【第1回】大手を振って中道を行く−できない私の通訳雑談「インドが私の人生を変えた編」

「ううう…始めなければ。ジム三昧で遊んでいる場合ではない。今始めないとやばいことになる。」

こんな思いを、この数週間ずっと抱えていました。今回コラムを書くにあたっては、昨年から担当の方にお願いして、できない私でも何とかなるお題目を受け入れていただき、こんなところでおこがましくもコラムを書くことになったのですが、実は私、物を書くことや作文を、超々スーパーに不得意としております。今でも小学校の頃の読書感想文の悪夢を忘れることができません。お気付きのように、すでに長文甚だしく、日本語が幾分崩壊しております。タイトルだって「意味不明?」と思われている方も多いと思います。とはいえ、こんなところに私が登場しているのは、いかに挫折の連続である私でも通訳となりそれなりにやってこれたのかを反面教師として語り、才能ある皆さんに「これなら私でもイケる!」と思っていただくためです。(そしてもちろん、プロで大活躍中の方々にはちょっと気分良くなっていただければ幸いです。)

さて、一般の人々からしてみると通訳は、「すごいですよね、英語がネイティブみたい!」だとか「聴きながら話すなんて、いやーすごい!」と言わしめる仕事なわけですが、はたしてその凄い職業に就く方々っていうのはどのような語学の天才なのでしょうか?確かに英語も日本語も同程度にできるバイリンガルの方もいらっしゃいます。ただ第一線で活躍をしていらっしゃる方々の間でも、いわゆるバイリンガルの(厳密に2つの言語を同様のレベルで理解し、話せる)帰国子女やハーフの方々は少ないように思います。日本の同僚の方々も、私が教えているオーストラリアの通訳コースの学生も現地のプロの同僚も、明らかにどちらかの言語を母国語とし、英語あるいは日本語を外国語として学び、その上で通訳技術を習得している人が大半だと思います。もちろん、中にはほぼ完全なバイリンガルで、英語も日本語も惚れ惚れするような訳出の方もいらっしゃいますが。

では、皆さんどうやって通訳になられたのでしょうか?それはズバリ、「たゆまぬ努力」だと思います。元々言語能力が非常に高い方やバイリンガルの方であっても通訳技術を身につけるのは大変なことですし、仕事の度にひーひー言いながら準備をするなんてことは、好きでなければできません。ですから「たゆまぬ努力」の土台となる「好き」であることが絶対条件だと思います。「好き」である理由は何でもいいんじゃないでしょうか。「お金大好き!通訳は時給がいいから、報酬が他の仕事に比べていいから」でもいいし、同通の時の「アドレナリンの爆走がたまらん!」という理由でもいいし、お客さんから「今日の通訳は素晴らしかったと言われ、喜びのあまり号泣する瞬間が好きで好きでたまらない」、でもいいと思います。とはいえ、この好きである理由によって長続きできるかどうかは変わってきます。そこでもう一つ大事なことは「諦めないこと」じゃないかと思います。通訳になってプロとしてやっていくためには「好き」であるから「たゆまぬ努力」ができ、好きだから「諦めず」にやっていけるということが大事なんじゃないかと思います。

私は某通訳養成スクールの卒業生で、同じスクールで教えていたことがあります。合計で足掛け6年くらい在籍していたのですが、その間は非常に多くの人々が出入りしていました。半年毎に新しい学期が始まるのですが、毎回かなりの生徒が入れ替わりとなっていました。最終的にスクールの卒業生としてプロになるのは下手をすると、延べの生徒数百人に対して、数人くらいだったかもしれません。もちろん、これには地域差があると思います。首都圏などの大都市では、既に社内通訳をしてらっしゃるなど、通訳の経験を持ちつつ自己研鑽のためにスクールに通っていらっしゃる方も多くいらっしゃると思います。地方出身の私は、「スクールを卒業しないと通訳になれない!」と思い込んでいましたが、東京や大阪などでは少し状況が違って、すでにフリーや社内通訳として活躍しつつ、自己研鑽のために一時的にスクールに通うという方も多いように思います。

とはいえ、通訳としてデビューする前に方向転換なさる方が多いのは事実じゃないでしょうか。もちろんスクールに通うのは金銭面でも時間の面でもバカに出来ない投資ですし、それ以上に精神的に大変です。いつまでたっても聞き取れない英語は聞き取れないですし、英語だって上手く話せない。聞き取れず「ワケワッカメー???」と口をパクパクしてたら、隣にいたクラスメートがしら〜っと訳して先生に褒められ、「素晴らしい!」と思いつつも撃沈する、なんてことは毎回のようにありました。スクールの思い出は、自虐的な日々の思い出に他なりません。それでも何とか卒業して通訳デビューまで出来たのは、途中でやめなかったからだと思います(当然か!)。

