【第2回】大手を振って中道を行く−できない私の通訳雑談「英会話はNOVAで!編」

“Awww! Looks like he’s done an ACL! Another year is gone for him…”

私は仕事の中心は東京なのですが、自宅はオーストラリアのビクトリア州メルボルンにあります。メルボルンはオーストラリア大陸(世界一大きな島!という人もいますが)の南の端に位置し、緯度は仙台と同じくらいで、南極からの「南風」がびゅんびゅん直撃し「1日に四季がある」と言われるほど天気がコロコロ変わる街です。ご存知の方は少ないかと思いますが、そんなメルボルンは「オーストラリアン・フットボール」の誕生の地です。オーストラリアには複数の「フットボール (football codes)」があり、rugby union, rugby league, association football (サッカー)Australian rules footballなどが人気ですが、プロリーグがあるのは Super Rugby (rugby union)、Rugby League、A-league (soccer) そしてAFL (Australian rules football) で、中でもメルボルンでは「フッティ」と呼ばれるAFLが圧倒的な人気です。3月から9月までのシーズン中は、試合がある週末を中心にほぼ全てのメディアがフッティ一色になり、9月末に開催されるグランドファイナルの前日を州民の休日にしてしまうほどのフッティ好きです。私にように外からメルボルンに来た者は、まずサポート(barrack)するチームを決めるよう、厳しくアドバイスされます。ちなみに私のチームはSydney Swansです。Go Swans!!!

さて、冒頭の「ACL」の話に戻りますが、皆さん前十字靭帯ってご存知でしょうか?ひざ関節の前側で大腿骨と脛骨を繋いでいる靭帯なのですが、フッティなどスピードや激しいコンタクトスポーツでは断裂することも多く、フッティではどのチームでもACLで手術を受け、長期負傷者リストに入っている選手がいます。I’ve done my ACL”というと、こちらでは小学生の子供も”Oh No…”とすぐに反応するくらい良く知られている障害です。日本ではサッカー選手などで多い負傷じゃないでしょうか。断裂すると基本的には手術が必要で、復帰には1年以上を要します。

そろそろ「なぜACLなの?話が見えねーよ」と思われている方も多いでしょう。実は、今タイプをパチパチ打っている私の傍には、10日ほど前にACLの手術をしたドッグが寝ています。うちのドッグは11歳になるラブラドールなのですが、ついに先週ACL(ちなみに犬ではCCL/ cranial cruciate ligamentともいうそうです)断裂をしてしまいました。今から思うと、4、5年前からボール遊びをしたり走ったりした後に足を少し引きずるような仕草を見せることがあったので、部分的に損傷していたのかもしれません。それがついにブチっと切れてしまったようです。犬もACL断裂は予後が良くないので外科的処置が必要になります。ただし靭帯の再建術ではなく、一般的にはTPLO(Tibial plateau leveling osteotomy)という「脛骨のてっぺんをカットして回転させてプレートで固定する」手術が行われます。一般的な手術とはいえ、全身麻酔(GA)や骨切り(osteotomy)を伴う結構な大手術(major surgery)になるので、1週間は自宅で絶対安静(forced confinement)が必要となり、歩くのもトイレ(elimination)以外はダメ。今は縫合部をなめなめしないように装着しているエリザベスカラー(cone of shame, E-collar)にもすっかり慣れ元気を取り戻してきたドッグですが、術後3日間は鎮静剤が切れるとクーンクーンと哀れな声で泣き続けていました。日夜問わず3時間ごとにクーンクーンと大泣きするドッグの介護、巨額の手術代、そしてシーズン開始以来連敗中のSydney Swansのために、私も涙が止まりませんでした。

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さて、長々とした前置きになりましたが、今回はタイトルにあるようにデキない私が最初に飛び込んだ英語トレーニングの世界をご紹介したいと思います。

