて、前置きはもういいよ、という方はここからどうぞ。

前回はオーストラリアの大学院に入り、理論の授業を受け始めたところからお話ししました。大学院はかなりアカデミックなところですから、通訳を学科として成立させるためには、理論の授業をかなり多く組み込む必要があるのだろうと思います。ただ体育会系で、「通訳の練習をガンガンやりたいの〜」としか考えない私には、理論の授業は忍耐の時間でしかありませんでした。そんな中で理論以上の苦痛を感じていた授業があります。それがスピーチのクラスです。スピーチのクラスでは、毎週テーマに沿って短いスピーチを英語と日本語で作成し、クラスの前で発表します。スピーチの長さは英語にして200ワードぐらいだったと思います。A4の紙だと3分の2ページぐらいの長さでした。つまり大した量ではないのです。テーマは、授賞式や結婚式、送別会の挨拶といった具合で、決してリサーチに時間がとられて困るようなテクニカルな内容ではありません。何が難しいか。ズバリ緊張です。

今となっては、面の皮が100万倍くらい厚くなっているので「屁の河童よ」って感じかもしれませんが、人前で話した経験が皆無に近かったあの頃は、たとえクラスメートであっても、人前でのスピーチは想像するだけでお腹が緩くなるような苦行でした。友人はほとんど独身で(今もだけど)、結婚式といえばバツイチの弟の式に出席したぐらい。クラスの前で先生に褒められたこともなければ(もちろん、職員室で叱られたことは何度もありますが)、小学校の時に市の詩のコンクールで準特選に選ばれて以来、授賞式に出たこともありません。卒業式も成人式もパスしました。つまり、人前で脚光を浴びて語るという行為をしたことがないのです。人前で話した経験がないということは、何を話せばいいのか考えたこともないということを意味します。よく受賞者のインタビューなんかで、「いやー昨日は受賞者インタビューで何を語るか考えていたら、寝られなくなりました」とか言っていますよね。人前で話す内容を考えるというのは、寝られないくらい大変なことなのです。授賞式でインタビューされるくらいの「人生勝ち組」の人にとっても大変なことを、未経験の私がそう簡単に出来るものではありません。ましてや関西人の私です。人前で話すなら、必ず笑いの一つや二つは取らなきゃいけない。そんな事を考えていると、さらに負担が大きくなり、スピーチ原稿の筆はまったくもって進みません。

もう一つの問題は「スピーチ」が何かということを学んだことがなかったので、原稿の書き方もわからなかったことです。授業では、原稿をそのまま読み位あげる方法や、要約やヒントを書き込んだpalm card(カンペ)利用する方法、丸暗記、アドリブなど、スピーチの仕方には色々な方法があるということを教わりましたが、スピーチの組み立て方など、理論的なことは詳しく教わりませんでした。授業では、こういった種々の方法に倣って、最初は原稿を持ち込んでのスピーチ、しばらくするとパームカードのみ持ち込み可、そして丸暗記、というふうにどんどん難易度が上がっていきました。私は当時、シングルマザーの貧乏学生生活をしていたので、当然自家用車もお金もないので、週末に子供と遠出をすることもできません。そこで毎週シティにあるSouth Bankという巨大な公園に娘を連れて行き、遊ばせていました。スピーチの授業があった頃は毎週末、娘を放し飼い、いや遊ばせながらスピーチの暗記に没頭していたことを覚えています。South Bankからの帰路も、娘の手を引いてスピーチを何度も繰り返していました。

このスピーチのクラス、私は「苦痛」以外に何も学ぶことができなかったのですが、当時のクラスメート達にとってはとても楽しい授業だったようです。「私はスピーチのクラスが一番好き」などと豪語するオーストラリア人のクラスメートすらいました。今から思うと、スピーチを自分たちで考えることで、スピーチの典型的な構成に対する考察を深めたり、決まり文句のパターンを覚えたりと、色々なことが出来たのだろうと思います。壇上で通訳をする時のデリバリーのあり方や姿勢なども学べたかもしれません。残念ながら、当時の私は一杯一杯だったので大局的に授業の目的を理解する能力はありませんでしたが、同級生たちは多くを学んでいたようでした。

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さて次回は続きからお届けします。


エバレット千尋

フリーランス通訳。オーストラリアのモナッシュ大学大学院で通訳翻訳の講師を務める傍ら、一年に10回以上日本とオーストラリアを往復し、日豪両国で医療、医薬、金融、IT、その他幅広い分野で活動中。高校時代は、受験に主眼を置いた日本の悪しき英語教育の中で脱落し、英語への関心がゼロに失墜。その後、美術学校時代に一人旅をしたインドで「コミュニケーション」としての英語に目覚める。NOVAやECCで英語の基礎を学び、インタースクールで通訳訓練を受けた後、クイーンズランド大学大学院に留学。日本語通訳翻訳学科での修士課程を経て通訳デビュー。英大手通信会社で社内通訳を経験し、フリーとして独立。2007年にオーストラリアに移住。一年の3分の1を東京で過ごすが、心は関西人。街で関西弁を聞くと、フラっとついて行きそうになる。京都市生まれ。