では、そもそもなぜ通訳を目指したのでしょう。今プロで活躍している方に聞くと、十人十色の答えが帰ってくると思います。特に帰国子女というわけでなく、英語を外国語として学んできた人であれば、英語の専門職の頂点(!?)といえるような「通訳」という職業は、チャレンジしたいところかもしれません。英語を使ってバリバリ外国人とやりとりする姿や「一つの言語を聴きながら別の言語を話す」不思議な姿に憧れて通訳を目指したという人も多いでしょう。バイリンガルやそれに近い能力を持つ人であれば、”building on your strengths”ということで、自然に通訳の道を志されるかもしれません。そのほかにも「気がついたら通訳してた」という方も結構いらっしゃいますよね。で、冒頭にお話ししたように反面教師の私はというと、とにかくグオーっと暴走してたら通訳になってた、という感じです。

「挫折の連続」とか言っていますが実は大したことではありません。誰もが経験する程度のことです。一応大学院で修士ももらい、その後も適宜仕事をしてきています。なので、何もドラマチックな経験をしたわけではありません。ただ、中学時代はヤンキーもどき(非行少女になりきれないけど、単に目立ちたい人)で、せっせと校則違反に励んでいましたし、高校1年生の時はいじめを受け、退学を決意して母に説得を試み失敗に終わったこともあります。3年生のときは、あと遅刻1回で留年という危ない橋も渡りました(マジやばかった…)。当然、大学入試なんてちゃんちゃらおかしくって一切手をつけませんでした。でも、学生の身分のままで遊びたかったので、現代国語だけで受験ができる短大に行きました。で、半年も経たずにやめました。もっと幼い頃を振り返ると、幼稚園の年中さんの時に、お友達と通い始めたピアノ教室の先生から「もう来週から来ないでください」という退学処分を受けたこともあります。今から思うと、ピアノを買ってくれた祖母には悪いことをしました。女の子が生まれたら、ピアノを習わせるというのは良き昭和の時代の夢だったはずです。その後、ピアノは誰にも弾かれることなく、畳んだ洗濯物の置き場と化していました。約20年後、プロにチューニングをしてもらおうと後ろの箱の部分を開けて中をのぞいたら、ネズミが住処としていた証拠が大量に残されていました。家中の端切れを集めて巣を作っていたようです(祖母の着物の切れ端が多く、色とりどりで結構きれいでした)。

こんな風に、ダメな子ちゃんだったのですが、ピアノ教室をクビになった後は、代わりに水泳教室に通い、そこでシンクロナイズドスイミング(最近名称が変わって残念!)に出会いました。高校を卒業するまで夏休みも冬休みも返上で続けてきたこのシンクロナイズドスイミングが、私の体育会系の精神を育ててくれたと思います。また、短大をやめた後は美術の専門学校に入学したのですが、美術を学びはじめたことからインドを(ちょっとだけ)放浪することになり、この旅行をきっかけに英語を学び始めました。「シンクロ−体育会系−通訳訓練」の構図のお話しは、また今後のコラムに譲るとして、今回は通訳を目指すきっかけまでをお話ししたいと思います。

***

私がインドを旅したのは、1980年代の後半です。当時英語は一切、まったくもって、出来ませんでした。当時言えたのは、「どぅーゆーはぶあるーむ?」と「はうまっち」だけでした。相手が英語で何を答えてきても、こちらは「るーむ、るっくるっく。」とか言って、強引に部屋を見に行き、次に「はうまっち」と聞くわけです。答えが何でも、「のーのー。〇〇ルピーね。オッケーね!」と自分の言い値で押し切って部屋を確保していました。当然ながら、当時はインターネットも携帯もありません。地球の歩き方で何をするかを決め、コンサイス英和・和英辞書片手に渡り歩かなければなりませんでした。全く英語はできないとはいえ、まだ20歳を少し超えたばかりの怖いもの知らずですし、何と言っても日本人女性で一人旅なんて超レアな存在でしたから、現地の人たちが物凄く親切にしてくれました。2等列車の旅では、乗り合わせた現地の人たちが必ず自分たちお弁当を分けてくれましたし、病気になった時は、現地で知り合った日蓮宗のお坊さんが檀家さんに頼み込んで、そのお宅で数日間療養させてもらったこともあります。

