【第6回】通訳者としてお役に立つために

稲垣富美子さん

通訳はライブ!

通訳は「お役に立ってなんぼ」の商売だと思っています。

会議通訳者をしていると、この仕事はライブだと感じます。聴衆の反応からその場で、お役に立てているかどうかが実感できる職業です。そういう職業はあまり多くないのではないでしょうか。そして、この特質は恐怖にも大いなる喜びにもなり得るものです。

ある学会での通訳業務の終了後、通訳エージェントの方から「今日は通訳用イヤホンを途中ではずす聴衆がいなかった。前回はたくさんいた。」と言われました。この告白が会議の終了後で本当によかったです。先に聞いていたらお腹が痛くなっていたでしょう。その会議はQ&A以外は英語で行われており、基本的に通訳用イヤホンの利用者は日本語で発表を理解したい方々です。だからと言って英語を全く解さないという訳ではなく、日本語で聞く方が楽だからという方も多くいらっしゃいます。

つまり、日本語訳を聞いていても楽ではない場合に、前述のように「イヤホンを外して原語で聞く方々が出てくる」ということです。パートナーの通訳者が訳出している間はイヤホンで聞いていたのに、交替して自分が訳し始めたら次々とイヤホンを外す聴衆の姿が続出…。こんな状況を同時通訳ブースから眺めることになったらと想像するだけで、1リットルぐらい嫌な汗が出ます。これは恐怖以外の何ものでもありません。

では、大いなる喜びで仕事を終えるにはどうすればいいのか。私はたった一つの方法しか知りません。準備です。だから、精一杯準備をしてお役に立てるようにします。

備えあれば…。準備の切り口一考

様々な要素がありますが、準備のポイントについて次の切り口でまとめてみました。これは国際会議でもビジネス会議でも当てはまると思います。

  1. 聴衆を把握する。専門家か、一般聴衆か
  2. 発表者と主題に関する背景知識や関連情報を調べ、理解する
  3. 専門用語を調べ、用語集を作る。覚える
  4. 資料提供の有無を確認する。もらえるならいつ頃か。資料は何語か
  5. 発表者との事前打合せがあるか確認する
  6. 各発表者の言語を確認する。私の場合は日本語か、英語か
  7. その他

1が必要な理由は、専門家だけかどうかによって2以下の作業にも影響が出るからです。今回、このコラムを依頼された際にも編集部に読者層を確認しました。会議通訳の仕事でも同じことをします。専門家だけの場合は2の作業により多くの労力を割くことになります。なんと言っても、その場にいる素人は通訳者だけなのですから。特に初めての分野の場合、調べる情報も専門用語も増えます。その場合、準備を始めるタイミングを見極めることも大切です。ここで関わってくるのが4と5です。

当日の資料や関連論文などの参考資料を早めにもらえる場合、資料を待って開始する方が的を射た準備ができるでしょう。直前までもらえないことが分かっている場合は、会議の主題や発表者の名前をたよりに、資料を待たずに調べ始めます。担当する発表者の過去の動画を見つけられることもあります。発表者の話し方が分かるだけでも心の準備ができます。

初めての分野であっても、発表者と事前の打ち合わせが組まれていれば、自力で調べるのが非常に困難なことをリストにまとめ、当日確認することで準備を効率化できます。ここで肝要なのは本当に調べきれなかったことだけを質問リストにするということです。簡単に調べられることを尋ねるのは、自分の準備や理解が足りないことの証明となり信頼を得にくくなります。

発表者、聴衆、そしてクライアントから信頼を得ることは通訳者にとってとても重要なことです。そして、その信用は出会ったその場で得る必要があり、そのためには精一杯の準備をしていくしかないと感じています。通訳者がその場における唯一の素人、かつ部外者であるという必然に甘えてはいけないと思っています。

なじみのある分野の場合、タイミングが異なります。たいてい資料が出るのを待ってから準備を始める方が効率的です。過去に準備したものを手直しするだけで済むこともあります。

いずれの場合も提供される資料が大量になり得ます。その際は読み込む箇所の取捨選択が鍵です。時間的余裕、話題の熟知度、発表の通訳担当割などにより決めます。当日の訳出を助ける可能性の高低が基準になりますが、これについては直感と経験に依るところが大きいと思います。

6の「発表言語」は、用語集の構成を決めるためにも必要な事前情報です。一般的に左側に原語、右側に訳語、あるいは上段に原語、その下に訳語という形式が多いように思います。私は紙派ですが、パソコン派やタブレット派もいます。

この用語集の準備にも、実は1の「聴衆の把握」が関係しています。嗄声(させい)か、かすれ声か。例えば「糖尿病」という単語は「DM」で通じるのか、「diabetes」と言わないと通じないのか。漢語か、和語か。特に一般聴衆の場合には同音異義語で混乱させない、といったことも考慮して準備をします。

一般聴衆を対象とした同時通訳のお仕事の際、「宇宙塵」という単語が出てきたら、予め「宇宙の塵、宇宙塵」と言おうと決めていました。お分かりでしょう。「宇宙人」と誤解されかねないからです。

用語集はお手製の外部記憶

では、用語集はなぜ作るのでしょうか。

作成の過程で用語を記憶できるという利点もありますが、何よりも用語集は通訳者の外部記憶であり、保険でもあるからです。安心を買うのです。瞬時に適訳をマインドパレスから引き出せれば理想ですが、そうでない場合の保険として、すぐに訳語を見つけ出せるようにするためです。

用語集とは別に頻出語、固有名詞、略語などは付箋に書いてブースの壁に貼る、会議中に頻出した表現はメモをし、見やすいところに置く、ということもします。特に同時通訳の場合は聞く、訳出する、単語を探すという3つの作業を行うことになるので、見つけやすさが鍵です。

7の「その他」には「通訳者便利グッズ」と「職業病」をあげたいと思います。グッズについては同僚とよく情報交換をします。一人の通訳者が買って好評だと、あっという間に他の通訳者に広がります。また、愛すべき職業病も不可欠ではないでしょうか。日頃、訳せない言葉に出会ったら必ず調べる、素敵な表現は遠慮なく頂戴する習慣です。この職業病のおかげで何度か救われたことがありました。

効果的な準備 - それは永遠の課題

効果的で効率的な準備は私にとって永遠の課題です。ただ、通訳者として現場で貢献するためには何をしていけば良いのかという視点で考えるのは解の一つだと信じています。パスツールの“Chance favors only the prepared mind.”は大好きな言葉です。

稲垣富美子さん

Profile/

フリーランス会議通訳者。大学卒業後、公立高校の英語教諭となる。その後、レジャー関連企業にて企画担当、外国人ビジネスマン向け日本語コース講師、大手外資系企業でバイリンガル秘書等を経験。2000年、通訳者に転身。社内通訳者を経て2010年、フリーランス会議通訳者として独立。世界のビジネスリーダーの通訳を行う。通訳者養成講座講師としても活躍。