【第14回】通訳者こそ読まなければならない本があるんです

知念徳宏さん

言葉というものがその話者の個人的背景を背負って出てくるように、言語もまた、その言語圏の文化的背景を背負って成り立っています。そういうわけで、たとえA言語圏におけるある言葉が、A言語圏の人たちにとって琴線に触れるようなものであるからといって、それを他の言語圏から来た人々に、A言語圏に属する人と同じような感動を味わってほしいと思って通訳をしようとしても、なかなかうまい表現が見つからないということはしばしばあります。そこを何とか伝えたいと思って日々悪戦苦闘をしているのが私たち通訳者や翻訳者なのではないでしょうか。

このような言語の文化的背景を踏まえた表現を模索するのは、翻訳をする場合には訳出するまでに時間があるために、様々な検討、研究を重ねてより良い表現にしていくことも出来るのですが、(もちろん時間があればの話ですが…)通訳者となると現場ではなかなかそういった時間が取れません。このとっさの判断で適切な訳出ができるようにするためには、普段からそのような表現をどう訳出すればいいか、と見聞を広めることで自らの語彙力向上に努めることぐらいしか対応策はないのではないかと思います。

私も、通訳者の端くれとして普段から様々な会議を通訳していますが、その経験の中でも一風変わった、教会での説教の通訳についての経験を踏まえて、今回のコラムを書き進めてみようと思います。

言葉そのものの用法について

英語圏では、スピーチや、ちょっと気の利いた小話、またはものの喩えにおいて、聖書に書かれている言葉や表現、概念などが数多く用いられています。これは日本で中国の故事からくる四字熟語や、儒教や老荘思想の流れをくむ格言、ことわざなどが話の中でつかわれていることとよく似ています。ただ、本当のところはこのような聖書にまつわる比喩や格言をはじめ、それをもじったり、皮肉ったりした風刺や暗喩は、キリスト教の信仰を持つ人口が1%未満と言われている日本人通訳者にとってなかなかハードルが高いものではないでしょうか。

例えば、「猫に小判」という言葉を話者が使った際、それを英訳するときには何と言ったほうがよいのでしょうか。和英辞典などではよく、“Casting pearls before swine”(豚に真珠)などとされています。この表現が聖書からの引用であることは、通訳・翻訳に携わる方々は「そのぐらい常識でしょう」と言われるぐらいご存知かと思いますが、実はここに恐ろしい誤解が起こり得る可能性が秘められていることをご存じでしょうか。

この「豚に真珠」は、聖書に書かれているイエス・キリストの説教に出てくる表現ですが、これを全文引用すると以下のようになります。

「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(マタイの福音書7章6節)

「猫に小判」の猫の場合、小判を与えられたからといって与えた人の手に噛みつくことまではしないだろうと思いますが、この「豚に真珠」の豚の場合は「その真珠を踏みにじり、向き直ってあなた方を引き裂く」、つまり与えた大事なものを蔑ろにするばかりでなく、与えた人にも噛みついて危害を加えるぞ、とまで言われているわけです。

さらに、日本では、「猫」という動物は「猫かわいがり」という表現があるぐらい、愛玩動物として好かれている動物です。しかし、聖書の文化世界、ユダヤ人社会において「豚」という動物が同じような社会的地位を持っているかというと、実は全くそうではなく、日本人にとってのゴキブリよりたちが悪い、嫌悪の対象とでも言うべき肌感覚があるのです。なので、同じ動物といえども、映画のベイブのように「豚かわいがり」なんてことは「ゴキブリかわいがり」と同じくらいありえない話なのです。

この辺りの背景を考慮せずに、単に「価値の解らない動物に価値のあるものを与える」という表現が似ているからといって、話者が「もったいないこと」という意味で使った「猫に小判」を短絡的に「豚に真珠」と英語にするのは、少々気を付けた方がよいかもしれません。なぜなら、Judeo-Christian色の強い欧米文化圏、特にユダヤ人やアラブ諸国の聞き手の中の「豚」の持つイメージがあまりにも日本人にとっての「猫」のイメージとかけ離れているため、聞いている側にあらぬ誤解を与えかねない訳出となってしまう恐れがあるからです。そういうこともあり、そのような恐れがある場合には、あくまでも原文に忠実に、“Giving money to a cat”としてしまった方がよい場合もあります。

先ほどは、「英語圏では」と、聖書にある表現が欧米諸国だけで使われているかのように述べましたが、実は「豚に真珠」同様に日本にも多くの聖書からの引用が慣用句としてあります。しかし、結構な数の人たちが、それを聖書からの慣用句と知らずに使っている場合があるのです。