言葉はカタコトでも、こちらは超レア物ですから、こっちが話せば現地の人たちは必死に耳を傾けてくれます。外国の人と話すというのは新鮮でしたし、何よりも、英語は受験科目ではなく「コミュニケーションツール」なんだということに気づいたのは、まさに目からウロコの体験でした。最近は使える英語に向けての取り組みが進んできたと思いますが、私が習った英語は、アルファベットを「ローマ字」と呼び、文章は「じすいずあぺん」調で読み切って、構文は全て文型で分析する、といったザ・典型的学校英語でした。当然、興味ももてず、中高の6年間、英語の教科書を開いたのは定期試験の前の2、3日だけだったんじゃないでしょうか。よくあれで高校が卒業できたなあと思いますが、中には秀才かつ寛大なクラスメートもいて、英作文の試験の時はいつも代わりに答案用紙を埋めてくれていました。(名前も忘れた〇〇さん、今でも感謝していますよ〜。)そんな典型的日本人が、ゴマ粒のような英語能力だけでインドを訪問し、地球の歩き方が教えてくれた「Do you have a room?」のフレーズだけで現地の人とコミュニケーションし、事前の計画もせずに好奇心の赴くまま、自由に行きたいところに行くことができたのは、今から思うと不思議な感じもします。

この旅行で何よりも大きな経験だったのは、「英語を話せない私」がインドでは「英語を話す私」になっていたことでした。とはいえ、話せるのは1フレーズだけです。6週間もインドを旅行していると、そりゃ書面では一般公開できない色々なことがありました。これはまた別のオフレコの機会に譲るとして、もう一つ、インドが私の人生を変えることになった大きな理由があります。

一人でバックパッカーをしていると、色々な人との出会いがあるのすが、他の旅行者との出会いもそのひとつです。前述しましたインドで出会った日蓮宗のお坊さんもその一人ですし、東京から来たというアーティストにも出会いました。皆でトランプをしているときに負けた者が隠し芸をすることになり、そこで「竹田の子守唄」を歌って皆を魅了した日本人女性もいました。ラクダの背中に揺られる4日間のキャメルサファリに行った時は素敵なドイツ人青年と出会い、束の間のアバンチュールも楽しみました。そんなある時、ジャイサルメールという城壁に囲まれた町の安宿で一人ベッドで休んでいると、中庭の方から旅行者たちの談笑が聞こえてきました。英語でしたし何を言っているのか全くわかりません。ただ時々、「Japan」だとか「Tokyo」といった単語が聞こえてくるのです。明らかに日本のことを話していて、私も仲間に入りたいと強く思いました。ただ、どうしても部屋を出て仲間入りする勇気が持てなかったのです。聞き取れたのは数個の単語だけ。彼らの話を白けさせてしまうだけじゃないか、そんな思いが私に冷や水を浴びせてしまったのです。それまで現地の人や、自分に興味を持ってくれる人との1対1の会話は、気持ちだけで何とか通じましたが、グループに入って同じノリでコミュニケーションする能力は全くなかったのです。中庭で楽しげに談笑する声を聞きながら、一人部屋の中でとても寂しい気持ちになりました。そして同時に、日本に帰ったら絶対に英語をマスターして、1年後にまた絶対にインドに戻ってきてやる!と固く決意したのです。

ということで、インドで「英語はコミュニケーションツールだったんだ」と気づいたことと、「英語をマスターする」と決めたことが、私の人生の大きな転換点の一つだったと思います。

ちなみに、あれほど固く決意していたにも関わらず、以来、インドには一度も行っていません。仕事でインド人の方に会うと、インドでの体験を話すことがあるのですが、いつも「君のインドは昔のインドだ。今のインドは全く変わっててびっくりするよ」と言われてしまいます。

インドに出会ったのはもう30年も前のことですが、インドは今でも私の中でキラキラと息づいています。若かったことと、インターネットも携帯もない世界で全てが体当たりだったことが、その後の多々の経験にも増して強いインパクトを残しているのだと思います。ずっとずっと大切にしていきたい思い出です。

ということで、今夜のディナーはバターチキンにしようと思います。

次回はもう少し通訳に近いお話というとことで、私の英語学習について「英会話はNOVAで!」でご紹介したいと思います。