インドで「英語はコミュニケーションツール」と目覚めたのはいいのですが、日本に帰ると現実社会が待っています。私には就職が待ち構えていました。とはいえ、私はアーチストになるつもりでしたので、昼間テキトーに会社に行くだけでお金がもらえて、夕方からは有意義に絵を描くことができるなら、どんな仕事でもいいと思っていました。そこで、先生から最初に紹介された会社で面接を受け、そのまま何も考えずに就職しました。しかし現実はそんなに甘くありません。いざ就職すると中々プライベートな時間は持てないのです。いや、もしかすると同僚や先輩と毎日のように角打ち(酒屋の一角でそのまま飲むこと。コンビニでコンビニ弁当食べるみたいな感じですね)をし、人生談義に忙しかったので時間がなかっただけかもしれません。それでも「こんなことではいけない、このままではアーティストになる時間がない!」と、半年そこそこで一念発起し、冬のボーナスをもらうとすぐに退職しました。これで、絵を描くための時間を確保することができたのです。しかし社会人として無職というのは良くありません。何より親が許してくれません。そこで手っ取り早く短時間でお金が稼げて、かつクリエイティブな時間を十分にもてるバイトを探すことにしました。時給は少なくとも二千円くらい欲しい。ただそうなると、お水のバイトか予備校の講師くらいしかありません。お水は夜の商売ですが、クリエイティブな作業は夜が一番ノッてくる時間帯なので本末転倒になってしまいます。何よりも夜は遊びに行きたい。予備校の講師は、受験勉強をまともにやっていないので、これまた無理です。「あー良いバイトないなー」と思っていると、一つありました。80年代当時、雨後の筍とのようにわんさか出てきた英会話スクールの講師です。募集要項には条件が色々ありましたが、ネックとなる「大卒」の文字はありませんでした。英会話スクールの講師だと時給二千円程度は(きっと)もらえます。「英語はコミュニケーションツール」と悟っている私ですから、英語へのワクワクする気持ちを他の人にも伝えられるはずです。何よりも、日本にいながらにして色々な文化背景を持つ人たちと日々接触し、さながら海外旅行のような気分になるのは楽しいに違いありません。もしかしたら素敵な出会いだってあるかもしれません。

この思い込みが英語学習、そして後の通訳への第一歩となりました。

楽しい楽しいNOVA!

大卒資格は要求されないとしても、英語能力が高くなければ英会話スクールの講師にはなれません。そこで、まず英語力を磨くべく英会話スクールに通うことにしました。当時京都でメジャーだったのはECC英会話スクール、バイリンガル、そしてNOVAでした。資金もないので選択基準は授業料です。このうちのバイリンガルは、学校の説明を聞きに訪問すると、問答無用で個室に閉じ込められ、「ピンクのリボンであなたと世界を結ぶバイリンガル!」というプロモーションビデオを延々と見せられることになりました。ピンクのリボンからやっと解放され、教えてもらった授業料は、なんと1回五千円(くらいだったと思う)と、ちょっと手が届かない金額でした。ECCは老舗の「学校」的な感じで、初級レベルは日本人講師が担当するということと、学期が半年ごとで授業料もそれなりの金額であったため却下でした。最後のNOVAはフレンドリーかつ講師は全て外人♡、しかもチケット制で、100回分の回数券を購入すると、(うろ覚えですが)一回千円ちょっとのお買い得品でした。また回数券を購入すると「サロン」という、外国人講師とのおしゃべりスペースにもアクセス可能になります。サロンは、スクールの一角に設置された、ちょうど美容院の待合室のような空間で、常に1名ネイティブの講師が配置され、自由に生徒とおしゃべりをするというものでした。(ちなみに、外人講師と生徒がサロンでおしゃべりに興じている姿を見たことはありません。英語に自信がない恥ずかしがり屋の日本人にはキツイですよねー。)

さて、そんなNOVAに通うことを決めた私ですが、かっこいい外人講師と楽しく交流する前にはまずレベルチェックを受けなければいけません。内容はすっかり忘れましたが、結果は7Bでした。当時NOVAのレベルは1から7までのレベルがあり、最も低いレベルの7はさらにA、B、Cの3段階に細分化されていました。つまり、7Bは下から2番目のレベルで、まさに私の「じすいずあっぺん」限定の英語能力を反映していたわけです。中学生以下のレベルと評価されたとはいえ、想定の範囲内ですからショックでもなんでもありません。早速最初のレッスンを予約し、「人生の新たな門出」とばかりに、意気揚々と帰宅しました。

NOVAのレッスンはいくつか良い点がありました。

まず、「講師は全員が外国人」というところです。しかも20代から30代くらいの若者の講師が多く、自分と同世代ですから友達感覚で色々おしゃべりできます(もちろん身振り手振りで)。

そして「クラスは最大3人まで」となっており、1コマ1時間の授業時間のうち最大20分くらいは自分のための時間となるわけです。自由予約制ですので来校するたびに次のコマを予約するのですが、1クラス最大3名とはいえ世間の人々が働いている昼間はガラガラです。1コマに生徒が3人集まることは非常に稀で、父の会社でテキトーなバイトしかしていなかった私は、ほぼマンツーマンで昼間の授業を満喫することができました。