もう一つの事例を見てみましょう。「目から鱗」という表現はよくつかわれる表現ですが、ご存知の通り、これも聖書からの引用です。この表現は日本人の感覚としてはどことなく違和感があることから、外国から来た表現であることは大体想像がつきます。しかし、引用の際に何に着目されているかという点で、日本と欧米での視点が異なるきらいがあり、訳出が聖書からの直接的な引用になってしまう場合があります。

この場面は、使徒言行録9章18~19節に、「するとただちに、サウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。」と、イエス・キリストにつき従う信徒を迫害することに熱心だったパリサイ人というユダヤ教の熱心な信奉者が、改心するときの様子に出てくる情景で描かれています。

辞書などを見ていると、「目から鱗(が落ちる)」というのは “The scales fall from one’s eyes” と直訳されていることがあります。訳出としてはあながち間違いではないのですが、このような表現ではどうも焦点が「鱗が落ちたこと」に当てられていて、聖書で描かれていることの本質でもあり、この話の真意でもある、「(見えなかったものが)見えるようになる」が転じ、「誤りを悟る」、「改心する」ということと表現が少々ずれてきてしまうということが起こります。

この時に使えるのが、“eye-opener”という表現で、驚きと新しい発見という意味のほかにも、目が開かれる、つまり「目が見えるようになる」という意味が同時に取れることから、より適切な訳出になっていると言えると思います。個人的には、「目から鱗でした」なんて言うのを“The scales fall from one’s eyes”と長ったらしい表現にしたくないのが主な理由なのかもしれませんが(笑)。

聖書の話を知っていると、逆の場合にも実は重宝したりします。例えば、クライアントが「李下に冠を正さず」や「瓜田に履を納れず」などと、「古楽府」の君子行由来の金言を使ったとき、それを中国の格言や故事に必ずしも明るくないJudeo-Christian系の欧米文化圏から来た聴衆が聴いても、格言らしく聞こえるように訳すことが出来ます。

このような格言の訳出は、微妙なニュアンスまで自分の言葉で訳そうとすると、そのストーリーを知らない聴衆が理解できるようにしようとして、冗長な説明を加えざるを得なくなってしまうことが多いものです。しかし実はそういった類の格言は聖書に数多くあり、この場合には、「疑念を招くような行為は避けよと」いう戒めが本来の意味なので、欽定訳聖書のテサロニケ人への手紙第1の5章22節にある、“Abstain from all appearance of evil.” を訳に使うことですっきりと、しかも格調の高い訳出ができるのです。

文化的背景を知るという視点から

他にも、通訳とは直接的には関係は少ないかもしれませんが、様々な場面で出てくる言葉の言い回しにも、聖書に出てくる表現や概念があり、通訳者にとってこれを知ることは、話者の文化的な背景を理解するのに役立ちます。

例えば、ポパイが訛って言うセリフ “I yum what I yum!”(俺は俺だ! )も、Ralph Ellisonの小説、 The Invisible Manで主人公が焼き芋(yum)を食べる(yum)時に言う同じセリフも、“I am (yum) what I am (yum)”「俺は俺だ」と、(ホウレン草であれ、焼き芋であれ)「俺が食べるものを食べるんだ」とがひっかけられているということは、英語に通じていれば理解できます。しかし、Judeo-Christian文化圏の人にとっては、出エジプト記3章14節にある、アブラハム、イサク、ヤコブの神ヤーウェが荒野で燃える柴の中からモーセに語りかけた時に、モーセからの「あなたの名前を聞かれたらなんと答えればよいでしょうか」との問いに答えて、 “I AM THAT (WHO) I AM” (私は私だという者である)と言ったその神様の言葉に、実は不遜にもひっかけられているという理解がなされるのです。

人間にとって、「悪いこと」には少なからず心をくすぐる物があります。背徳のスリルを味わいながら作品を創り出す芸術家もまた同様にそれを表現しています。モーセを通して与えられた十戒の第3条、「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」(出エジプト記20章7節)という戒めを知っているのに、このような表現を使おうとする背景には、「音は似ているけど私は主の御名を唱えたわけではありませんよ~(てへぺろ)」という意識が働いているのです。しかし、それは「暗黙の了解」ということなので、たとえそれを追及されたとしても、「いやいや、そんな大それた恐ろしい事は露ほども考えていませんよぉ~」としらばっくれることが出来るようにするために、誰もそれを表だって口にはしないわけです。ですので、それを私がここでばらしてしまったことは絶対に秘密にしておいてくださいね(笑)。

このように、聖書を知ることで、欧米のJudeo-Christian文化圏の人々が、どのような意図をもってその言葉を話しているのかということに理解を深めることができます。

