第8回 JACI特別功労賞 受賞者コメント 鈴木小百合

JACI特別功労賞受賞に際して
この度は名誉あるJACI特別功労賞に選出いただき、大変嬉しく思います。私は子供の頃から演劇と映画が好きで、その分野で仕事が出来ていることだけで十分満足しているので、このような賞は身に余る光栄です。
八歳の時に父の仕事の関係でオーストラリアのシドニーに移り住み、六年間現地の学校で学びました。初めはひとことも話せなかった英語を一年くらいで概ね話せるようになったのは、年齢的に一番言葉を吸収する時期だったからだと思います。
帰国する頃には英語は出来るようになっていた代わりに、日本語は小学二年の頃のまま。そのため、両親は私をインターナショナル・スクールに通わせました。ここでは、すべての授業が英語で、日本語は外国語として選択することに。
大学に入る頃には、インターナショナル・スクール特有の日本語と英語を混ぜこぜにした「チャンポン語」を話していて、周りからは奇異の目で見られていたようです。
国際基督教大学(ICU)に九月入学の帰国生として入った私は、四月入学の一般生が英語の特訓を受ける間、他の帰国生と日本語(特に漢字)を叩きこまれました。
昔から映画鑑賞が趣味だった私は、大学の授業を三日間にまとめて、他の日は映画館通いの日々を過ごしていました。この時期、映画館で年間250本くらいの映画を観ていたと思います。卒業論文には、山田洋二監督の「男はつらいよ」シリーズのフーテンの寅さんを題材に選んで、専攻のコミュニケーション学に結び付けました。
卒業後は映画に関わる仕事を、と漠然に思っていましたが募集はなく、テレビ局ではアナウンサーの募集しかなく、知り合いの紹介で広告代理店に就職。クライアントが外国人だった為、入社してすぐに通訳する機会がありました。しかし、広告代理店業について何も知らないまま会議で通訳を任されたときには、まったく話に付いていけず、大きな挫折を経験。ただ英語が出来るというだけで通訳は務まらないということを痛感させられました。
二年ほど在籍したのちに、代理店を辞め、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドと友人を訪ねて旅をしました。
帰国後、貯金を使い果たした私が仕事を探していると、大学の先輩からコマ劇場でのマジック・ショーの通訳の仕事を紹介されました。これが私の通訳デビューでしたが、駆け出しの私は、ここで様々な貴重な経験をさせていただくことになりました。演出家と振付師の喧嘩の通訳。翌日の仲直りの通訳。大勢のキャスト、スタッフの前での通訳。大変ではありましたが、皆が一つの目標に向かって一所懸命に舞台を創り上げるプロセスは心躍るものでした。仲直りの通訳をした際に、演出家の方が「君は心を訳せる通訳だ」と言ってくれたことが大きな励みになったのを覚えています。
コマ劇場の仕事が終わると東宝の舞台の仕事を紹介していただき、その後も次々と演劇の仕事が入るようになりました。実は、中学、高校、大学と私は演劇部所属で、仕事で演劇に関われるのは夢のようでした。イギリスからロイヤル・シェイクスピア・カンパニーやナショナル・シアターの一流の演出家が来日して、「レ・ミゼラブル」、「オペラ座の怪人」、「ライオン・キング」、「かもめ」、「十二夜」、「ベント」など数多くのミュージカルやストレートプレイの現場で通訳を務めました。
また、演出家の木村光一さん率いる地人会という演劇集団に、井上ひさし作「薮原検校」の英語字幕を依頼されたのもこの時期でした。この作品がエジンバラ国際演劇祭で最優秀演劇賞を受賞し、地元新聞に記事が出た際、「英語字幕が秀逸」と書かれたお蔭で、翌年のロンドンでのジャパン・フェスティバルでは水上勉の「離れ瞽女おりん」という作品の英語字幕を任されました。そのフェスティバルには劇団四季も参加していて、英訳者を探していたということで、その後、四季のオリジナル・ミュージカルの英訳を依頼され、何度も四季に出入りしている中で、(当時の)代表の(故)浅利慶太さんの通訳を頼まれるようになり、それから十年以上に渡り、浅利氏の通訳を度々担当することになりました。
またある時、友人がニューヨークからジョン・パトリック・シャンリィの戯曲本をお土産にくださったのをきっかけに、そのうちの一作「お月さまへようこそ」という作品を翻訳し、仲間と制作会社を起ち上げ、ジョン・パトリック・シャンリィ・シアターと銘打って年に一回のペースで三作の作品を上演するに至りました。
演劇以外ではコマーシャル・フィルムやテレビドラマの撮影時の通訳。そして、英語教材の英訳など色々と経験させていただきました。
このように様々な通訳・翻訳活動を続ける中、先輩通訳の船坂裕さんが映画の仕事を紹介してくださいました。1989年のことです。始まって間もない東京国際映画祭に多くの映画関係者が来日するため、十人ほどの通訳が集められたのです。根っからの映画好きの私は、公開前の映画を試写室で鑑賞できるということだけでも嬉しいのに、その後、監督や主演俳優から映画についてあれこれ聞けるという特典付き。この仕事はずっと続けたいと心に強く思ったのを覚えています。
それから36年。今もなおこの仕事を続けられていることが、自分でも信じられない気持ちです。元々、通訳を目指していたという訳ではなく、たまたま通訳の仕事を紹介していただいたのをきっかけに始めた仕事でしたが、ここまで続けば自分のライフワークだと思っています。
映画の仕事を続ける中で、過去に三回ほど仕事が途絶えてしまったことがあります。一回目は2011年の震災後。すべての来日がキャンセルになり、秋頃までその状態が続きました。
そして二回目は2020年からの世界的パンデミックのとき。やはり、すべての来日が中止になり、オンラインでの記者会見やインタビューにシフトし、22年には徐々に来日が始まり軌道に乗り始めたと思ったら、今度は俳優組合や脚本家組合のストライキでまたまた来日が中止に。ストで最初に中止になった来日がトム・クルーズ製作・主演の「ミッション・インポシブル:デッド・レコニング」という作品。来日する直前に中止が決まり、迎え入れる準備万端だった日本側は対応に追われました。
今年五月には「ミッション・インポシブル」シリーズの最終作と言われている「ファイナル・レコニング」のワールドプレミアが東京で行われ、トムはじめ、監督やキャスト六名が来日しました。初日は個別取材があり、夕方には都庁前でのレッド・カーペット・イベント。その後、日比谷のミッドタウンに移って舞台挨拶。二日目は六本木ヒルズで記者会見。六名が登壇するということで、会見は同時通訳で行われました。三人体制で臨みましたが、会見の八割強はトムが話すという展開に。トムの熱い思いを訳すのにこちらまで熱が入りました。
ここまで来る長い道のりの中で、多くの方々にお世話になりました。最初は私より年上の方々が多かった現場も、今では私が最年長ということがほとんど。演劇関係の方々、映画会社の方々、パブリシティ会社の方々、お仕事をご一緒させていただいたすべての方々にこの場をお借りしてお礼申し上げます。そして、最後になりますが、関根マイクさん初め日本会議通訳者協会に改めて感謝申し上げます。