最後が「教科書に沿った授業」という点です。当時の教科書は一般書店の洋書セクションで売っているような教科書で(残念ながら、名前は忘れてしまいました)、毎回授業に行くたびに講師がどこをやるか決めて進めます。教科書を購入する必要はなかったのですが、私は予習復習用に書店で一冊購入し、影ベンに勤しんでいました。

私が通っていた頃のNOVAは、外国人講師への給料未払い問題や経営破綻に至る前で、良く言えば全てが自由奔放、悪く言えば「チケット売り切りでフォローなし」のビジネスモデルでした。講師もお友達感覚で近づきやすいのですが、基本的にクラスの準備はしてきません。時には明らかに「昨日の酒がまだ残ってるよね?」的な講師もいました。ただ、こちらも英語学の権威から理論を教わりにきているわけではありません。片言の英語で必死に伝えようとする私のメンタルサポートとなり、あらためて「英語ってコミュニケーションツールなんだ!」と認識させてくれる講師たち、そしてその「なんちゃって」講師たちを放任主義で自由にさせていた当時のNOVAは、私の英会話学習の大きな支えとなってくれました。もし最初から教授法がキッチリと確立された保守正統派の学校に通っていたら、自分ができないという事実ばかりを認識させられ、短期間で挫折していたかもしれません。NOVAでは、明らかに講師未経験だと思える人たち、ワーホリ気分で教えているような人たちが多くいました。そういった講師たちは毎日楽しく過ごすこと、そして日本での生活を満喫することを最優先にしています。授業も楽しく過ごせればいいのです。また彼らは頻繁にプライベートなパーティを開いたりするのですが、そんな機会に私たち生徒も誘ってくれました。そういった私的な交流が、授業で学んだことをすぐ活用する機会を与えてくれ、私はどんどん英語が楽しくて仕方ない状態になっていきました。

NOVA の限界@中級レベル

さて、英語を学び始めた当初の目的は「英語を教える高給バイトで、絵を描く時間と資力を確保する」というものでした。それが、ここに来て英語にのめり込み始めてしまったのです。「外人のカッコいいお兄さん達ともっと会話したい。できれば外人の彼氏を作って楽しく英語をマスターしたい」という野望もどんどん膨らんできました。最初は7Bだったレベルもトントン拍子で進級し、レベル5まで到達しました。レベル5はいわゆる中級レベルです。このレベルになると、バックパッカーの楽しい兄ちゃんばかりじゃなく、有資格の真面目な講師も登場してきます。そんな真面目な講師たちは、辞書を引かないと(引いても)私には理解不可能な新聞記事や時事問題をいきなりクラスで取り上げたりするのです。先生たちの志が高かったのかもしれません。でも私にはムリムリムリです。消化不良で終わってしまうだけでした。中級レベルは、クラスを受講しているだけでは英語力が伸び難くなる段階なのかもしれません。「もっと上手になりたい。でもNOVAの授業だけだとダメかもしれない。真面目に机上で勉強しないといけないのかも」と感じるようになりました。

そこで私は、100回分のチケットを使い切った時点で意を決しNOVAでの受講を終了することにしました。父の会社でのテキトーなバイトを辞め、絵筆も一旦片付けました。そして1年間、全日制の英会話専門学校に通うことにしました。マルチタスキングが苦手な私は、二足の草鞋を履くことはできません。とにかく集中的に英語だけを勉強することにしたのです。

次回は「通訳になりたい!?ECCのスパルタ教育」をテーマに、真面目な英語の勉強と通訳訓練に至るまでをお話ししたいと思います。


エバレット千尋

フリーランス通訳。オーストラリアのモナッシュ大学大学院で通訳翻訳の講師を務める傍ら、一年に10回以上日本とオーストラリアを往復し、日豪両国で医療、医薬、金融、IT、その他幅広い分野で活動中。高校時代は、受験に主眼を置いた日本の悪しき英語教育の中で脱落し、英語への関心がゼロに失墜。その後、美術学校時代に一人旅をしたインドで「コミュニケーション」としての英語に目覚める。NOVAやECCで英語の基礎を学び、インタースクールで通訳訓練を受けた後、クイーンズランド大学大学院に留学。日本語通訳翻訳学科での修士課程を経て通訳デビュー。英大手通信会社で社内通訳を経験し、フリーとして独立。2007年にオーストラリアに移住。一年の3分の1を東京で過ごすが、心は関西人。街で関西弁を聞くと、フラっとついて行きそうになる。京都市生まれ。