【第9回】今日も苦し紛れ!放送通訳のブースから「~ 人称!人称!人称!~」
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10月下旬のこと。岸田総理が国会で所信表明演説を行いました。そこで述べたのが「経済!経済!経済!」です。私はこの3単語を聞いて真っ先に思い出したことがあります。時代をさかのぼることおよそ30年。イギリスのブレア首相が、”Education! Education! Education!” と連呼していたのです。大事なことを3つ並べて強調する。これぞ演説の要なのでしょうね。
というわけで、私の今回のタイトルは「人称」を3連呼しております。
なぜ大事なのか?これには私の熱い思いがあるからです。
通訳スクールで学んでいた頃、私は次のような指導を受けました:
「通訳者はすべての単語に忠実であれ。きちんと拾って訳すように。」
つまり通訳者は「何も足さず何も引かず」が大事である、というわけです。
私自身、納得がいきました。なぜなら通訳者は歌舞伎で出てくる黒子のような存在。勝手に言葉や概念を足したり引いたりすることはご法度。話者の後ろに黒子としてピッタリ寄り添い、イイタイコトを誠実に訳すことが一大任務だからです。
しかし!
この仕事を続けるにつけ、とある単語に悩むようになりました。それはI, he, she, youといった「人称」です。
何しろ1分間に入る英語の分量と日本語の分量では、英語の方が多くなります。ゆえにすべて和訳していると間に合わないのです。となると、省略できるところを大胆に省かないといけません。それが出来るのが日本語の場合は、「人称」です。何しろ、「聞き手が主語を勝手に想像してくれる」という便利な言語であるのが日本語。よって、「ワタクシ」「あなた」「彼、彼女」といった単語はガンガン切り捨てられます。
時短効果だけではありません。もう一つ大事なことがあります。それは、日本語の持つ雰囲気です。たとえば目上の方に「あなた」と言った場合、とても失礼になりますよね。以下は数週間前に米中首脳会談後の記者会見で、記者がバイデン大統領に投げかけた質問です:
“After today, would you still refer to President Xi as a dictator?”
これを忠実に訳せば、
「今日以降、あなたはそれでもなお習近平国家主席を独裁者と呼びますか?」
となります。
英文和訳試験の解答なら満点です。しかし、自分より目上・年上の方に面と向かって「あなた」とは言わないのが日本の文化なのです。よって、私自身はこの文章を本番で、
「今日以降、習近平国家主席を独裁者とお呼びになりますか?」
と訳しました。尊敬語を付ければ人称の訳は不要になるのです。
英日同時通訳の現場は、とにかく人称だらけです。偉い方々を「彼」「彼女」と訳してしまうと、何やら若者同士の恋愛を私など想像してしまいます。Youも同様です。たとえばお買い物中、店員さんから日本語で次のように声掛けをされたら、みなさん、どう思われますか?
「あなたは何かお探しですか?」
・・・おおっ!いきなり私のことを「あなた」呼ばわりする??
と身構えてしまうのではないでしょうか。
今やAI同時通訳の技術は飛躍的に向上しています。果たしてこのような微妙なニュアンスの部分を機械がとっさにくみ取れるかどうか。それとも、まだヒト通訳の判断力が勝るのか。このあたりも通訳アウトプットとして考える課題だと私は思っています。
できるだけ長く現役通訳者として稼働していきたい私としては、TPOを常に意識しつつ、最善な訳出をしたいと考えます。試行錯誤は続きます。
柴原早苗(しばはら さなえ)
放送通訳者、獨協大学非常勤講師。上智大学卒業。ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言、大統領就任式などの同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも担当。ツイッター(@Addington76)も日々更新中。