教会で説教の通訳をすることについて

さて、ここからは教会の説教を通訳するという話題に移りますが、これもまた説教をする牧師と通訳者には奇妙な一致があるのです。

もちろん、通訳者としてどのような通訳をしているのかと言うと、教会であろうが裁判所であろうが、パーティーであろうがどこでだって、通訳者のするべきことはただ一つです。説教の通訳でも、「クライアントが言った内容を変えることなく、相手に伝わるように他の言語で言い換えること」を通訳者として行っているわけで、教会での通訳だからと言って何も特段変わったことをしているわけではありません。ですから、「信者でないから教会での通訳はできない」というわけでは必ずしもないのです。

述べるまでもないことですが、通訳において、通訳者はクライアントの言いたいこと以外のことを勝手にしゃべるわけにはいきません。そんなことを故意にするのであれば、それはもはや通訳者ではなく詐欺師です(笑)。

まあ、パーフェクトでない人間(聖書の定義では、「的外れな=パーフェクトでない=罪」なので、要するに罪人)ですから、できるだけ罪を犯さないように、通訳者たるもの必死になって事前に準備をし、できるだけ不本意な誤訳をしないように努力をしているわけです。なので、そのようにきちんと準備を怠らず、真剣に通訳に取り組むのであれば、教会の説教で少々間違って通訳しても、人の罪を許してくださる慈悲深い神様は豊かに許してくださいます。逆に、シビアな世界で人間の通訳をするよりはむしろ、いくらか安心して通訳のできる現場なのではないかと思います(笑)。

通訳者と預言者との奇妙な関係

さて、このような通訳者の立場と、聖書に出てくる預言者や牧師(教師・指導者も含む)については、実は奇妙な一致があるのです。

聖書には、神様の言葉を伝達する役割(つまりメッセンジャー=通訳者としての役割)を仰せつかった預言者エゼキエルという預言者に対し、預言者の心得について神様は以下のように警告したと記されています。

「人の子よ。私はあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、私の口から言葉を聞くとき、私に代わって彼らに警告を与えよ。

もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。

もし、正しい人がその正しい行いをやめて、不正を行うなら、私は彼の前に躓きを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行った正しい行いも覚えられないのである。私は、彼の血の責任をあなたに問う。

しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。」(エゼキエル書3章17~21節)

なかなか生きるだの死ぬだの、生死を賭けたやり取りが描かれていますが、預言者や牧師は、神様から、「私の言うとおりにあなたが警告のメッセージを伝えなければ、警告をうけなかった相手はそのために死ぬが、その責任は警告のメッセージを伝えなかったあなたにある。」と言われているのです。

これのどこが通訳者と同じなのかといぶかしがる方々もいらっしゃるかと思いますが、通訳者のクライアントが医者だったとして、医者が患者に、「これこれの薬を指示通りに飲まないと命の保証はできませんよ」と言うのを、通訳者がそれを患者に伝えなかったために患者が死んでしまった場合、通訳者は責任を負う羽目になるというのと同じことではないでしょうか。そういうわけで、メッセンジャーとしての役割からいうと、通訳者と預言者や牧師との間には、奇妙な一致があるというわけです。なので、教会での通訳は、ある意味リレー通訳みたいなことになっているわけです。

他にも、箴言という聖書の中にある金言集には、このように書かれています。

「神の言葉につけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」(箴言30章6節)

先ほどの事例は「伝えるべきものを伝えなかった」事でしたが、ここでは、「言ってもいないことを勝手に付け加えた」という状況について話がされています。神様は、預言者や牧師、教師、指導者に対し、神様のお告げに勝手な付け足しをすることを戒めているのですが、ここもまた、通訳者がクライアントの言っていないことまで勝手に付け加えたりしてはならないという、メッセンジャーとしての共通の心得が書かれているわけです。

聖書にはこのように、通訳者として知っておいた方がためになる欧米のJudeo-Christian文化圏の表現や思想的背景が書かれているだけでなく、その立場を考えると、預言者や牧師(教師・指導者)にも通じている通訳者の心得についてまで知る事が出来るという、大変興味深い内容が含蓄されています。まあ、ちょっと長いので(笑)、お暇ができたときにでも一読されてみてはいかがでしょうか。

知念徳宏さん

Profile/

会議通訳者・翻訳者。ロゴスエージェンシー合同会社社長、カフェ・ライトハウスのオーナー。ニュージャージー州立ラトガース大学、ニュージャージー州立医科歯科大学毒物学科卒業。抗がん遺伝子、麻薬、抗がん剤関連の研究に従事。学外では地域の救急隊の救急隊長も務める。帰国後、教会で米国人宣教師の説教の通訳をする一方、高校教諭として海外進学コースを立ち上げる。

その後、JICE及びJICAで研修監理員/通訳者として10年以上、様々な分野(保健医療、農林水産技術、観光開発、水資源管理、エネルギー、IT、障害者福祉、他)の通訳を務める。現任教育による通訳者・翻訳者の人材育成の必要性を痛感し、2009年に会社設立、科学医療技術系をはじめ、様々な分野の通訳・翻訳サービスを提供している。